文庫巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。
(解説:細谷 正充 / 文芸評論家)
なんて贅沢な本なんだろう。山本一力の『長兵衛天眼帳』を手にしたとき、まずそう思った。だって、長篇といっていい長さの物語が二話収録されているのだ。もちろん長篇として見ると、ちょっと短め。しかし現在では、この一話分よりも短い作品が、当たり前のように一冊の本で出版されているではないか。だから本書は長篇二作がいっぺんに楽しめる、お徳用ツインパックなのである。いやもう、読み始める前からサービス満点だ。もちろん内容も盛りだくさん。最初から最後まで、夢中になって読めるのである。
本書『長兵衛天眼帳』は、「小説 野性時代」二〇一三年二月号から一七年五月号まで連載。二〇一八年五月に単行本が刊行された。第一話「天眼帳開き」は、安政三(1856)年一月十一日の、気持ちのいい早朝から始まる。日本橋にある「村田屋」は、今年で創業百二十年の老舗眼鏡屋だ。当主の長兵衛は知恵者であり、親しくしている目明しの新蔵に頼まれると、家宝の天眼鏡を持ち出して、厄介事の謎解きに深く突っ込んでいく。今回、新蔵が持ち込んだのは、縄張り違いの事件だ。住吉町の裏店で、おとみという女性が殺され、やはり裏店の住人であるおさちという娘が、巳之吉という目明しに捕まった。しかし巳之吉の評判は悪く、おさちを下手人とした理由も弱い。ちょっとした繫がりから事件の報せを受け、おさちの無実を確信した新蔵は、自ら乗り出すことを決意。長兵衛にも協力を求めたのだ。その後、別の一件で村田屋を訪ねてきた、南町奉行所定町廻同心・宮本宜明も巻き込んで、新蔵は事件の真相を追う。
タイトルとは裏腹に、第一話の主人公は新蔵といっていいだろう。町のために尽くす、善良な目明しだ。そんな新蔵が、娘の無罪を証明しようと奔走する。おさちを下手人とした巳之吉の調べは杜撰であり、それだけに冤罪の恐怖が伝わってくる。縄張り違いのため、余計な手間暇をかけなければいけない新蔵の行動もストーリーを盛り上げる。しかも、何でもかんでも明らかにすればいいというものではない。事件の関係者の人生も守らなければならないのだ。法と情の狭間に着地点を見つけ、江戸の人々を守ろうとする新蔵と、その心意気に応える人々の言動に痺れる。
しかし人の心は、善きものだけで出来てはいない。巳之吉の使う下っ引きの蛾太郎は、雪降る夜に聞き込みを命じられると、長屋の連中を叩き起こして、布団を引っぺがすことに喜びを感じる。これもまた人の心なのである。作者は人の善性を信じながら、暗い部分から目を逸らすことはしない。だからこそ物語に厚みが生まれているのだ。
さらに真犯人が捕まり、事件が解決した後、長兵衛の真価が発揮される。新蔵から顚末を聞くと、安楽椅子探偵のように、犯人と被害者の気持ちを見抜くのだ。長兵衛が見抜くのは、事件の真相の奥にある、人の心の真実なのである。ちなみに〝天眼〟は、神通力により、見えないものをも見通す超人的な眼を、〝天の眼〟は、人の善悪を監視するという天の眼識を意味する。これにラストで長兵衛が新蔵にいう、
という言葉を重ね合わせれば、本書のタイトルに込められた想いが分かろうというものだ。常に作者は、人を見つめているのである。
続く第二話「真贋吟味」は、先に宮本宜明が持ち込んだ一件の話である。深川にある檜問屋「福島屋」の当主・矢三郎が急な病で死亡。矢三郎の弟で、深川の川並宿「岐阜新」の当主の新次郎が、兄の書残(遺言書)があると言い出す。その書残には、新次郎を福島屋の後見人にするとあった。しかし書残が偽物だと考えた福島屋の人々は、真贋の判定を依頼。かくして長兵衛が鑑定をすることになる。
長兵衛の天眼鏡は倍率八倍の拡大鏡である。これを使った、江戸のCSIともいうべき、長兵衛の科学調査が楽しい。とはいえ、やはり物語の眼目は人である。材木問屋の次男だが、ある体験から目明しになった幹二郎。矢三郎と懇意にしていた、米粒細工の親方の傳七。「福島屋」のために長兵衛たちに協力する人々との交誼が、気持ちよく描かれているのである。おまけに第一話で悪役だった巳之吉まで登場し、男気を見せてくれるではないか。作者は「本の旅人」二〇一八年六月号に掲載されたインタビューの中で、
確かに小ずるい奴だし、よこしまな気持ちからおさちを捕まえるんだけど、巳之吉も巳之吉なりのプライドを持っているんだよ。最初はただ厭(いや)な奴として登場させたんだけど、書いているうちに底にある男気が見えてきたんだ。誰かとのつながりで人間が変わり、その相乗効果で物語が動いていく。そういうダイナミックな働きを、今回あたらめて実感したね。
といっている。頭の先から尻尾まで悪に染まった人間など、そうそういるものではない。人とのかかわりの中で、厭な奴の善き部分が引き出されることもある。そのことを作者は熟知しているのだ。ゆえに山本一力の描く人々に親しみが湧き、彼らが織り成す物語に惹き込まれてしまうのである。
その他、本書にはお茶を飲み、菓子を食べるシーンや、煙草を喫するシーンが多い。これが登場人物の性格や、人間関係を巧みに表現している。一例を挙げよう。第二話で、幹二郎の女房のおきちが入れた茶を飲んだ長兵衛は、ひと口すすっただけで室町土橋の銘茶であることを見抜き、「土橋さんの焙じ茶ですな?」という。これで、村田屋長兵衛が日々どんな暮らしをしているか察した幹二郎夫婦は、彼に強い親近感を抱くのだ。人がどのような人生をおくってきたのか、いかなる生き方をしているか。飲食ほど、それが見えるものはない。山本作品全般にいえるが、人の描き方は繊細であり、読んでいてハッとさせられる〝気づき〟がいっぱいあるのだ。これもまた、小説を読む楽しみなのである。
なお来年(2021)には、シリーズ第二弾となる短篇集が刊行される予定だという。長兵衛と新蔵が、今度はどのような事件に立ち向かうのか。新蔵が、橋場の政三郎の作ったキセルを手に入れた経緯は明らかになるのだろうか。あれこれ考えながら、彼らと再会できる日を待ちたいのである。
▼山本一力『長兵衛天眼帳』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/322008000166/