ホメロスによって作られたとされる古代ギリシアの叙事詩『オデュッセイア』の中に次のようなエピソードがある。主人公オデュッセウスは、流浪の航海の途上、部下たちとともに一つ目の巨人キュクロプスに囚われる。部下たちが次々に貪り食われるのを見て、オデュッセウスは一計を案じる。巨人を泥酔させて彼の目を潰してやろう。ワインを献上され、酔っ払っていい気分になった巨人は名を尋ねる。オデュッセウスは自分の名は「ウーティスoutis(誰でもない)」だと答える。やがてオデュッセウスたちにたった一つの目を杭で潰されて、巨人は怒り狂って仲間たちに助けを求めるが、「俺を殺そうとしているのは〈誰でもない〉だ」というのを聞いて、他の巨人たちは笑い出し、馬鹿馬鹿しいと思って去ってしまう。そのあいだにオデュッセウスの一行は、無事に巨人の洞窟から脱出する。
もちろんこの「ウーティスoutis」を英語に訳せば「ノーボディnobody」になる。知恵者の英雄は、ノーボディという名とも言えない名を名乗ることで、正に誰でもないもの、そこにいない存在となって相手の裏をかいたのだ。
ニール・ゲイマンは『墓場の少年』で、「ノーボディ」という名を持つ主人公を誕生させた。彼の敵はジャックという謎めいた殺人者。ジャックは彼の家族を殺すが、家にいた赤ん坊だけが奇跡的にその手を逃れ、隣の墓地に迷いこむ。墓場の幽霊たちが同情して赤ん坊をかくまい、殺人者から守る。幽霊たちは彼に「ノーボディ・オーエンズ」という新しい名前を与える。愛称ボッド。オデュッセウスは敵を騙すために嘘の名前を名乗っただけだが、ノーボディの最初の名前は本人にだってわからない。
ノーボディという名前は、人でありながら人間社会に属しておらず、幽霊たちに育てられながら死者ではない彼のあり方を示しているだろう。彼は死者と生者の境界に立つ少年なのであり、その名にふさわしく、人間と幽霊の両者と交わりながら育っていく。
だけど神話や伝説に詳しい読者であれば、このパターンはどこかで知ってるぞ、と思うかもしれない。旧約聖書の指導者モーセ、ギリシャ神話のオイディプス、最近ではインド映画『バーフバリ』の主人公まで、彼らはいずれも乳児の時に殺害者の手から逃れるため連れ出され、家族以外のものに育てられた英雄だ。これは各地で普遍的に見られる「捨て子」型神話、貴種流離譚のひとつなのである。
これだけでもわかるように著者ニール・ゲイマンはさまざまな神話や伝承を自家薬篭中のものにして、自在に使いこなしながらこの物語を語っている。そればかりか、例えば第2章の地下墓所のイメージはル=グウィン『ゲド戦記2 こわれた腕環』のアチュアン神殿を思わせるし、トールキンの『指輪物語』をちらりと連想させる場面もある。この作品の下敷きの一つにキプリングの『ジャングル・ブック』があることは作者自身が言明しているけれど、他にも彼が少年時代から愛読してきた無数の名作ファンタジーのエッセンスが流れこんでいるのは間違いない。
それに何より、孤独で身寄りのない少年がこの世ならぬ異界に迷いこみ、いろんな師匠や友達と出会いながら成長していく物語を嫌いな人なんているのだろうか? それこそファンタジーの、また児童文学の王道中の王道ではないか。もしあなたがスタジオジブリの『千と千尋の神隠し』が好きなら(きっとそうだろうと思うけど)、この物語にもグッとくるはずだ。
そしてこの作品が気に入ったら、ぜひゲイマンの他の物語にも手を伸ばして欲しい。『グッド・オーメンズ』(テリー・プラチェットとの共作)は、天使と悪魔がハルマゲドンを食い止めようと大騒ぎするデビルマン(永井豪)meetsモンティ・パイソンといった感じの快(怪)作だし、『アメリカン・ゴッズ』はそれこそ世界中の神々が集結してのオールスター戦である。『コララインとボタンの魔女』は親から相手にされない少女の寂しさを描いて哀切、そしてゾッとするほど怖いけど、めっぽう面白いお話だ。
(この先、作品の内容に触れています。本文を読み終えた方のみ、お読みください。)
それにしても感心させられるのは、この作品において「名前」が果たしている役割だ。名前とはなんだろうか。通常、個人の名前は誕生とともに両親から与えられる。太郎や花子といった一人一人が持っている名前を哲学では固有名と呼び、「机」や「猫」や「スーパーマーケット」といった一般名と区別する。固有名は――それがどれほどありふれた平凡な名前であっても――この世界にたった一人しかいないこの人間を指し示す。いわばそれは親から子供への、あなたはかけがえのない特別な存在なのだという意味を込めた最初の贈り物なのだ。
一方、名前には特定の個人を社会に登録し、コントロール下に置くという役割もある。典型的には戸籍だが、学校に行くようになったら、出席簿が作られ、教室で毎日名前が呼ばれるということを想起してもいい。最初に述べたように、ボッドにはノーボディという「仮の名前」しかなく、親からもらった名前を持っていない。だから学校にも、いるのかいないのかわからないような生徒としてしか通えない。社会的な意味で、彼は存在しない。
では、彼を守り、育てる墓地の幽霊たちはどうだろうか。彼らはボッドと対極的に、名前しかない存在だ。彼らは肉体(ボディ)を持たない。彼らにあるのは墓石に彫り込まれた碑銘、つまり死んで硬直した文字だ。その文字のように彼らは変化しない。でもその文字しか彼ら幽霊には存在の根拠(あるいはかつて生きていた証拠)はない。
だからこそ、生きている間は差別され、死んでも墓さえ作ってもらえなかった魔女のライザにボッドがお手製の碑銘を作ってあげる第4章のエピソードがあんなに感動的なのだ。ボッドは本能的に、幽霊たちにとって墓石に刻まれた名前がどれほど大切か理解している。
名前しか持たない幽霊たちが、名前はないけれど、代わりに輝かしいいのちそのものであるような赤ん坊を拾って育て上げる。『墓場の少年』はそういう物語なのである。ライザは言う。「墓地にいるあたしたちは、あんたに生きててほしいと思ってる。あんたのすることにびっくりしたり、がっかりしたり、感動したりしたいの」。ボッドを墓場の住人たちが愛し、力を貸すのは、赤ん坊から少年へとたえず変化していく彼の姿にかけがえのない生命そのものの本質を感受するからにほかならない。
だがこの作品にはもう一つ、特殊な名前が存在する。ボッドをつけねらうジャックだ。彼はボッドの家族を殺した犯人だが、どうも彼以外にも多数のジャックがいるらしい。彼らは〈ジャックス・オヴ・オール・トレイズ〉という秘密組織の一員であり、エジプトでピラミッドが作られた時代から脈々とジャックの名を継いできたらしい。とすると、この「ジャック」という名も通常の固有名とは言えないのではないだろうか。アメリカ合衆国では、身元不明の死体をジョン・ドゥと呼ぶことがあるそうだが、この作品でのジャックも、同様の誰であってもよい匿名としての名前ではないだろうか。
誰だってジャックかもしれない。誰の心にもジャックが潜むということだろう。ジャックは警察や役所にも平然と紛れているばかりでなく、どうやら平凡なビジネスマンのような姿をしているらしい。ジャックとは何なのだろう。富や権力のために他人を平気で蹂躙して恥じない精神のことだろうか。
本質的な意味では名前を持たないボッド、死んだ名前しか持たない幽霊たち、そして匿名の悪しき力を象徴するジャック、この三者が絡まり合いながら物語は進んでいく。もちろん、ほかにも魅力的なキャラクターが登場する。葦毛馬の貴婦人や普通のおばさんでありながら神の猟犬だというミス・ルペスク、それに何よりボッドの人生の師サイラス。彼らが何者なのか、考えるのも楽しい。
ニール・ゲイマンの魅力はいろいろあるけれど――先にも述べた、古今の神話・物語を巧みに換骨奪胎してみせる手際とか――中でも最大のものは、寄る辺のない少年少女が、広大な世界に対した時の寂しさ、切なさ、そして勇敢さが生き生きと描かれていることだと思う。その代表的な一冊として、『墓場の少年』は少年少女たち、そして思春期の気持ちを覚えている大人たちの心をこれからもつかみつづけていくはずだ。
書誌情報はこちら≫ニール・ゲイマン(訳:金原 瑞人)『墓場の少年 ノーボディ・オーエンズの奇妙な生活』
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