本書『鬼談』は、京極夏彦が怪談専門誌「幽」誌上で二〇〇六年十二月から十余年にわたり書き継いできた、通称〈「 」談〉シリーズ――『幽談』(二〇〇八)『冥談』(二〇一〇)『眩談』(二〇一二)に続く四冊目の短篇集として、二〇一五年四月にKADOKAWAから刊行された(ただし、すべてが「幽」掲載作ではなく、他の媒体に発表された作品および単行本化に際して書き下ろされた作品も一部含まれている)。
弁当箱本とも称される大長篇や共通のキャラクターが登場する連作を得意とする著者には珍しく、このシリーズは一話完結形式の純然たる短篇集であり、新境地を拓く意欲的な試みとして、従来のファン層はもとより、海外文学や純文学も含めたコアな幻想文学系の読者からも注目を集めてきたことは、ここで再説するまでもなかろう。
こうしたスタイルが採られるに至った要因としては、やはり発表媒体が、怪談文芸を標榜する専門誌であることが大きかったように思われる。
……などと他人事のように云ったが、「幽」での連載開始にあたり、「今度こそ、怪談小説を是非!」とお願いしたのは、同誌の編集長(現在は編集顧問だが何故か業務内容は同じ)を務めていた私である。「今度こそ」とは、それまで「幽」には「旧耳袋」(単行本化に際して『旧怪談』、文庫化に際して『旧談』と改題)と銘打つ、きわめてトリッキーな連載をお願いしていたからだ。怪談実話の一源流となった江戸の随筆集『耳袋』(根岸鎮衛著)所載の諸篇を、現代怪談実話の雄『新耳袋』(木原浩勝・中山市朗著)を彷彿させる文体で再話するという、これはこれで著者にしかできないし、そもそも余人には思いつかないだろう卓抜で有意義な試みであったと思う。そうはいっても当方としては、やはり京極夏彦ならではのオリジナルな怪談小説を、日本で唯一の、というか世界的にもあまり例を見ない、怪談文芸専門誌に書いていただきたいし、何より自分自身が読みたい。
「これは私のみならず『幽』読者に共通した切望にほかならないのです!」
「分かりました。とはいえ、怪談はハードルが高いので、『幽談』でいきましょう。『幽』に書くのだし(笑)」(大意)
……かくして、〈「 」談〉シリーズは幕を開けたのだった。
「怪談はハードルが高い」という表現は、京極が怪談について語る際、幾度となく口にしてきた決まり文句である。そこには、この分野に対する敬愛の念と同時に、並々ならぬ思い入れの深さが感得されるのだが、事実、鮮烈な作家デビューからさほど時を経ずして収録されたインタビューの中で、すでに次のような発言がなされているのであった。
京極 (略)それから今後は怪談も書きたいです。怪談を捨てておけないなと思ったのは、怪談も今瀕死だと思うからです。日本の怪談にはかなり優秀なもの、あるいは感銘を受けるものがある。けれども今日本の怪談をどなたかがお書きになっているかというと、おそらくあまりないんじゃないかなと思うんですよ。モダンホラーの秀作などはあるんですけれども、本当の意味での怪談というのはとぎれているのではないかなと思うので、及ばずながら妖怪と一緒に怪談の復興もしたい。(略)ただ私に、どれだけ怪談を書く力量があるかはまだ分からない。怪談は文学としてはレベルが高いですからね。
(「幻想文学」第四十四号掲載「妖怪小説の復権をめざして」/一九九五年四月収録)
「文学の極意は怪談である」という文豪・佐藤春夫の名文句を想起しつつ、内心、「こいつは面白いことになってきたわい」とほくそ笑んだことを、懐かしく想い出す。おっと、申し遅れたが、このときインタビュアーを務めたのも、当時は「幻想文学」の編集長だった私である。今をときめく新本格ミステリの新星が、妖怪はまだしも、なんと怪談の復興にまで意欲を燃やしているとは……予想外の嬉しい驚きだった。
さるにても思いかえせば、一九九九年の「怪談之怪」(メンバーは京極夏彦、木原浩勝、中山市朗、東雅夫)結成、二〇〇四年の「幽」創刊、二〇〇六年の「『幽』怪談文学賞」創設等々、その後の二十余年におよぶ、われらが「怪談復興」の流れは、すべてがこのときの面談に起因するかのごとくではないか。おそるべし嗚呼おそるべし。
ところで、右のインタビュー中には、本書を読むうえでも大いに参考になりそうな注目発言が、もうひとつあった。著者の持論である「怪談理論」をめぐるくだりだ。
京極 因果応報など怪異に対する何らかの理由付けを前面に出した書き方をされたものは、怪談ではなくて、因果話です。怪異の説明がされてしまう。だから「四谷雑談」は怪談ですけど、『四谷怪談』は厳密な意味での怪談じゃない場合が多いんですよ。ただ鶴屋南北はやはり上手くてですね、怪談でない因果話を絡めながらも、最終的には因果を無視して、すごい結末を作っている、そこが怖いんですよね。怪談は怪しい話ですから、理由はいらないんです。(略)怖いものを怖いものなりに何の説明もなしにボンと見せつけてやる文学というものは、あるべきだろうと私は思います。それを微力ながらも、やっていければなと思っているんです。
いかがであろうか。すでに本書を読了された方ならば、さてこそ! と得心されるに違いない。怖いものを何の説明もなしに、いきなり見せつける文学――その紛うことなき実例が、本書に収められた短篇にはふんだんに見いだされるのだから。こんな証言もある。
宮部 どの短篇もラストの一行がとっても怖いんですよ。「鬼情」にしても、「鬼慕」にしても、それまで張り詰めていた氷に、ぴしっとひびが入る瞬間のような怖さがある。「鬼気」のラストでお母さんが言う「お前の真似だよ」という台詞なんて、自分が言われたらたまらないだろうなと。
(「本の旅人」二〇一五年五月号掲載の京極夏彦・宮部みゆき対談「存在と実在のあいだ」より)
(この対談の模様はこちらからご覧いただけます)
やはり怖い話の名手でもある宮部みゆきだけに、鋭い着眼というほかはない。宮部は右に先立つくだりで「怖さでいうと、この『鬼談』が一番じゃないでしょうか。すべての短篇が本当に容赦なくって、読み手の胸にぐさっと突き刺さってくる」とも述べている。
ちなみに「幽談」「冥談」「眩談」は著者の造語だったが、「鬼談」は岡本綺堂の名作『青蛙堂鬼談』をはじめ先例がある、怪談文学史的にも由緒ある言葉だ。奇計際だつ「鬼縁」や『雨月物語』をスタイリッシュに本歌取りする「鬼情」から、官能小説風の「鬼交」や暗黒民話風の「鬼神」まで、変幻自在な小説技巧をこれでもかとばかり駆使して、読む者を問答無用の戦慄へと誘う本書は、〈「 」談〉シリーズの白眉であるのみならず、現代における怪談文芸の一頂点を極める記念碑的名著と呼ぶにふさわしい。
二〇一八年一月
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