谷根千ミステリ散歩 中途半端な逆さま問題
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「この人、本当は馬鹿なんじゃないの?」『謎解きはディナーのあとで』著者が放つ、新凸凹コンビ本格ミステリ『谷根千ミステリ散歩』特別ためし読み!#1
「小説 野性時代」で人気を博した、東川篤哉さんの本格ミステリ『谷根千ミステリ散歩』。
10月17日の書籍発売に先駆けて、「もう一度読みたい!」「ためし読みしてみたい」という声にお応えして、集中掲載を実施します!
※サイン本のプレゼント企画実施中!
(応募要項は記事末尾をご覧ください)
◆ ◆ ◆
第1話
1
それは黄金週間もとっくに過ぎた五月中旬の、とある金曜日。大学での講義を終えて帰宅した私は、店の手伝いに出ようとフロアに足を踏み入れるなり、「あれぇ!?」と驚きの声をあげた。古びた木製のカウンター席に、よく知る顔を見つけたからだ。
「沙織さんじゃありませんか。どうしたんです?」
名前を呼ばれて顔を上げたのは、私よりひとつ歳上の先輩、高村沙織さん。エプロン姿の私に目を留めると、「やあ、つみれちゃ~ん、久しぶりぃ~」と間延びした声を発して、手にした大ジョッキを顔の高さまで持ち上げる。完全に酔っ払いのテンションである。
呆れる私に見せ付けるかのように、沙織さんは中身のビールをグビリと飲んだ。
高村沙織さんは私が高校時代に所属した文芸部の先輩。現在も近所の同じ大学に通う仲だが、所属する学部もサークルも別々なので、最近は昔ほどつるむことはない。
そんな沙織さんは鰯の唐揚げと鰯の刺身、鰯のなめろうを肴にしながら、すでに頬を赤くしている。大ジョッキのビールは、もう三分の一ほどしか残っていない。酔った先輩は空いている隣の席を掌でバシバシと叩きながら、
「良かったぁ、ひとりで退屈してたのよぉ~。ほら、座って座って。つみれちゃん、もう飲んでいい歳だよねぇ。だったら一緒に飲もうよぉ~」
といって二十歳になったばかりの私を強引に飲みの席へと誘う。十人も入れば満員になるような狭い店内に、客の姿は彼女ただひとり。それもそのはず、いまは平日の午後三時。お店が最も閑散とする時間帯なのだ。私はいわれるがままに沙織さんの隣に腰掛けたが、昼飲みの誘いは丁重にお断りして、むしろ先輩に対して苦言を呈した。
「いいんですか、沙織さん。こんな時間にお酒なんか飲んでて……」
「お酒じゃないもん。ビールだもん」
「同じです。同じアルコールです!」ピシャリと断言した私は、あらためて周囲に客の姿がないことを確認して声を潜めた。「駄目じゃないですか、沙織さん。平日の真っ昼間からビールだなんて、そんなの、やさぐれた不良オヤジたちがやることですよ」
「うッ、確かに、そうかもしれないけど……」と気まずそうに俯く沙織さんは、横目で私を見やりながら、「じゃあ、あんたの店は、なんで平日の真っ昼間に営業してんのよ?」
「あ、あたしの店じゃないですもん。お兄ちゃんの店ですもん」
「同じでしょ。同じ家族の店でしょ!」先ほどのお返しとばかりに、先輩はピシャリ。
「そりゃ、まあ、確かに……」今度は私が俯く番だ。
なぜ居酒屋が真っ昼間から営業中なのかといえば、それは近所で暇そうになさっている素敵なオジサマたちに快適な昼飲みの場を提供して差し上げることで、店として相応の対価を得るためである。――だって、そういう商売なんだもん。何か問題ありますか? ありませんよね!
心の中で何度も自問自答しつつ、私は再び先輩のほうを向いた。
「でも沙織さんは、酒好きの不良オヤジとは違うはず。ピッチピチでキッラキラの女子大生じゃないですか。それがこんな場末の酒場でひとり飲みなんて、沙織さん、何か悪いことでも……」
「こらこら、待て待て! どこが《場末の酒場》だい!」
私の発言をぶった切るように、いきなりカウンターの向こう側から響いてくる怒鳴り声。見ると、白い調理服を着て厨房に立つ兄が、柳刃包丁を手にしながら殺し屋のような視線を私に向けている。私が魚類なら刺身にされる恐怖を感じたに違いない。幸い、私は人類(妹)なので、兄の手で捌かれることはない。ただ笑みを浮かべながら「嘘だよ、お兄ちゃん、『吾郎』は場末の酒場なんかじゃないよ」といって、なんとか許しを請う。
兄は包丁をまな板に置くと、「んなこと、当たり前じゃねーか」といって、短く刈り上げた頭を左右に振った。「そもそも、いまどきの谷中に《場末》なんか、ねーっての!」
実際、兄のいうとおり。居酒屋『吾郎』は、けっして場末とは呼べない町、谷中にある。
JR日暮里駅の北口を出て、御殿坂と呼ばれる坂道を西へ向かってゆっくり歩くこと、しばらく。おいおい、もうちょっと近い最寄り駅って、なかったのかよ、ちっとも着かねーじゃんか! と誰もが不満の呟きを漏らすころ、前方に大きな階段が見えてくる。これがテレビの街歩き番組でお馴染み、『夕やけだんだん』と呼ばれる大階段。下った先が散歩好きの聖地『谷中銀座商店街』だ。下町風情の残るお店が五十軒以上も軒を並べる、谷中のメインストリート。そこを真っ直ぐ進んでアッチに曲がってコッチに曲がって、最終的にもうここが谷中なのか根津なのか千駄木なのか、どうでもよくなったあたりの寂しい路地に、ひっそり現れる縄暖簾の古びた店。それが鰯ひと筋ウン十年を誇る下町の迷店『鰯の吾郎』だ。常連客の間では単に居酒屋『吾郎』の名で通っている。
まあ、早い話が鰯料理をメインにした海鮮居酒屋だ。店名の由来となった先代の吾郎(私の死んだ父)は三十代で脱サラして、ここ谷中の場末――じゃない谷中の町外れに店を構えたのだとか。では、なぜ鮪ではなく鰤でもなく、敢えて鰯専門の居酒屋を選んだのか?
「当時、鰯が安く手に入ったから」とか「吾郎さんは無類の鰯好きだったから」とか「鰯を専門に扱う競合店がなかったから」とかとか、もっともらしい理由は様々あるのだが、実際はどれも正解であり、どれも間違っている。
父が鰯専門の店を開こうと考えた最大の理由。それは父の名字が『岩篠(いわしの)』だったからに他ならない。すなわち父の名前は岩篠吾郎――いわしのごろう――『鰯の吾郎』ということで、要するに父はオギャアと生まれたその直後から、やがて漁師か鮮魚店、もしくは鰯料理の店を開くしかない、そんな将来を宿命付けられていたわけだ。
まあ、理由はどうあれ、父のフルネームを看板に掲げた『鰯の吾郎』は、そこそこ繁盛して谷中の町に根付いた。それで、かえって父の《鰯愛》に火がついたのだろう。父はやがて生まれてきた娘に、あろうことか『つみれ』という名を付けた。それが私、岩篠つみれ。女の子の名前というより完全に居酒屋の料理である。実際、メニューを覗き込みながら酔客が発する「鰯のつみれ!」の声に、私自身うっかり「はい!?」と返事をしてしまったことも一度や二度ではない。
なぜ父は娘にこんなヘンテコな名前を付けたのか? 真顔で私に問われたとき、母は遥か遠くを見るような目をしながら、「あの人は鰯への愛情が並じゃなかったからねえ」と答えてくれたが、むしろ私は「娘への愛情が並以下だったのでは?」と密かに疑ったものだ。その疑惑はいまだに解消されていないのだが、事のついでにいちおう説明しておくと、私よりひと回り先に生まれた兄の名前は『なめ郎』という。これは、まあ、ピッタリなんじゃないかしら。岩篠吾郎の息子で岩篠なめ郎。うん、全然まったく少しも違和感ないよね!
では、あらためて昼間から酒に溺れている高村沙織さんの話に戻ろう――
「ねえ、話を戻すけど、沙織さん」私は先輩の顔を覗き込みながら、「平日の真っ昼間からビールだなんて、やさぐれた不良オヤジたちのすること……」
「こらこら、つみれ、どこまで話を戻してんだ!?」カウンター越しになめ郎兄さんの鋭いツッコミの声が響く。「そのくだりはもうとっくに済んだじゃねーか」
「あ、そっか」だったら、やり直し、やり直し――「ねえ、沙織さん、何か悪いことでもあったんですか。飲まなきゃやってられないようなことでも?」
すると私の言葉は空手の正拳突きのごとく、彼女の弱いところを打ち抜いたらしい。
沙織さんは突然「うッ」と感極まった表情。次の瞬間には湧き上がる感情を涙もろとも飲み干そうとするように大ジョッキを傾け、残りのビールを一気に飲み干す。そして「フーッ」と大きく息を吐いた沙織さんは、「同じやつ、もう一杯」と、なめ郎兄さんに注文してから、あらためて私に向き直った。「つみれちゃんのいうとおりよ。悪いことがあったの。――私、倉橋先輩に冷たくされちゃった。ひょっとして嫌われてるのかもしれない!」
「倉橋先輩……えーっと、誰ですか、その人?」
「ああ、つみれちゃんは知らないよね。法学部の倉橋稜さん。私が所属するシーズンスポーツ同好会の一個上の先輩よ。ええっと、シーズンスポーツ同好会っていうのはね……」
「あ、それは知ってます。前に沙織さんから聞きましたから」
シーズンスポーツ同好会とは、季節ごとに違う競技を楽しむ同好会。春は高原でテニス、夏はビーチで海水浴、秋は温泉地で卓球、そして冬は雪山でスキー、というのが定番のローテーションらしい。温泉旅館でおこなう卓球が果たしてスポーツに含まれるか否か、その問題はさておき、シーズンスポーツ同好会が我が大学において最も軟弱なサークル活動のひとつであることは論をまたないところだ。
ついでに説明すると私や沙織さんが通う大学は、谷根千エリアから徒歩圏内にある真っ赤な門でお馴染みの某有名国立大学──なんてことは全然なくて、そこからちょっと離れたところにある無名の私立大学だ。もちろん無名といっても名前はあるのだが、とりあえず『D大学』と呼んでおく。『D大学』のDは、江戸川乱歩の名作『D坂の殺人事件』と同じD。その小説の舞台となった有名な坂道が、大学のすぐ傍にあるのだ。
「昨日の夕方、その同好会のメンバーが大学に集まって、恒例のBBQ大会が催されたの。場所は部室の裏の中庭、ていうか学内の単なる空き地ね。みんなで食材を持ち寄って、その場で調理しながらワイワイいって食べるの。――え、コンロや燃料、食器はどうするのかって? そんなの普段から部室に置いてあるよ。だってシーズンスポーツ同好会だもん」
「…………」へえ、BBQって五月におこなうスポーツの一種だったのか。私は少し賢くなった気分で、沙織さんに話の続きを促した。「楽しそうですねえ、仲間たちとBBQだなんて」
「うん、みんなも盛り上がっていたしね。私も楽しかったよ。――途中までは」
「てことはBBQの最中に何かあったんですね。――あ、ひょっとして、その倉橋先輩って人が持ってきた最上級のお肉を、沙織さんが燃やして炭に変えちゃったとか?」
「おい、つみれ、おまえ真面目に聞いてやれよ。――はい、沙織ちゃん、これ!」
カウンター越しに追加注文のビールを差し出しながら、なめ郎兄さんは私を横目でジロリと睨むが、まったく失敬な兄である。私はこれ以上ないほど真剣だ。普通BBQでの失敗といったら、《肉を燃やすこと》だろう。違うかしら?
視線で問い掛けると、沙織さんは悲しげに首を振った。
「そういう失敗じゃないのよ、つみれちゃん」沙織さんは受け取ったビールをグビリと飲む。そして口許に付いた泡を手で拭い、吐き出すようにいった。「私、何かを踏んだの」
「何かって……いったい何を?」
「それが倉橋先輩の足なのよ。――たぶん」
「たぶん!?」
「ええ。BBQが盛り上がっている最中、私、女子の友達とお喋りしていたの。ビールも結構飲んでいたから足許がふらつき気味だった。その状態でお喋りに夢中になったのね。それで私、馬鹿みたいに居酒屋のガールズトークみたいなノリで、『やだー、ジュリアって、そうなんだー、超ウケるー、マジ、キモーい!』とか、わちゃわちゃ騒いでたわけ」
「はあ……」いったい、どういうノリ? 超ウケるマジキモい話って、どんなの? 聞きたいことはいくつもあったが、とりあえず私が質問したのは、「ジュリアって誰ですか。海外からの留学生とか?」
「ううん、キラキラネームで見た目ギャルっぽい日本人。サークルの一員なんだけど、たまたま昨日のBBQには欠席してたから、恰好の話のネタにされてたってわけ」
「なるほど、そういうことですか。――それで?」
「ほら、仲間同士で盛り上がっているときって、周囲が見えなくなるでしょ。で、私がゲラゲラ笑いながら二三歩ほど後ろに下がったら、いきなり何かを踏んだような感触があったのね。パンプスを履いた私の左足に」
「あらあら……」
「私が『あッ』と声をあげると同時に、背後で男の人の小さな悲鳴が聞こえたの。『ぎゃッ』っていうような、情けない感じの声だった。驚いて振り返ると、目の前にいたのが倉橋先輩ってわけ。先輩は靴紐を結ぶような恰好で、右足を押さえるような仕草をしてた。その口許からは『痛テテテテ……』っていう声が漏れていたみたい」
「ふうん、相当痛かったんですね。――でも、沙織さんはその場で謝ったんでしょう?」
「もちろんよ。咄嗟に『ごめんなさい』って頭を下げて、『大丈夫ですか』っていいながら先輩の右足に手を伸ばそうとしたの。ところが倉橋先輩ったら――こうよ!」
といって、沙織さんは目の前の蝿を追っ払うように、右手をブンと振る。要するにその場面、倉橋という人は沙織さんの差し出した善意の手を、無情にも振り払ったわけだ。
「私、もう悲しくて泣きそうになっちゃったぁ」
と沙織さんは嘆く。そしてまたビールを飲むと、「はぁーッ」と深い溜め息。
「なるほど、そういうことだったんですか」と私は深く頷いた。彼女の嘆きは、よく判る。昼間からビールを欲する気持ちも、多少なりと理解できた気がする。私は我が事のように憤慨しながら、握った拳をブンブンと振り回した。「――にしても、なんですか、その男の態度は! ちょっと足を踏まれたからって、そんな邪険にすることないでしょーに! その倉橋って男、いったい何様ですか!」
「何様かって? 倉橋先輩は我が同好会の王子様よ。某大手芸能事務所に所属していても不思議じゃないほどのイケメンで、しかもスポーツ万能。うちのサークルに所属している女子は、ほとんど倉橋先輩が目当てといっても過言じゃないほどよ。――え、私はどうかって? ななな、何をいってるのよ、つみれちゃん。わわわ、私は、ちちち、違うわよ。わわわ、私はたまたま入ったサークルが、くくく、倉橋先輩と一緒だっただけなんだからねッ」と沙織さんは、とっても判りやすく王子様への熱い思いを《自白》した。
私は思わずニヤリとしながら、「で、王子様に冷たくされて、その後、どうなったんですか。愉快なBBQ大会が気まずい雰囲気になったとか?」
「確かに、そうなりかけたんだけれど、そのとき近くで見ていた町田孝平さんっていうお調子者の先輩が、みんなに聞こえるような大声でいったの。『おい、大丈夫か、稜! いま高村の全体重が、おまえの右足に乗っかってたぞ。爪先、潰れなかったか?』って大袈裟なことをね。そしたら、みんなの中から『わあッ』って笑いが起きたの。倉橋先輩も笑顔になって、『いや、潰れてなんかいないよ。平気へーき』っていいながら、ようやく立ち上がった。それから私にも優しい声で『大丈夫だよ。ちょっとビックリしたけどね』って冗談っぽくいってくれたの。普段どおりの素敵な笑顔だった。それで私はもう一度『本当に、ごめんなさい』って謝ったんだけれどね……」
「まあ、謝るしかねーよな」と、なめ郎兄さんがカウンターの向こう側で腕組みしながらウンウンと頷いた。「その倉橋って先輩、マジで痛かったんだろうと思うぜ。だって、沙織ちゃんは、まあまあ痩せてるほうだけど、それでも体重五十キロぐらいはあるだろ」
「ないですッ、ありませんッ」目を剥きながら沙織さんは猛烈抗議。なめ郎兄さんは、その迫力に押されたように数歩後ずさりして、厨房の床でコケそうになる。沙織さんは追い討ちを掛けるように胸を張って宣言した。「私、公称四十八キロですからッ」
「たいして違わねえだろッ!」
「いいえッ、大違いですッ!」
その僅か二キロ差に沙織さんの強烈なプライドが込められているらしい。――てことは、いまは四十九キロぐらいかしら? すでに彼女の胃袋に収まったであろう料理とアルコールの総量から、私はそのように計算した。
いずれにせよ、それぐらいの体重が爪先にかかれば、誰だって痛くて飛び上がる。あまりの痛みゆえに、普段は紳士的なイケメン王子様も、足を踏みつけた沙織さんに対して、咄嗟に冷たい態度を取った。でも、すぐに元どおりの優しい先輩の顔に戻った。要するに昨日の一件は、そういうことだったのだろう。
だが、そうだとすると今日の沙織さんの様子は、あらためて奇妙に思える。
「どうも、よく判りませんねえ。沙織さんが謝って、倉橋先輩は最終的に許してくれたんですよね。だったら、何が問題なんですか。沙織さんが昼間からお酒に溺れる理由なんて、どこにもないような気がしますけど……」
「うむ、つみれのいうとおりだな。そもそも、お喋りに夢中になって、王子様の足を踏んづけた沙織ちゃんのほうに非があるんだしよ」
「違いますッ」沙織さんは、もどかしそうに頭をブンと振ると、いきなり拳でカウンターをドン。そして、すがるような目で私に訴えかけた。「違うのよ、つみれちゃん!」
「はあ、違うって、何が?」
小首を傾げる私の隣で、沙織さんは大ジョッキを持ち上げ、喉を鳴らしながら一気飲み。それから「ぷふぁーッ」と盛大に息を吐くと、その勢いのまま意外な言葉を吐き出した。
「私はね、本当は倉橋先輩の足なんか、全然踏んでないの。私は無実なのよ!」
2
高村沙織さんの無実の訴えと昼飲みは、その後もしばらく続いた。結局この日の沙織さんは大ジョッキのビールを四杯とツマミの料理五品(鰯に換算すると十匹以上)を、その広大な胃袋の中に収めて『吾郎』を出ていった。雲の上を歩くような足取りで、夕暮れ迫る路地を谷中銀座方面へと去っていく彼女。私は「車に気を付けてね~」と手を振りながら、その後ろ姿を見送る。それから店内に戻ると、あらためてなめ郎兄さんに尋ねた。
「ねえ、どう思った、お兄ちゃん。さっきの沙織さんの話?」
兄はカウンターに残された空っぽの大ジョッキや小皿などを片付けながら、
「うむ、公称四十八キロは完全に嘘だな。少なくともいまは五十キロ以上あるはず」
と、もっともらしく頷く。けれど私が聞きたいのは、そんな馬鹿みたいな感想ではない。
「なんか、沙織さんの話、途中から変な感じだったよねえ」
「ああ、『倉橋先輩の足なんか、全然踏んでない』っていうあたりから、自己弁護に走ってる印象だったな。あるいは現実を認めたくない心理が働いてるっていうか……」
そう、確かに兄のいうとおり。状況を素直に眺めるなら、沙織さんが倉橋稜という先輩の右足を踏みつけたことは、まず間違いないように思える。ところが、沙織さんは自分の無実を訴えて、何度もこう繰り返したのだ。
「私が踏んだのは倉橋先輩の右足じゃなくて、傍に落ちていた石ころのほうなの!」
だが、そんなことが果たして、あり得るだろうか?
沙織さんが踏んだのが石ころのほうで、にもかかわらず、倉橋先輩が足を押さえて『痛テテテテ……』と呻いたのだとするならば、それは彼が痛がる演技をしたということになる。では倉橋先輩は、悪意をもって沙織さんに濡れ衣を着せようとしたのか。敢えて沙織さんに《王子様の足を踏んだ迂闊な女》の烙印を押そうとしたのか。だが、そんな振る舞いをすることで、王子様にいったい何の得があるというのだろう?
私はその点を疑問に思ったが、沙織さんの確信は揺るがない。「私は倉橋先輩に意地悪されたの。きっと私は彼から嫌われているのよ」というのが、沙織さんの下した結論だった。その結果、悲しくてやりきれない彼女は、飲まずにやってられない、という気分に陥った。彼女が『吾郎』での昼飲みに至った理由は、そういうことだったらしい。
「だけどさぁ」といって、私はなめ郎兄さんを見やった。「アルコールの力で沙織さんのモヤモヤが解消されたとは到底思えないよね」
「そうだな。そもそも、ありゃあ一方的な被害妄想なんじゃねーか。沙織ちゃんは好きな男子に対して、足を踏んづけるっていう失態をやらかした。悪いのは彼女のほうだ。だが、それを認めたくない彼女は、自分のほうが彼から意地悪されていると思い込んだ。そう思い込むことで、自分を被害者の地位にしておきたい。そんな感覚じゃねーのかな」
実際は、沙織さんが倉橋先輩の足を踏んだだけ。そして踏まれた彼が一瞬、不愉快そうな態度を取っただけ。おそらく、そんな単純な出来事に過ぎないのだろうと、私も思う。
「でも、お兄ちゃんのいうとおりだとすると、沙織さんと憧れの王子様との仲は、これから先もギクシャクするばかりなんじゃないかしら」
「だったらスッパリ別れりゃいいじゃねーか」
「そんなの無理だよ。だって、二人は付き合ってるわけじゃないんだから、別れるなんてそもそも不可能。これからも沙織さんの片思いが続くばかりだと思う」
「あ、それもそっか」迂闊な兄は小さく肩をすぼめながら、「でもまあ、つみれが悩むことでもねーだろ。そんなの、ほっとけ、ほっとけ!」
「ほっとけないよ。私、沙織さんがこれ以上、酒に溺れる姿なんて見たくないもん」
「ん、そうか? 俺はもうちょっと見たいが……」
と兄の口から不埒な本音が漏れる。沙織さんの不幸が長引き、今後も昼飲みを続けてくれるのならば、その分『吾郎』としては儲かるという姑息な計算だ。阿漕な商売を目論む兄を、私はキッと睨みつける。その視線の強さにたじろいだのか、兄は慌ててアサッテの方角を見やる。そして唐突に、私の知らない固有名詞を口にした。
「そういや、つみれ、おまえ『カイウンドウ』って知ってるか」
「え、カイウンドウ!?」聞き覚えのないカタカナは、しかし即座に私の頭の中で『開運堂』と漢字変換された。「『開運堂』って、お店の名前? 何を売ってるの?」
「開運グッズを扱う専門店だ。よくあるだろ、招き猫とか水晶玉とか金色の財布とか魔除けの数珠とか黄金の観音像とか幸せを招く壷とか。――こら、待て、つみれ。最後まで聞け。怪しい店じゃないんだ。『カイウンドウ』っていっても、そう怪しくはないんだ」
話の途中で立ち去ろうとする私を、兄は慌てて呼び戻す。私は振り向きざまにいってやった。「怪しいよ。どうせ《悪霊退散》って書かれたお札とか売ってるんでしょ」
「うん、確かにそれも売ってると思うが。――まあ、待て待て、つみれ! 怪しいことは怪しいけれど、その店は案外と評判の店なんだ。どういう訳だか知らないが、その店で開運グッズを買い求めたところ、実際に運が開けた、良縁に巡り合った、災難から免れた――そういう客が結構いるらしいんだ。評判は口コミで広がり、わざわざ遠方から店を訪れる人もいるんだとか」
「つまりご利益があるってこと? 特別なお守りでも売ってるのかしら。それともお店の主人が、何か霊的な力を宿しているとか?」
「さあ、扱っている開運グッズについては、俺もよく知らない。店主に関していうなら、実は俺の古い友達だ。まあ、ちょっと変わった人間には違いないけど、霊力があるとか神秘的な術を用いるとか、そんなオカルト的なタイプではないと思う」
「ふうん。――で、その店の開運グッズで、落ち込んでいる沙織さんが救えるって?」
「いや、救えるか否かは、正直よく判らん。あんなものは占いや都市伝説と一緒で、信じるか信じないかは、その人次第だからな。でも、要するに沙織ちゃんの一件は恋の悩みだろ。『好きな先輩が自分のことを嫌っているのかも……』って、突き詰めれば、そういう悩みじゃねーか。だったら、俺やつみれがアレコレ考えるより、そっち方面の力にすがるほうが、よっぽどいいと思ってな。恋愛成就のお守りか何か買って、毎日毎晩ロマンスの神様に祈ってりゃ、少しは前向きな気持ちになれるかもだ」
「ロマンスの神様ねえ。まあ、確かにアルコールの神様に頼るよりかは、多少なりともマシかもね」といって私は控えめに頷く。「でも、なんだか意外だなあ。お兄ちゃんがそんな店を知ってるなんて。私、お兄ちゃんは開運グッズとか全然信じない人だと思ってた」
「ああ、実際そんな怪しげなグッズの力なんて、本気で信じちゃいねえさ。俺が信じるのは、根津権現と鰯の頭だけだからよ」といって、なめ郎兄さんは調理服の胸を張る。
ちなみに『根津権現』とは根津神社に祀られたスサノオノミコトのこと。『鰯の頭』は信じれば願いが叶うとされる、我が家において最も身近な開運グッズだ。それはともかく、話を聞くうち徐々に関心を抱きはじめた私は、兄に向かって頷いた。
「判った。じゃあ、明日にでもいってみるよ。――で、どこにあるの、その店?」
すると、なめ郎兄さんは「うーん、ちょっと判りにくいところにあるんだけどよ」と困ったように呟くと、短い髪の毛を掻きながらL字形のカウンターを指差した。「いいか、つみれ。このL字の縦棒が仮に谷中銀座商店街だとするだろ。縦棒を真っ直ぐいったところが、『夕やけだんだん』だ。すると、こっちのL字の角っこ付近にあるのがドーナッツの店で、ええっと、だから開運グッズの店は、うん、ちょうどあのへんだな」
といって兄はフロアの隅にあるトイレの扉あたりを指で示す。私は笑顔で頷いた。
「うん、判った。明日、自分で探してみる」
「うむ、そうしてくれ」申し訳なさそうな様子は微塵も見せずに、兄は頷く。そして大事な事実を付け加えた。「ちなみに『カイウンドウ』のカイの字は、『開く』のほうじゃなくて立心偏のやつだからな。間違えるなよ」
「え、『開く』じゃなくて、立心偏!?」ということは『開運堂』ではなくて、敢えて『快運堂』と書くってことか。そう理解して、私は「うん、判ったよ」と頷いた。
だが、このときの私は開運グッズの購入が、沙織さんの身に起きた些細な、しかし本人にとっては深刻な事態に、マトモな解決をもたらしてくれるなどとは、まったく思っていなかった。
なぜなら私はオカルトを信じない。なめ郎兄さんの信奉する鰯の頭だって、私にとっては単なる生ゴミに過ぎないのだから。
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