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【初回全文公開】角田光代さんと愛猫トトの日常をつづった大人気エッセイ、スタート!「明日も一日きみを見てる」

9月12日(土)発売の「小説 野性時代」2020年10月号では、角田光代さんの新連載「明日も一日きみを見てる」がスタート。記念すべき第1回を全文公開します。

 第1回 引っ越しと猫タワー事件

 集合住宅から一軒家に引っ越した。理由はいろいろある。切羽詰まったことからそうではないものまで、本当にいろいろあって、引っ越しを決めるまでに時間もかかった。そのいろいろのなかに、飼い猫であるトトに、外の世界を見せたいという思いも、ちょっとあった。
 住んでいた部屋は十階にあり、生後三カ月でここにやってきたトトは、そこから見える世界しか知らない。家のなかと、そこから見える空。トトがきて、非現実的なほどにこわがりになった私は、窓からトトが落ちるのではないかと想像しては、叫びそうになるくらいこわくなり、窓を開け放つこともしなくなった。臆病なトトは、玄関の戸が開いていても出ていこうとはしないのに。



 ときどきカラスや鳩が、電線にとまっていることがある。見つけるとトトは姿勢を低くして、かっかっかっ、とへんな声を出す。猫が獲物を狙うときの声であるらしい。そんな声を出して、あんな大きな鳥を捕まえられると思っているのかなあ、と私はそんなトトを見て思った。
 家のなかで虫を見つけると、トトは、鳴いて私と家の人に知らせる。いつもと違う声なので、「虫がいる、虫がいる!」と言っているらしいとわかる。トトちゃん、虫を捕まえて! と言うと、「無理ー」と返事をする。捕まえてよトトちゃん! 無理ー。がんばって、トトちゃん! 無理だって! と、最後には怒る。トトは虫すら捕れないのだ。



 身近に猫のいない人は、こんなふうに書いている私を、ふうがわりな猫おばさんと思うかもしれないが、猫と暮らしていると、すべてではないが、猫の言いぶんがわかってくるのだ。だから、虫が出るたび、私と家の人は「トトちゃん、がんばって捕って」と言い、「無理ー」とトトは言い続け、最後は怒って終わる、ということがくり返される。
 空と虫と鳥しか知らないこの猫に、もっと世界を見せてみたい。地面とか木とか、花とかいろんな種類の鳥とか、積もった雪とか雨のしずくとか。もちろんそれがメインの理由ではないけれど、引っ越しを考えているとき、ちらりとそんなふうにも思ったのだった。
 トトにとってのはじめての引っ越しは、何がなんだかまったくわからないおそろしさだったのだろう、だれからも見えない風呂場の浴槽の隅にぴったりとはりついて震えていた。見かねた家の人が浴槽に腰掛けてずっと背をなで続けていた。
 もしかしてトトが新居に慣れなかったらどうしよう、とまた私の想像はネガティブな方向へと向かう。前の家を恋しがって鳴いたり、ごはんを食べなくなったり、じっとりと暗く部屋の隅にい続けたりしたら、どうしよう。それから階段。集合住宅で暮らしていたトトは階段の上り下りができないのではないか。テレビの動物番組でそういう猫を見たことがある。
 けれども引っ越し屋さんが帰って、私たちが黙々と段ボール箱を開封し、中身を出す作業をくり返していると、風呂場からそろりそろりと出てきて、歩きまわって様子を見ている。心配していた階段も、ごくふつうにぴょんぴょん上がっていく。
 そりゃそうか、とその姿を見て思い出す。トトは漫画家の西原理恵子さんのおうちで生まれた。西原さんちの、部屋数がいったいいくつあるのかわからないような、地下まである大きな邸宅を、両親猫ときょうだい猫たちと好き放題に走りまわっていたのだもの、トトが階段ごときをこわがるはずはないのである。
 はじめて私たちの家にきた生後三カ月のときを思い出す。西原さんのおうちから帰ってきて、ちいさなトトをキャリーから出し、設置していた猫トイレの上に置くと、シャーとおしっこをした。自分でトイレから出てきて、台所のマットの上に香箱を組んだ。はじめて連れてこられた家なのに、トトはなんだかその場所を知っているみたいに見えた。私たちと暮らすことも、ちゃんと知っているように見えた。
 そのときと同じように、ひととおり見てまわった新居にトトはすぐに慣れた。慣れた、というより、やっぱりどうも「知っていた」ように見える。そんなふうに見えるのは、トトが、とりあえずなんでも受け入れる性質の猫だからだろう。



 ところで、引っ越しにあたって、猫タワー事件があった。引っ越し前の家には、トトがきてすぐ設置した猫タワーがあった。いちばん上にハンモックがついている猫タワーで、トトはこのハンモックで眠るのが好きだ。引っ越し先にも持っていこうと解体したのだが、上部ははずれたものの、下部が床から離れない。下部は、突っ張り棒に円盤がついたようなかたちで、その円盤部分が床にぴったりとくっついて離れないのである。たしか設置するときに、転倒防止のために、何かやわらかい素材の薄いものを、床と円盤のあいだに入れるようになっていたが、それが貼りついているのだろう。
 引っ越し屋さんもなんとか剥がそうとするが、だめ。「下手をすると床がべりべりと剥がれてしまうから、やめたほうがいい」と言われてしまう。が、やめたほうがいいといったって、どうしたらいいのか。この半分の突っ張り棒状のものを残して引っ越していくわけにもいかないではないか。
 悩んだ末、私は猫タワーを製造販売している会社を調べて、メールを書いた。床から離れない下部を、剥がす方法はありませんか、と。するとすぐにていねいな返信がきた。私と同じような質問はじつは多いのだが、これといった方法はないのです、とある。何かヘラのようなもので少しずつ剥がしていただくしかないのです。申し訳ありません。
 ヘラ! なるほど。あの転倒防止剤的なものを、ヘラで剥がすのか。方法がまったくないわけではないことを知って安堵した私は巨大なヘラを購入し、がらんと何もない旧居にいって寝そべり、床と円盤のわずかな隙間にヘラを差し入れ、左右にゆっくり動かしていった。ヘラは少しずつだが、奥へと入っていく。おお、針の先のような希望が見えた! 円盤のあらゆる方向からヘラを入れて動かしていく。いったい何十分かかっただろう、ついに、床を傷つけることなく円盤は床から剥がれ、私はむせび泣きそうになった。
 この旧猫タワーは再度組み立てるのが難しくなってしまったので、新居用に、まったく同じものを購入し、設置した。トトが猫タワーのステップを軽快に駆け上がり、ハンモックに入っていくのを、家の人と並んで見上げ、すっぽりそこにおさまるのを見守って「おお」とつぶやき、拍手をした。

(「小説 野性時代 2020年10月号」より)


小説 野性時代 第203号 2020年10月号

小説 野性時代 第203号 2020年10月号


関連記事>>【極上の一章】角田光代『今日も一日きみを見てた』/猫がきた理由


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