一九世紀から二〇世紀初頭にかけて全盛をきわめた英国において、いまなお時代と世代と国境をこえて愛され、読み継がれている子ども(とおとな)のための文学がつぎつぎと生まれた。
〈未熟なものへの説諭〉をおのれの使命とするそれまでの児童書と異なり、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』、エドワード・リアの『ノンセンスの本』、J・M・バリーの『ピーター・パン』、ケネス・グレアムの『たのしい川べ』は、きびしい教訓を説かず、〈子どもへの娯楽〉という側面を遠慮なく打ちだした。当然ながら子どもたちはアリスの冒険に心を奪われ、リアのノンセンス詩を口ずさみ、夜ごとネヴァーランドへと旅立ち、川べの動物たちとともに泣き笑いした。
『クマのプー』は英国児童文学のいわゆる黄金期の一角をなすと思われがちだが、ほかの作品よりやや遅れて、一九二六年、いまから九〇年ほど前に誕生した。思いのほか長引いた第一次大戦で消耗した英国は、もはやかつてのように吞気に牧歌的な楽園を讃美できる心理状態にはなかった。作者ミルン自身も従軍し、塹壕戦で辛酸をなめている。にもかかわらず、この作品には古きよき時代を懐かしむがごとき古風な味わいがある。〈遅れてやってきた〉作品だからなのか。
 幅広い年齢層の読者を対象におこなわれた英国の調査(二〇一六年)によると、クマのプーさんが、二位のハリー・ポッターを大きく引き離し、あまたある児童文学でもっとも人気のある主人公の栄誉に輝いた。
 原作の挿絵の魅力はいうまでもなく、ディズニーアニメによるキャラクター化とも相まって、日本でも抜群の認知度を誇る『クマのプー』だが、その原作者A・A・ミルン(アラン・アレクサンダー・ミルン、一八八二―一九五六)が劇作家として名を成した人物であり、クマのプー・シリーズが二冊の物語と二冊の詩集から成ることは案外知られていない。そこで、まず、プーの世界の原点を求めて、作者の生い立ちをたどってみたい。
 一八八二年一月一八日、ミルンはロンドン北部、現在はセント・ジョンズ・ウッドと呼ばれる地区で、男子のための小さな私立学校を経営するジョン・ヴァイン・ミルンとその妻マライアの末子として生まれた。理解ある両親の愛情に包まれ、ふたりの兄たちとともに、元気で利発な少年に育った。
 父のジョンは、もと教師だった妻とふたりで、学校の経営と生徒の教育に心を傾けた。「愛情のない教室は、きびしく、心をくじく。だが、愛情があれば、教室は家庭についで良い場所になりうる」。校長ジョンのこの信念にもとづき、形式的で無意味な規則で子どもを縛ることのない、当時としては開明的な学校運営がおこなわれた。末っ子アランが、父の学校に入学した兄たちが羨ましくて、自分もはやく入学させてと父にせがんだほどに。
 あるとき、校長は「この世でもっとも美しいと思うものを挙げよ」という作文の課題を与えた。「習ったことを書かせるのではなく考えさせる」狙いがあった。「笑顔の子ども」と書いた生徒の解答用紙には、「わたしもです」という校長のコメントが添えられて返却された。
 父は息子たちにできるだけ戸外で活動し、自然をじっくりと観察せよと勧めた。「自然の女神の展覧会はすごいぞ。お休みなしで、お代はただ」と。
 アランはとくに次兄ケンと気が合い、父の言葉を忠実に守った。朝早く起きると、まだ寝静まっている街路でフープ回しをしてから朝食のために家に帰ったり、竹の棒を振り回して戦いごっこをしたりと、楽しく充実した子ども時代を満喫したのだった。
 現在のセント・ジョンズ・ウッドは、ケンジントンやチェルシーと並ぶロンドン屈指の高級住宅街だが、アランの少年時代はロンドンの北のはずれで、すぐそこまで野原や森が迫っていた。まだ幼いアランはケンとふたりきりで、当時は先端的な乗り物だった自転車をロンドンの市内で走らせ、週末には郊外への遠乗りにもでかけたものだ。また、家族そろって避暑地で毎夏の休暇をすごし、徒歩旅行にでかけた。
 アランが八歳九か月のとき、父と兄たちに同行したサセックス州のアッシュダウンの森への徒歩旅行では、三日間で七〇キロ以上を踏破した。後年、この森が世界にその名を轟かせる物語の舞台になるなどと、このときのだれに予測できただろうか。
 語り手としてアランに範を示したのは、暖炉の前で幼い息子たちに物語を朗読してくれた父である。週日は『狐のレナード』といった動物寓話やジョージ・マクドナルドの創作おとぎ話、日曜日はジョン・バニヤンの『天路歴程』と決まっていた。自分で本が読める年齢になると、アランは『宝島』『ビーヴィス』『スイスのロビンソン一家』といった冒険物語を読みふけり、戸外の生活や無人島に思いをはせた。家族の温もりは心地よく、癒されたけれど、自立心の強い少年アランにとって、自由はもっとたいせつだった。
 一八九三年、一一歳半にして、伝統あるパブリック・スクールのウェストミンスター・スクールに奨学生として進学する。しかし試験での不当な評価に反発し、得意だった数学に興味を失い、図書室でディケンズやジェイン・オースティンの小説を読みあさる。一足先に学業を終えて事務弁護士見習いになっていた次兄ケンと合作で軽妙詩を作るのが、当時の趣味だった。試験の不本意な結果が、間接的にせよ、アランに文学を生業に選ばせるきっかけとなったのだ。
 一九〇〇年、名門ケンブリッジ大学トリニティ学寮に入学すると、一八八九年創刊以来、ジャーナリズム界の名士を輩出していた学生雑誌「グランタ」に投稿した作品(ケンとの合作「愛についてのソネットその他」)が掲載される。
 一九〇二年、当誌の編集長となり、各号の誌面のほとんどを自分の文章で埋めた。ユーモア作家として機知と嗅覚を磨いた修業時代である。苦労は報われた。有名な風刺雑誌「パンチ」の編集長に才覚を買われて、卒業後はフリーランスを経て、「パンチ」の副編集長に就任する。
 一八四一年の創刊当時は反体制的で過激な政治批判で鳴らした「パンチ」だが、その後、軌道修正がなされ、ミルンが大学生のころには、風刺の毒が抜けて、ちょっと粋で楽しい「国民的読み物」として、広く保守中流の読者層に読まれていた。ミルンが同誌に寄稿した数々の記事は、のちに数冊の随筆集にまとめられて人気を博した。
「パンチ」の常連寄稿者だった一九〇五年、ミルンは生涯を決定する出会いに恵まれる。すでに劇作家・小説家として不動の地位を築いていた『ピーター・パン』の作者J・M・バリーとの友情である。劇場で『ピーター・パン』を観て感激したミルンは、作者バリーの知己を得て、バリーのクリケット・チームの一員になる。劇作家志望のミルンの才能を見抜いたバリーは、二〇歳以上年下の新進作家A・A・ミルンをロンドン演劇界に紹介する。
 J・M・バリーとA・A・ミルンには共通点が多い。ともに一九世紀後半から二〇世紀前半のイギリスで活躍し、児童文学の名作を著したが、いずれも児童文学作家をめざしたわけではない。ふたりともジャーナリスト出身で、ウェルメイド・プレイの系譜に属する軽妙な戯曲を世に送りだし、劇作家としてつとに人気と名声を得ていた。

書籍

『クマのプー』

A.A.ミルン  訳:森 絵都

定価 562円(本体520円+税)

発売日:2017年06月17日

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