ゴールデン街コーリング
【12月27日発売】馳星周、最初で最後の自伝的青春小説『ゴールデン街コーリング』試し読み#2

新宿・歌舞伎町を舞台にした暗黒小説『不夜城』でデビューした馳星周氏の最新作、『ゴールデン街コーリング』が2018年12月27日に発売となります。本作は“著者の最初で最後の”自伝的青春小説。1985年の新宿ゴールデン街を舞台に、馳青年をモデルにした主人公の青春が描かれています。
発売に先駆けて、プロローグから1節21ページまでを一挙公開。ゴールデン街がもっともゴールデン街らしかった1980年代中頃、その雰囲気を感じられる試し読みをお楽しみください!
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店のドアに施錠すると、ぼくは細い路地に体を滑り込ませた。辺りにはドブのような匂いが漂っている。嘔吐物や小便の匂いも混じっている。酔っぱらいたちがゲロを吐き、立ち小便をするからだ。
細い路地を数メートルも歩けば次の路地へ出る。ゴールデン街は西から東へと続く数本の細い道の両脇に木造の狭い店が軒を連ねている。それぞれの道はさらに細い路地で繋がっているのだ。
もうすぐ午前五時だったが、〈リリー〉の看板は灯っていた。
「おはようございます」
ドアを開け、中に入る。〈リリー〉の店内は〈マーロウ〉より若干狭いが、造りはほぼ一緒だ。
「あら、今日は遅かったのね」
だみ声がぼくを迎えた。リリーはいわゆるオカマだ。普段は黒いドレスにメイクもばっちり決めているのだが、今夜はジーンズにセーター姿だった。こうなると、おねえ言葉を喋るただのおっさんだった。大学時代は柔道部だったといういかつい体がおっさん臭を助長している。
「みんな長っ尻でさ。勘弁してほしいよ」
カウンターの真ん中に、ショットグラスとチェイサーの入ったグラスが置かれている。そこに座っている客はトイレで用を足しているのだろう。他に客はいなかった。
ぼくは入口に近いスツールに尻を乗せた。
「ビール?」
「流れたボトルがあったら、ウイスキーがいいな」
ぼくは言った。ボトルのキープは三ヶ月が相場だ。三ヶ月を過ぎたボトルの中身の行方は神のみぞ知る。リリーはその中身をぼくたち、〈マーロウ〉で働く学生たちに飲ませてくれる。
「ダルマでもいい?」
「もちろん」
ただ同然で飲ませてもらえる酒の種類に文句を言ったら、それこそバチが当たる。
ぼくの目の前に置かれたダルマのボトルには「山口」というタグがかけられていた。
「山口さん、いただきます」
ぼくは見ず知らずの山口氏に感謝を捧げ、氷の入ったグラスにウイスキーを注ぎ、水で割った。水割りを口にしようとしたその瞬間、トイレのドアが開いた。
「あれ? 坂本じゃん。今、店終わったの?」
トイレから出てきたのは田丸だった。
「田丸、風邪だっつったろう」
ぼくは唇を尖らせた。田丸はぼくの同僚だ。〈マーロウ〉で火曜日と水曜日に働いている。ぼくよりひとつ年上だが、呼び捨てにする許可をもらっている。
「坂本に電話した時は調子最悪だったんだけどさ、寝てたら熱も下がって、ちょっと飲みたくなったんだよ」
「ざけんなよ」
ぼくは吐き捨てるように言った。
田丸から電話がかかってきたのは今日の――いや、昨日の午後だ。風邪を引いて具合が悪いから〈マーロウ〉のバイトを代わってくれと言ってきた。
「こんなことばっかりやってると信用なくなるぞ、田丸」
「悪い、今日はどうしても顕さんの顔見る気分じゃなかったんだ」
田丸は早稲田の学生だ。なにを専攻しているのかはよくわからない。とにかく、礼儀正しいお坊ちゃんで、理想に燃え、正義感も強い。ぼくはそんな田丸が好きだったが、ひとつだけ、受け入れられないことがあった。
嫌なことがあるとすぐに逃げ出すのだ。そのツケはたいてい、ぼくが払うことになる。
「今度、吉牛奢るからさあ、機嫌直せよ、坂本。大盛りに味噌汁とお新香もつけるよ」
「うるせえ。おれに話しかけるな」
ぼくは水割りを呷って顔をしかめた。〈マーロウ〉ではいつもバーボンのソーダ割りを飲ん
でいる。国産のウイスキーは刺激が強すぎるのだ。
「だいぶ酔ってるな、坂本」
「おまえのせいで、三日連続で顕さんの相手しなきゃならないんだぞ。酔わずにいられるか」
〈マーロウ〉では、夜の十時をまわると、バイトも好きな酒を飲んでいいことになっている。ぼくも田丸も、土曜担当の笠井も、常に時計の針が十時を指すのを今か今かと待っている。
終電前はまだいい。客の大半は冒険小説協会の会員か、そうでなくても小説好き、映画好きが集ってわいわい話しながら酒を飲む。その時点では、たいてい、顕さんもご機嫌だ。
だが、彼らのほとんどはサラリーマンか学生だった。終電の時間が近づくと、ひとり、ふたりと席を立ち、やがてだれもいなくなる。
終電がなくなった後、彼らと入れ替わるようにやって来るのが職業不詳の酔っぱらいたちだ。酔ってくだを巻き、無意味な議論を人にふっかけ、醜悪なエゴを撒き散らして酔い潰れる。
その時間には、顕さんもそんな連中のひとりと化しているので、店内の空気は腐臭を放って収拾がつかなくなる。
それが辛いのだ。
「ずっと坂本に悪いことした、坂本に悪いことしたって言いながら飲んでるのよ。もうゆるしてあげなさいよ」
リリーがビールの入ったグラスを傾けながら言った。
「こいつがそんなことを言いながら?」
ぼくは田丸の横顔を凝視した。そんな殊勝な男じゃない。今夜サボったこと以外にも後ろめたいことがあるに違いなかった。田丸はぼくの視線を振り払うように酒を飲んだ。飲んでいるのはジンだ。匂いでわかる。
「なに隠してるんだよ?」
「なにも隠してないよ」
田丸は言ったが、目が泳いでいた。
「おまえ、まさか……」
グラスを運ぼうとしていた手が口元で止まった。もしぼくが田丸や笠井に対して激しい罪悪感を抱くとしたら、その理由はひとつしかない。
「辞めるつもりなのかよ?」
田丸の目が丸くなった。
「なんでわかったんだよ?」
「田丸はバカねえ。カマかけられたんじゃないの」
ぼくの代わりにリリーが言った。
「約束、覚えてるだろう」
ぼくは言った。田丸がうなずいた。
初めて、酔った顕さんに絡まれ、苛めに苛められた夜、ぼくはあまりの悔しさに泣いた。文字通り号泣した。それぐらい、顕さんの言葉の暴力は容赦がなかった。
その時、客として飲みに来ていた田丸がぼくを慰めてくれたのだ。
――おれだって何度も泣かされたよ。だけど、そのうち慣れてくるから。辛いのは最初だけだから。
そう言う田丸の目も潤んでいた。
――昼間の顕さんと酔った顕さんは別人格なんだ。そう割り切って耐えるしかないんだ。
田丸が〈マーロウ〉でバイトをはじめたのはぼくより半年早かった。
――こんなことで辞めるなよ。辞める時は一緒だ。約束だ。いいな?
本当は、ぼくが逃げ出して自分に負担がかかるのが嫌なだけだったのだろうと思う。ぼくも、初めて顕さんに苛められて泣き出した笠井に同じことを言ったからだ。
でも、あの時のぼくには、田丸の言葉は天から降り注ぐ光のように感じられた。
ぼくはひとりじゃない。苦楽を共にする仲間がいてくれる。
ぼくは田丸の言葉に縋り、バーボンをがぶ飲みし、顕さんに与えられた屈辱を頭の奥に押し込んだのだ。
「辞める時は一緒だ。おまえが言いだしたんだぞ。それなのに、おれに相談もなく辞めるなんて、そんなことゆるされると思ってんのかよ」
「もう、限界なんだよ」
ぼくは細身で、田丸はがたいがよかった。だれもが、田丸の方が豪快で強気な性格だと思うのだが、実際、田丸は繊細でぼくよりよっぽど神経が細かった。
「だめだよ。笠井は頑張っても週二日が限度だ。おまえが辞めたら、おれが週四日、カウンターに入らなきゃならなくなるじゃんか。そんなの絶対にだめだ」
「最近、月イチぐらいで顔出す横山っているだろう?」
「日大のやつだっけ?」
「そう。日大芸術学部の横山。あいつを後釜に据えようかなと思ってるんだけど……」
「話はしてるのかよ?」
「探りは入れてある。脈はあると思うんだよな」
「あいつは無理だよ」
横山の間抜けな顔を思い浮かべながら、ぼくはウイスキーに口をつけた。
横山は軍事オタクだ。小説はほとんど読んでおらず、喋ることといったら武器に関することだけだ。顕さんが酔う前ならそれでもいいが、必ず問題が起こるだろう。
「言っただろう。おれ、もう限界なんだ。このまま続けてると、顕さんに殴りかかっちゃう」
噓だとは思ったが、口にはしなかった。放っておけば、田丸はばっくれる。だれにもなにも告げずに辞めてしまうのだ。
「ちょっと考えよう」ぼくは言った。「他に田丸の代わりが務まりそうなやつ、探してみるから。だから、辞めるのはもう少し待って欲しい」
「坂本がそう言うなら、もう少し我慢してみるよ」
田丸はジンを呷るように飲んだ。
「あんたたちさ、どうせなら明日から店に行くのやめちゃえば。そうしたら、顕ちゃんだって少しは懲りるわよ。笠井ひとりじゃ店を切り盛りできないんだから」
リリーが言った。リリーはゴールデン街におけるぼくたちの兄貴分、いや、姉貴分のようなものだ。いつもぼくたちの愚痴に耳を傾け、安い金で飲ませてくれる。
「そんな無責任なこと、できないよ」
ぼくは言った。リリーにではなく、田丸に聞かせるために言ったのだ。
〈マーロウ〉を辞めることはしょっちゅう頭に浮かぶ。それでも辞められないのは、終電前の時間に集う本好きの仲間たちが困るだろうと思うからだ。
ぼくは彼らが好きだった。
そして、現実的な問題もある。〈マーロウ〉のバイト代は時給千円。日給にするとおよそ一万円。週に三日だから、単純計算で月に十二万の収入になる。おまけに夜の十時からは酒も飲み放題。これほど割のいいバイトはどこを探してもない。
この二年間で、ぼくは大酒飲みに変貌していた。実家からの仕送りが八万円。家賃と光熱費、食費、毎月何十冊も買う書籍代に映画を観る金、そして酒に費やす金。月に二十万ではかつかつだった。
「とにかく――」
ぼくはグラスに残っていた水割りを飲み干した。
「勝手に辞めるなよ。絶対にゆるさないからな」
「わかったよ」
田丸が言った。
「暗い話はおしまいね。じゃあ、店閉めて、焼肉でも食べに行こうか」
リリーが言った。
「うん、行く」
ぼくと田丸は同時に声を放った。
* * *
区役所通りを渡り、路地を進んで区役所の裏の通りに出た。もう空は白みはじめているというのに、人の姿が途切れることはなかった。
二十四時間営業のスーパー〈エニイ〉の前を通り過ぎると、聞き慣れた声が飛んできた。
「坊や、もう、上がりか?」
客引きのヒデさんだった。〈マーロウ〉で働きはじめた頃、〈エニイ〉に買い出しに来るたびにヒデさんに腕を引っ張られて路地裏に連れ込まれた。
「いい娘がいる店に案内するよ、坊や」とヒデさんが言い、「ぼく、これからゴールデン街で仕事なんです」とぼくが言う。すると「噓ついてるんじゃねえだろうな、こら?」とヒデさんが凄むのだ。
同じやりとりを二ヶ月ほど繰り返して、ヒデさんはやっとぼくを歌舞伎町の住人だと認識してくれるようになった。
以来、顔を合わせれば挨拶をする間柄だった。
「あら、リリー姐さんじゃないですか」
ヒデさんがリリーに気づいた。ドレスを着て化粧をしていないと、顔見知りでも気づくのに時間がかかる。
「あんたまだ客引きなんてしてるの? いい年なんだから、考えなさいよ」
「相変わらず姐さんはきついねえ。坊や、今度また茶ァでも飲もうや。じゃあな」
ヒデさんはばつの悪そうな顔をして去っていった。
「おまえ、あんなやつと知り合いなの?」
田丸が言った。
「田丸だって〈エニイ〉に買い出しに来るだろう? だったら、ヒデさんとはしょっちゅう顔を合わせるはずだけど」
「おれは知らない」
「あんた、一見柔道とかやってそうだから、客引きも声をかけるのを躊躇うのよ。その点、坂本はゴールデン街に来た頃はどこからどう見ても純朴な田舎の若者だったものねえ」
要するに、カモに見られていたということだ。
「そうでしたよね。顕さんに苛められておんおん泣いてたのに、ほんと変わったよな、坂本は」
「二年もゴールデン街に入り浸ってるんだぜ。しょうがねえじゃん。そんなことより、早く行こうよ。もう、頭の中、豚足でいっぱい」
ぼくは田丸の肩を叩いた。これから行く焼肉屋は豚足が抜群に旨い。
「ひとり二個までよ」
リリーが言った。
「噓。二個じゃ全然足りないよ、リリー」
田丸が唇を尖らせた。
豚足や焼肉を、酎ハイで胃に流し込んで、今日あった嫌なことを全部忘れるのだ。部屋に帰ったら倒れるように寝て、目が覚めたらまた新しい一日がはじまっている。
そうやって、ぼくは日々を過ごしている。
今日も明日も、それは変わらない。
(このつづきは本編でお楽しみください)
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