小説の読み方には、およそ三つのアプローチがあります。ひとつは、ひまつぶしのための娯楽として、何も考えずに、ただひたすら物語を追いかけて、読後に「ああ、おもしろかった」(または「つまらなかった」)とため息をつく興味本位の読み方です。ミステリーの読み方としては、これが最も普通で基本的な読み方だといっていいでしょう。私は毎年百冊前後のミステリーを読みますが、そのうち九割まではこういう読み方をしています。そして三日もたつと、何を読んだか忘れてしまいます。でも、それでいいのです。ミステリーはエンターテインメントで、エンターテインメントの原義は「自己励起」ですから、今日たのしく読んで明日へ向かう心の糧を得られれば、それで十分なはずです。
もうひとつは、作品の背景となる時代や社会、日本の文学史やその作家の作品史に占める位置、そこに込められた作者のメッセージなどに注意しながら読み進める批評的な読み方です。私は長らく文芸批評の仕事をしていますので、書評や解説を頼まれたときには、大体こういう読み方をします。途中で参考資料を調べたり、必要な箇所に付箋をつけたりしますので、読み終わるまでに時間がかかりますが、そのかわり、一度読んだら忘れないという効用があります。
三つめは、小説の構造やつくり方そのものを記号学的に研究する読み方です。これはナラトロジー(物語論)、テクスト分析などと呼ばれるもので、ジェラール・ジュネットの『物語のディスクール』(一九七二)が出てから欧米でさかんになり、日本でも近年、関連の研究書が出るようになりました。そこでは芥川龍之介や太宰治の小説が作品分析のテクストに使われることが多いのですが、私は赤川次郎氏のミステリーこそナラトロジーの絶好のテクストだと考えており、最近『殺人の詩学、あるいはミステリーにおける「語り」の研究』という本を書き始めました。
繰り返しになりますが、ミステリーは基本的には娯楽のための読み物ですから、たのしく読んでたのしい気分になれればそれでいいので、研究や分析は余計なお節介というものです。特に赤川氏のミステリーは能書き不要、黙って読めば十分たのしめるように書かれています。しかし、たとえばおいしい料理を食べるとき、食材や栄養価や調理法などを知っていれば、それだけ味わいが深く感じられるように、こうした解説にも小さじ一杯程度の効能はあると信じて、以下、蛇足を承知の駄文をつらねることにします。
さて、この『三毛猫ホームズの降霊会』は、二〇〇三年十二月から二〇〇四年十一月まで「小説宝石」に連載されたあと、二〇〇五年一月に「カッパ・ノベルス」の一冊として光文社から刊行されました。赤川氏の四百六十一冊目の著書にして「三毛猫ホームズ」シリーズの第四十一作、角川文庫では四十一冊目の「三毛猫ホームズ」です。
この作品が書かれたころ、日本のミステリー界は「トラベル・ミステリー」と「新本格」の時代をへて「警察小説」のブームを迎えようとしていましたが、赤川氏は「三毛猫ホームズ」「幽霊」「三姉妹探偵団」など二十数種のシリーズを書き分ける一方で、新たに初の時代小説「鼠」シリーズを書き始めていました。作家として最も脂の乗りきった、円熟の時代だったといっていいと思います。
ミステリーには、さまざまな「語り」と「視点」の形式があります。最も多いのは、語り手が物語の外にいて、客観的にできごとを語る三人称多元描写ですが、コナン・ドイルの「シャーロック・ホームズ」シリーズのように、作中人物のひとり(ワトスン博士)が語り手をつとめるケースもあれば、レイモンド・チャンドラーの「フィリップ・マーロウ」シリーズのように、語り手が主人公を兼ねるケースもあります。
赤川氏もシリーズによって、さまざまな「語り」の形式を使い分けていますが、この作品では、最も一般的な三人称多元描写が採用されています。三人称というのは、作中人物を「私」や「あなた」ではなく、「彼」または「彼女」として客観的に描く形式、多元描写というのは、物語の視点が複数の作中人物の上に置かれているという意味です。
この作品の語り手(=作者)は、物語の外にいます。作中人物の一挙手一投足を見逃さず、彼らの心の中にも自由に立ち入ることができます。その視点はまるで神様のように何でもお見通しなので「神の視点」と呼ばれています。つまり、この作品は「神の視点」によって語られた三人称多元描写のミステリーということになります。
「神の視点」は、しかし、いつでも公平に作中人物の上に注がれているわけではありません。そのとき語り手の視線の中心にいる作中人物を、ナラトロジーでは「焦点人物」といいますが、この焦点人物が「語り」を代行する場合も少なくありません。 たとえば、この作品の「プロローグ――宴の空白」の冒頭部分。
その日は「仏滅」だった。 「だからあんなことが起ったんだ」 とは無責任な言い方だったが、「仏滅」ゆえに、宴会場フロアが、その日は他に披露宴などもなく、閑散としていたという要素は重要だった。 小さい子供もいるから、と夕方から始まった宴は、二時間たって「一線を越えた」。 「アルコールは控えて」 という良子の願いを、夫は自らアルコールのせいで忘れてしまったのだ。
ご覧のように、「一線を越えた」までは明らかに「神の視点」で語られています。「だからあんなことが起ったんだ」という無責任な発言者は誰だったのか、また「一線を越えた」というのは誰かの発言の一部なのか、それとも語り手(=作者)による一種の強調表現なのか、これだけではよくわかりませんが、それを全部ひっくるめて、ここまでは物語の外にいる語り手の「語り」になっています。 ところが、次の「アルコールは控えて」で良子に語り手の視線の焦点が合うと、以後はもっぱら良子の視点から事件発生までの経緯が語られることになります。つまり、ここでは良子が語り手を代行するわけです。
本文に入って片山兄妹とホームズが登場すると、焦点人物は片山義太郎に移り、義太郎がいない場面では、妹の晴美が語りを代行します。ホームズが焦点になる場面もありますが、彼女は残念ながら人語を解しても人語を話すことはできないので、焦点人物と呼ぶわけにはいきません。
その名も「1視線」と題された冒頭の劇場の場面で、義太郎の中学時代の同級生で霊媒師の柳井幻栄、良子の夫でH商事社長の菱倉矢一郎が登場し、さらに「4婚約」の場面で菱倉一族とその関係者が勢揃いして物語が動き出します。いずれも個性的で、ひと癖もふた癖もありそうな顔ぶれですが、作者は短い会話を通じて、彼らの性格を実に手際よく描き分けていきます。世にミステリー作家多しといえども、こうした集合場面の描写の巧みさにおいて、赤川氏の右に出る作家はいないといっていいでしょう。
登場人物が増えるにつれて、焦点人物もめまぐるしく入れ替わりますが、その焦点移動はきわめてスムーズに、しかもさりげなく行われますので、めったに読者の意識に上ることはありません。にもかかわらず、それが物語の快適なリズムとテンポと躍動感を生み出し、読者の読書意欲をかき立てます。このように、ページをめくる手を休めさせない物語とその作者のことを「ページターナー」といいますが、赤川氏のページターニングの秘密は、どうやら、この焦点移動の巧みさにあるといってよさそうです。
この作品に限りませんが、赤川氏のミステリーでもうひとつ注目したいのは「――」という記号の使い方です。業界用語で中棒ともダーシとも呼ばれるこの記号を最初に意識して使い始めたのは、私見によれば芥川龍之介で、名作「鼻」や「藪の中」では特に効果的に使われていますが、赤川氏はそれをさらに進化させて、さまざまな場面で効果的に使い分けています。
たとえば前出の「プロローグ」の一場面。
結婚して二年後、七重が生れた。――お産のときは帰国していたが、半年で夫の任地へ戻り、後は年に二、三度の帰国……。 ――正直なところ、結婚前に聞かされた 「酒乱の家系」という言葉を、良子はほぼ 忘れかけていた。 この日までは。
最初の「――」には、「結婚式は海外で。その後も、夫、矢一郎は海外勤務が続き、良子はずっとそれについて歩いた」という前文を承けて、ただしお産のときには帰国していたという逆接の意味が込められています。それに対して二番目の「――」には、いろいろなことがありすぎて、その言葉を記憶しておく心の余裕がなかったという、良子の後悔と反省の思いが込められています。
また、たとえば「1視線」の冒頭、オペラの第一幕が終わった場面。
――ロビーは、休憩時間にシャンパンの一杯を、という客でにぎわっている。 片山はホームズを下ろすと、 「けとばされるなよ」 「ニャー」 ホームズはロビーの隅の方へ行って、静かに外を眺めている。 「あら、猫。――オペラを見に来たのかしら」 と、女性たちが面白がっている。 片山は大欠伸をした。 オペラが退屈というわけではない。前の晩、二、三時間しか寝ていないのだ。 ――片山義太郎は、警視庁捜査一課の刑事である。
最初の「――」は片山が観客席からロビーへ出た場面で、それまでの時間と距離を省略したことを意味します。会話のなかの「――」は、一瞬の戸惑いによる「間」を示しています。最後の「――」は片山の寝不足の理由を説明すると同時に、ここからいよいよ本筋に入りますよという物語の展開を予告するもので、昔の時代小説でいえば「閑話休題」にあたるところですが、赤川氏はそれを「――」一本で省いて、お話をさっさと前へ進めます。つまり、この「――」もまた、赤川式ページターニングの秘密のひとつなのです。
こうして見てくればおわかりのように、赤川氏は現代ミステリーにおける最良の語り手のひとりです。その語りの巧みさは、芥川龍之介や太宰治に比肩するといっていいでしょう。とはいえ、物語は語り手だけでは成立しません。良い聞き手がいなければ、彼は良い語り手にはなれないのです。いま本書を手にしているあなたは、きっと良い聞き手のはずです。どうか心ゆくまで名手の語りに耳を傾けてください。