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レビュー

信頼できる語り手は誰だ?! 手記と供述だけによって語られる異色のリーガルミステリ『敗者の告白』

 深木章子には二つの興味深い経歴がある。まず一つが前職に関することである。深木は東京大学法学部を卒業し、三十年以上弁護士として活動していた。つまり数少ない弁護士出身の作家であることだ。最近は深木以外にも『弁護士探偵物語 天使の分け前』で二〇一二年にデビューした法坂一広や、その翌年『霊感検定』でデビューの織守きょうやの二人が出てきたが(ちなみにこの二人は現役の弁護士という)。
 それ以前は昭和三十年代デビューの佐賀潜、昭和四十年代にデビューして以来長いキャリアを誇る和久峻三、平成に入ってからの中嶋博行という三人の江戸川乱歩賞受賞作家くらいしか思い浮かばない。欧米と比べ法曹界出身のミステリー作家が少ないというこれまでの定説に変わりはないようだ。
 法曹界出身のミステリー作家の嚆矢(こうし)といえば戦前の浜尾四郎であろう。男爵家の四男に生まれ、東京帝国大学法学部を卒業している。つまり深木の大先輩にあたる。枢密院議長浜尾新子爵の養嗣子となり検事から弁護士を経て貴族院議員になった。法の限界や問題点をテーマにした「彼が殺したか」(一九二九年)や「殺された天一坊」(同)などの短編の評価が高い。また『殺人鬼』(三二年)『鉄鎖殺人事件』(三三年)の二作はヴァン・ダインの強い影響を受けて書かれただけに、当時としては稀な本格ミステリーの長編作品だった。しかし『鉄鎖殺人事件』発表の二年後に死去。創作期間が短かったことが惜しまれる。ちなみに戦前から戦後にかけて人気を博したコメディアン・エッセイストの古川ロッパ(緑波)は実弟である。
 横溝正史は「新青年」の編集者時代に、当時の探偵小説界の大御所であった小酒井不木の勧めで、検事時代の浜尾四郎に一度だけ面談したという。その時のことを述べているのが、自伝的エッセイ『探偵小説五十年』(七二年)に収録されている「浜尾さんの思い出」という一文だ。おおよそ次のような内容である。
 当時、探偵小説は一般から侮蔑的な待遇を受けてきた。そういう時代であるから探偵小説に対して造詣が深く、しかも子爵と検事という肩書きを持つ浜尾四郎のような人物を探偵小説壇に引っぱりこむことは、探偵小説に対する一般の認識を高めるために有効であろう。そう考えた横溝は原稿を依頼しようと牛込の高級住宅街にある浜尾邸を訪問した。
 子爵という肩書きと検事という職業から、いかめしく尊大な人物ではないかとびくびくしていた。だがいざ現れた浜尾はそれと正反対の紳士で、人見知りがちな横溝をすぐにくつろいだ気持ちにさせる温かい態度で迎えてくれた。そのおかげで探偵小説に関する話題は小一時間に及んだという。
 その時に話題に出たのが、法律に定められているある重要な原則を逆手に取ったトリックである。それで作品を書いてみてはと持ちかけられた横溝だったが、法的知識が必要と思い、浜尾こそ書くにふさわしいのではと逆に創作を勧めたという。後に横溝はこのトリックをうまく使ったイギリス人作家のある作品を読み、あらためて浜尾の探偵小説的センスに敬服したという。
 原文にはどのような原則なのか、なんという作品なのか、はっきりと書かれている。それをぼやかしたのはほかでもない、このトリックは本書にも関係があるからだ。
 その話はしばらくおいて、深木章子の二つ目の興味深いキャリアについて触れておこう。それは六十歳を迎え弁護士の仕事に終止符を打った後に作家を目指したことである。
 一九四七年生まれの作者はまさに団塊の世代である。団塊の世代が定年を迎える六十歳、あるいは六十五歳という時期を指して「二〇〇七年問題」「二〇一二年問題」という言葉まで生まれ、彼らの大量リタイアが社会に大きな影響をもたらすなどと騒がれていたが、どうやら杞憂に終わったようだ。それはともあれ深木章子は二〇一〇年に『鬼畜の家』で第三回ばらのまち福山ミステリー文学新人賞を受賞、翌年の出版をもって六十代半ばという年齢で作家デビューを果たしたのである。この賞は福山市生まれの島田荘司が一人で選考委員を務める新人賞である。奇しくも深木章子デビューの年から、島田荘司はリタイアした団塊の世代をターゲットにした「本格ミステリー『ベテラン新人』発掘プロジェクト」を始め、これまでに二人の受賞者を世に送り出している。世に出た経緯はさまざまだが、深木章子が高齢デビューの成功例でありモデルケースになり得る人材であることはデビュー以来六年間で八作を上梓し、本格ミステリ大賞に二度(二〇一三年・第十三回『衣更月家の一族』、二〇一四年・第十四回『螺旋の底』)、日本推理作家協会賞に一度(二〇一六年・第六十九回長編及び連作短編集部門『ミネルヴァの報復』)ノミネートされていることを見ても証明できるだろう。

 本書はこのように高い評価を受けている深木作品の中でも、一、二を争う企みに満ちた作品である。

 山梨県にある別荘のベランダから崖下に転落して二人が死亡した。死亡したのは別荘の持ち主で都内でIT企業を経営する本村弘樹の妻・瑞香と八歳になる長男の朋樹だった。弘樹が階下のリビングルームにいたところ二人が転落する音を聞いたという。ベランダにはフェンスが設置されており、事故の可能性は考えにくかった。しかも本村夫婦は一月前に二歳の娘を不慮の事故で亡くしたばかりだった。やがて弘樹は二人の殺害容疑で逮捕される。弘樹の顔や手に争ったような新しい傷跡があったのに加え、瑞香の手記の存在があった。瑞香は転落死する直前に、夫に殺されるかもしれないという手記を、旧知の編集者に送付していたのだ。

 目次を見ればわかるように、本書は手記や陳述書、弁護人が関係者から聞き取った供述などから構成されている。つまり地の文と会話で進んでいく一般の小説と違う手法が用いられている。この点にまず注目してほしい。一般にミステリーにおいて地の文で嘘を書くことはフェアでないとされ忌避される。翻って本書の場合、第四章を除くと三つの主観による文章が登場する。一つが瑞香の手記である。この中で瑞香は夫の会社は倒産寸前であり、瑞香が親から受け継いだ遺産を欲しがっていること、弘樹が朋樹の出生の秘密――弘樹の親友で別荘の隣に住む溝口が実の父親であること――を知っていたこと、夫が自分と長男を殺す計画を立てていることなどを克明に書いているのだ。
 だがこれだけでは終わらない。弘樹の母宛てに孫の朋樹から届いていたメールも警察に提出されたのだ。弘樹の教えにより、八歳の朋樹はすでにパソコンを使用して祖母とメールのやりとりを行っていた。そしてそのメールにはまた違う「事実」が記されていた。妹の由香の死は事故ではなく自分が殺したこと、両親はその事実を隠蔽し事故死とごまかしたこと、別荘に遊びに来た溝口家の二歳になる娘を、妹と同じ手口で殺そうとしたところを父親に見つけられ、その結果両親が自分を殺そうとしていること。
 最後が第二章を構成する陳述書の形を取った弘樹の文章である。殺人の罪で起訴され刑事被告人となった弘樹は、ようやく二人の文書の存在と内容を知った。その上で弘樹はまた違った「事実」を述べ始めるのだ。階下で二人が転落した音を聞いたという供述は嘘である。実際は転落しかかっていた朋樹を助けようとしていた自分を、妻が朋樹もろともに突き落とそうとしたのだ。また瑞香は手記に書かれたような殊勝な妻ではなくそれとは正反対の派手好きな浪費家である。朋樹が自分の子でないことはまったく知らなかった。以上のように瑞香の手記と真っ向から対立する内容だった。
 誰かがあるいは三人全員が、どこか一部であるいはすべての部分で、嘘をついているかもしれないのだ。まさに「信頼ならざる語り手」による三種類の文章が読者の前に提示されるのである。
 続いて第三章は弘樹から弁護依頼を受けた弁護士睦木怜による関係者からの供述が続いていく。弘樹の後輩で朋樹の実の父である溝口雄二、その妻の佐木子、会計事務所の所長の吉田、所員の小笠原、歯科医師の乾。睦木怜がくり出す質問に答える形の叙述になっている。供述する者たちは虚偽こそ述べていないが、語ることのすべてが真実であるとは限らない。なぜならそこには主観が介在するがための思い込みや、事実の誤認があるからだ。睦木怜は互いに矛盾する三種類の文章と五人の証人たちの供述を比較検討し、被告人本村弘樹が最大の利益――無罪判決――を得るように尽力する。その結果が第四章へとつながっていく。
 第四章で事件の顛末と「真実」が明かされる。ここに前述した「法律に定められているある重要な原則」がからんでくるのだ。実はミステリーマニアでなくとも、この原則を利用した展開を予測することはさして難しくないだろう。だがそれは作者は百も承知の上に違いない。第四章の最後におかれた「Xの独白」を読み、犯人の真意が明かされた時、ようやくすべての疑問が解明されるのだ。本書の真の狙いはトリックではなく、それを利用してまでも果たしたかった犯人の動機にあったのだ。そしてすべてが腑に落ちた読者は、あらためて本書のタイトルに込められた作者の意図に思い至るのである。
 本書を読み終わった読者は再び三一七ページ以下を読み返してほしい。およそ九十年前に法曹界出身の大先輩が取りあげた法の限界や法のあり方への疑問と共通するテーマが、はからずも睦木怜の口を借りて語られるのだ。この問題は法曹に携わる者に限らず、われわれ一般の者も心に留めておかなければならないことだろう。
 本書は先述したように手記と供述だけという異色の構成を取っており、そのために裁判シーンが全くない。だが作品のバックボーンには確固とした法の存在が横たわっている。そういう意味では間違いなく本書はリーガルミステリーであり、さらに本格ミステリーでもあるという離れ業を成し遂げているのだ。
 法曹ミステリーのジャンルにおいても、深木作品の中においても長く記憶されるべき作品であるのは当然のことだろう。この傑作が多くの方の手に届くことを祈りたい。


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