読み終えたときの心地よさが、いい映画を観たときの気分によく似ている。本書の趣向に倣って言えば、地図を片手に道に迷い、たまたま目にとまった小ぢんまりとした映画館で、何の予備知識もなく観た映画という印象である。
予備知識がないので、こちらの勝手な憶測から、スタイリッシュで濃密な映像が展開されるのではないかと身構えていた。が、観終えてみると、その憶測は決して間違いではなかったものの、そうした印象を上回るほどの喜劇的な要素と活劇的な面白さがあった。理屈抜きに「面白かった」と口もとがほころび、映画館を出たあとの足どりが軽くなるあの感じである。
序盤は、ひとつひとつのシーンを隅々までじっくり読む喜びに充ちている。たとえば、次のような描写――。
地図や書物のほとんどは、十年に一度あるかないかという出番を待ちつつ、壁面の一部となっていた。背を飾る金箔押しも、はがれ落ちるままになっている。閲覧台で書物をひろげる人の手もとに、ときおりはらはらと黄金の雨が降った。
こうした陶然となるようなシーンが、まさにひろげた地図を俯瞰するように、丁寧に、しかし小気味よく語られていく。
まずは主人公である青年=リュスが働いている地図収集館について語られ、つづいて収集館を訪れる人々について語られ、物語の舞台となるミロナという街の様子――ドラッグストアや市場通りといったものが活き活きと描かれ、ある程度読み進めてくると、地図の醍醐味でもある、空の上から街の全体を眺めている心地になる。
こうして地図の上に指をすべらせるようにして語られてきた物語は、やがてリュスが暮らしているアパートの屋根裏部屋に至って思わぬ転調を見せる。意外な人物との出会いが語られ、ここで読者は、さらに物語の中へ、ぐいと引き込まれる――。
これは地図の物語である。
いま挙げた屋根裏部屋の場面にしても、あるいはそこに至るまでのいくつかの節目においても、かならず一枚の地図が物語のつづきを導いていた。
この物語の中では、そうして昔ながらの地図が重要な役割を担うのだが、現実の世では、いつからか紙面に印刷された地図を見る機会が少なくなってきた。昨今はパソコンやスマート・フォンの画面に映し出されたデジタル地図を自在に拡大したり縮小したりして情報を得る。拡大すれば、より詳細な地図となり、拡大の段階は何層にもなっていて、あたかも一枚の地図の中に何枚もの地図が重なっているかのようだ。
物語が屋根裏部屋の場面にさしかかったとき、それまで俯瞰的に眺めていた地図が、一段階拡大されたかのように登場人物の体温や香りや気配といったものがまざまざと伝わってきた。ひろげられているのはあくまでクラシックな地図なのだが、作者は見事な筆致によって、ここにデジタル地図の「拡大」に似た効果をもたらした。クラシックな言い方をすれば、地図上の屋根裏部屋を虫眼鏡ごしに覗き込んだ感じである。
女はほほ笑んで、バッグから封筒を取りだした。そこへ、かたちのよい唇をあてがった。リュスの目に、紅い色が映った。彼は差しだされた封書を、つかのまためらったのちに受けとった。彼女は実際に口をつけたわけではなく、紅く見えたのは封鑞の色だった。
俯瞰では見えなかったディテールが鮮やかに映し出され、序盤で俯瞰的に描かれていたものに、少しずつ虫眼鏡を通した詳細が語られ始める。
たとえば、リュスのかけている眼鏡について、序盤では次のように描かれていた。
彼はある理由から、人前に出るときは常に眼鏡をかけていたが、近視ではなかったのでレンズのかわりにただの透明プラスティックがはめてあった。
リュスは自分の「心のうちに、やわらかく崩れやすいものがある」ことを知っている。彼のダテ眼鏡を手にした女学生に「そこに、どんな悪い魂があるの?」と訊かれても、彼は「それがないと、心が砕けそうになる。」としか答えない。が、屋根裏部屋の転調を経たあと、「拡大」は次第にダテ眼鏡の内に秘められたリュスの過去へと及んでいく。と同時に、物語の橋渡しとして登場していた「地図」の存在が希薄になっていく。
さて? と首をかしげる。地図によって導かれてきた物語から、なぜ地図の存在が遠のいていくのか――。
しかし、よく考えてみるとそれは当然のことだった。一枚の地図から始まった物語は、デジタル地図の画面をタップして拡大していくように、地図の中へ中へと入り込んでいく。隠されていた「やわらかく崩れやすいもの」が地図の中の奥深くから浮かび上がってくる。
地図は物語の入口だった。リュスがダテ眼鏡ごしに「紅い唇」と見間違えたものは、その実、紅い封鑞であり、その封筒の中に秘められたもうひとつの物語に、リュスも、そして我々読者も冒険者として参入していくことになる。地図の存在が希薄になったのではない。俯瞰していた我々が、いつのまにか地図の中に入り込んでいたのである。
面白いことに、幻と化したこの紅い唇のしるしが、物語の後半になって、たびたび主人公の唇に重ねられる。ダテ眼鏡ごしの幻が、リアルな唇の感触として伝わってくるのだ。
そして、ともすれば、不可解にさえ思えるこの主人公への接吻の繰り返しが、物語の終わりに大きな意味を持つ。秘められた物語を閉じ込めた紅い封鑞は、やはり一人の女性の唇のしるし――愛情の証しだったのだと言いたくなる。
もちろん、この女性にはここでは語られていないさまざまな屈託や事情があると思われる。が、彼女の喜劇的ですらある振る舞いは、屈託を封印するほどの力を持ち、物語の終盤がどこか明るい活劇の味わいを残すのも、ひとえに彼女の活躍によるものだろう。
思えば、地図とは世界を俯瞰し、世界を精査するために発明されたものだった。物語を読み終えて、読者が本当の意味でこの物語を俯瞰したとき、この女性の苗字が「モンド=世界」であったことを感慨深く思い返すことになる。
そして、世界を一枚の地図に仕立ててみせた男の名が「メルカトル」であったことを、きっといつまでも忘れない。
ただし、一枚の地図に虫眼鏡をあてて覗き込むことで、そこにさまざまな人間たちのドラマが浮かび上がるという特異な現象については、さすがにメルカトルも思いつかなかった。思いついたのは、この物語を地図の中から見つけ出した小説家=作者である。
「世界」とは人間の営みのことに他ならず、地図の中には人々が紡いだ無数の物語が内在していることを小説家は明快に示した。
この小説を読んだあとでは、見慣れた地図がそれまでとは違ったものに見え、思わず虫眼鏡をあてて覗き込みたくなるだろう。