『瑠璃の雫』(角川文庫・2011年)巻末に収録されている「解説」を特別公開!
大切な〝なにか〞を喪失してしまった者にもたらされる、真実と希望――。
デビューからの三作で、そんな、読み終えてなお胸の奥に熱を咲かせ続ける物語を真摯に紡いできた期待の実力派――伊岡瞬。
本作『瑠璃の雫』(二〇〇八年六月/角川書店『七月のクリスマスカード』を改題)は、第二十五回横溝正史ミステリ大賞とテレビ東京賞をW受賞したデビュー作『いつか、虹の向こうへ』、『145gの孤独』を合わせた〝初期三作〞の最高傑作である。そして、新境地を開いた注目の連作青春ミステリ『教室に雨は降らない』への兆しを感じさせるとともに、この世界でもっとも尊い〝真実〞を示して、読み手に〝希望〞をもたらす感涙のミステリである。
母と弟の三人暮らしの小学六年生――杉原美緒は、年齢の割に大人びた態度を取る少女だったが、それは複雑な家庭環境が大きく影響していた。父親は自分たちを捨てて新たな家族を作り、母親は重度のアルコール依存症で入退院を繰り返してばかり。喫茶店『ローズ』を経営する母の従妹――吉岡薫の支えがなければ、とっくに生活は破綻していただろう。
そもそもこの家庭不和の原因は、三歳下の弟――充にあった。三年前、親の目の離れている間に、ベビーベッドで寝ていた生後十カ月の末の弟――穣の頭を押し付けて、窒息死させてしまった悲劇。いまよりもさらに幼かった充にもちろん当時の記憶はなく、いまや自分の犯した罪のことなどなかったかのように振る舞う無邪気さは、ときに殺意を覚えるほどの疎ましさとなって、美緒の心を逆なでた。とはいえ、美緒のなかから完全に家族の情が消えてしまったわけではなく、充がいじめられていると知れば、その相手を見つけて釘を刺すこともあった。
夏休みのある日――。美緒、充、薫の三人が『ローズ』にいると、杖をついた初老の常連客――元検事の永瀬丈太郎が現れる。広い屋敷に不自由な身体のひとり住まいで、ペーパークラフトを趣味にしている永瀬に対し、薫は、充にペーパークラフトを教えてあげて欲しいことと、美緒と一緒に屋敷の掃除をすることを申し出る。それから、屋敷に通う日々が続くなかで、美緒は永瀬のひとがらと気遣いによって、頑なに閉ざしていた心を少しずつ開いてゆく。ところが、そんなやすらぎに、永瀬に接触してくる不審な若い男の存在が影を差す。そこにはどうやら、かつて永瀬が長野地検松本支部在籍中に起きた、いまだ迷宮入りとなっている、幼いひとり娘――瑠璃の誘拐事件が関係しているらしい。
数年後、成長した美緒は〝ある出来事〞をきっかけに、瑠璃の事件について調べを始める。ついに事件に隠された歪んだ人間関係と衝撃的な真相を突き止めた美緒だったが、さらにそこから、美緒自身の暗い過去に秘められた、あまりにも哀しい真実に立ち向かうことになる――。
物語は、美緒と永瀬の邂逅に触れる第一部、瑠璃の誘拐事件を描く第二部、そして、美緒と永瀬それぞれの抱えていた〝謎〞が明らかになる第三部という構成となっている。
少女と初老の男が出逢ったことから、それぞれの忌まわしい過去が呼応し、驚くべき事実が浮かび上がる重奏的な作りは大変凝っていて、物語の奥行きと読み応えは、間違いなく伊岡作品随一といえる。また、エピソードを前後させて読み手を惹き付け、場面や台詞の印象をより強くするあたりも大きな効果を挙げているが、もうひとつ特筆すべき点として、巧みな〝違和感〞の使い方を挙げておきたい。第三部において、多くの方は読み進めるうちに、それまで当然のように描かれていたものの〝不在〞に気が付くはずだ。そして、「いったいなにが起きたのだろう?」、「この先で、どんなことが提示されてしまうのだろう?」、「まさか、あの場面のあとに……」と、大いに気を揉みながらページをめくることになるに違いない。この含みを持たせた展開の効果は極めて大きく、それゆえに、ある意味物語のなかでもっとも深い傷を負ったであろう人物の放つ〝赦し〞の言葉が、美緒の激しい怒りと後悔にまみれた心を清め、かつてもらった季節外れのクリスマスカードの記憶を思い出す場面は、だれしも熱い熱い涙があふれるのを禁じ得ないだろう。
演出的な話に続いて、主人公の描き方にも触れておきたい。
『いつか、虹の向こうへ』の元刑事――尾木遼平、『145gの孤独』の元プロ野球投手――倉沢修介、いずれの主人公も事件や事故をきっかけに職を辞し、それぞれに大切なものを喪失してはいるものの、暮らし向きを変えることで、なんとか社会の片隅に生きることはできていた。だが、美緒の境遇は違う。小学六年生の少女には、どれだけ本人が望もうとも、家族から逃げることはもちろん、だれかに依存せずに生きることすら叶わない。そんな逃げ場のない絶望のなかで、両親に失望し、家庭不和の原因である弟を憎み、それでもなお〝家族の情〞を捨てられない苦しみは、幼い心が背負うにはあまりにも重過ぎる。ゆえに、自らの心の拠り所が定まらず、ひとへの信頼を抱けない少女の姿は、前述の主人公たち以上に痛々しく、読み手の心に深々と突き刺さる。
それでも、である。美緒は決して弱い存在ではない。
彼女は幼いなりに、自らの足で踏ん張って、大人の偏見や不都合のなかで戦ってみせる。「子どもとは、社会のなかではなにもしていない、なにもできない弱者」として括りたがるのは、大人の抱きがちな悪癖のひとつだが、伊岡瞬はこうした小さな懸命さを決して見過ごしたりはしない。と書けば、もしもあなたが『教室に雨は降らない』を読了されているなら、冒頭近くで述べた〝新境地を開いた注目の連作青春ミステリ『教室に雨は降らない』への兆しを感じさせる〞といった意味を汲み取っていただけるのではないだろうか。
公立小学校で臨時教師として働くことになった二十三歳の青年が、トラブルに巻き込まれながら生徒たちと向かい合い、子どもたちそれぞれなりの懸命な生き方に触れることで、山積みの教育問題の前に呆然としながらも、教師という仕事に希望を持って進んでいく――あの物語に連なる部分が、本作には確実に存在する。未読の方は、ぜひ本作を読み終えたあとにお手に取っていただきたい。ちなみに、この『教室に雨は降らない』は、まず第一話「ミスファイア」が第六十三回日本推理作家協会賞短編部門候補作に、そして翌年、第六十四回日本推理作家協会賞長編および連作短編集部門の候補作としてノミネートされている。
最後に、本作を単行本『七月のクリスマスカード』でお読みになられた方へ。
じつは今回の文庫化にあたり、いくつか加筆訂正が施されているのだが、その最たる部分として、単行本では詳らかにされなかった瑠璃の誘拐事件の〝真相〞が加筆されている点を強調しておきたい。これにより、あの事件に対して「こんなことのために瑠璃は――」という激しい怒りと寒々しさがいっそう強く感じられ、また以前とは違った印象でこの物語を味わうことができるだろう。
▼伊岡瞬『瑠璃の雫』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/201103000117/
*掲載にあたり、一部修正を加えました。