鹿児島で城山の宿に向かうとき、同行者が「西郷隆盛の記念碑はどのあたりですか」とタクシーの運転手にたずねた。老運転手は「西郷さんですか、この近くです」と襟を正すように答えた。鹿児島(薩摩)の人たちがいまも「西郷どん」を尊敬しているのが彼のひとことでわかった。
『西郷隆盛』は、池波正太郎が「錯乱」で直木賞を受賞して七年後の昭和四十二(一九六七)年に出版された。池波さんの長編としてはじつに珍らしいことに書きおろしである。しかも取材には惜しみなく時間をかけているようだ。
『西郷隆盛』のほかに、池波さんには幕末、明治維新を背景にした長編や短編がいくつかある。『幕末新選組』、『近藤勇白書』、『人斬り半次郎』などであるが、『人斬り半次郎』の主人公、桐野利秋は『西郷隆盛』に登場している。「人斬り半次郎」と呼ばれた桐野は西郷にかわいがられた。
西郷と桐野について、池波さんと二十年前私は対談している。対談というよりインタビューといったほうがよいだろう。池波さんは二人について、薩摩の土地柄やそこに住む人たちの気質などについて縦横に語っている。西郷を敬愛し、桐野の人柄に惹かれていたのだ。
池波さんはこの二人を書くことによって、私などの知らない明治維新のさまざまの面をとらえている。西郷の胸のうちをはかって、インタビューで言っている。
「明治維新という革命には、夥しい人血が流れた。情の濃い西郷の胸には、彼らは何のために死んだのだ、という自問が常にあったと思います」
西郷の自問は池波さんの思いであるが、それが『西郷隆盛』の全編に流れている。西郷隆盛について私などは上野の銅像しか知らないといっていいのであるが、本書によって西郷のみならず明治維新の革命の真相を理解できたと思う。
池波さんはまた言う。
「薩摩人というのは情が濃いんです。大久保なんかは例外的ですがね」
『西郷隆盛』は、征韓問題で陸軍大将の軍服をぬぎ、明治政府と決別して、故郷の鹿児島に去った西郷について、大久保利通が伊藤博文に「西郷な、思いきりが早すぎて困る、困る」と不満をもらすことからはじまる。西郷は「吉之助」といった子供のころから、大久保とは親しかった。二人はまるで肌合いがちがうが、両者とも明治維新に大きな役割を果たした。
「どちらが偉かったかといえば」と池波さんはインタビューで語っている。「大久保かもしれません」。ただ、どちらも「明治維新という革命の脆き本質に、強い不安を抱いていたことは確かです
大久保は
「毛唐人 の食うものは食えん」
という者もいたが、あれほど外国ぎらいの西郷が、
「持ちはこびに便利ごわす。つづけてパンをつくらせるがよかろ」
それで風月堂、大いに儲かったという
食べものに触れているのは、『鬼平犯科帳』『食卓の情景』の作者らしいことではあるまいか。池波さんは西郷の百キロをこえた肥満と異常にふくれあがった睾丸を書いている。肥満症とフィラリア症であったというが、馬にも乗れなかったし、長生きはできないと覚悟していた。
西郷は「六尺に近い巨躯(三十貫弱)」の持主で、その風貌は「かのキヨソネ(明治八年に来日したイタリア彫刻家)描くところの有名な肖像画や鹿児島、上野公園の銅像によって知る以外に、いまのところ手がかりはない」。西郷は無類の写真嫌いだった。
池波さんはさらに書いている。西郷の「
西郷はカリスマだったのだ。人を惹きつけずにはおかない包容力があった。池波さんも彼の魅力に惹きつけられて、本書を一気に書きあげたのだろうか。鹿児島という土地も気に入ったようだ。
取材で鹿児島を訪れたとき、湾の断崖から桜島を見て、その豪快な展望に感嘆した。池波さんは「
『西郷隆盛』は伝記小説であるが、作者の意見や感想が随所に盛りこまれていて、それがこの小説の「箸やすめ」のようになっている。
このとき、池波正太郎はまだ『鬼平犯科帳』を書いていない。といっても、三年前の昭和三十九(一九六四)年に週刊誌に書いた短編「江戸怪盗記」に長谷川平蔵を登場させている。また本書が出た年の「オール讀物」十二月号に『鬼平犯科帳』の「浅草・御廐河岸」(文庫には第三話として収録されている)を発表した。
こうして翌年の同誌一月号の「唖の十蔵」からシリーズの連載がはじまり、池波さんは人気作家としてゆるぎない地位を築いていった。
池波さんは『西郷隆盛』を書いていたとき、すでに『鬼平犯科帳』の構想に想像力をめぐらしていた。まだ四十四歳で、作家としてはそれまでに蓄積したものが一気にみのるころだ。『鬼平犯科帳』の連載がはじまったころには、その半生を回想した『青春忘れもの』の連載をはじめている。
池波さんのある年譜の昭和四十四(一九六九)年には「連載目白押し」と出ていて、多忙をきわめているのがわかる。しかし、『剣客商売』や『仕掛人・藤枝梅安』のシリーズもひそかに考えていた。『剣客商売』がはじまるのは『西郷隆盛』から五年後、『梅安』はその翌年(一九七三)である。
池波正太郎の、私はおくれてきた読者で、『鬼平犯科帳』を読んだのも恥ずかしいほどにおそい。それでも幸運に恵まれて、池波さんになんどかインタビューする機会を得た。池波さんはひとことでいえば私にとっては、とても優しい人だった。約束の時間にはうるさい方だとかねがね聞いていたので、私は三十分前には約束の場所に着くようにしていた。
池波さんが描く江戸が私は好きだった。江戸の魅力を池波さんに教えられた。
『西郷隆盛』では池波さんから私は明治維新をまなんだ。そして作者の読ませる力にあらためて敬服した。