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試し読み

YouTubeで紹介!珠玉のホラー短編を収録!小松左京『厳選恐怖小説集 牛の首』より「ツウ・ペア」試し読み

    3

 バーも麻雀もことわって、その日は会社がひけるとまっすぐアパートへかえった。
 かえりついた時は、もう外はまっ暗だったが、酔ってない眼で、もう一度ノブのまわりをたしかめると、今朝拭きとったあとに、まだうっすらとけつこんがついている。──中にはいって、風呂場をのぞくと、前夜血まみれになったシャツは、よくそうの冷水の中で、ほとんど血の色を失っていた。血のついた上衣とオーバーは、まだそのまま戸棚に吊ってある。オーバーが着られないため、その日は、この寒空にトレンチコートで出勤したのだ。
 繃帯を見ると、果して、血が中心部ににじんでいた。──繃帯をはずし、いつの間にかまた血まみれになった手を、今度はすぐに洗わず、しげしげと眺めた。
 血にまちがいない。鼻を近づけると、ぷんとなまぐさいにおいがする。
 洗いながして、爪の間をながめると、今度はあの髪の毛ははさまっていなかった。
 湯を沸かし、茶を入れ、ターミナルのデパートで買って来た弁当を食いはじめた。──途中で思い出して、ウイスキーをひっぱり出して水割をつくり、それをあおりながら食べた。できるだけにぎやかにしたいので、テレビはつけっ放しにしておいた。──酔いがまわり、腹がくちくなってくると、少しは気分がおちついた。
 血が、どうだというのだ?──別に実害はない。ひょっとすると、掌の毛細血管から、自然に血が噴き出す奇病かも知れない。そうだ、明日、医者に行ってみよう。……人間の体にできたれ物から、の天然綿の繊維が噴き出す「綿ふき病」という奇病さえあるのだ。掌から血がにじみ出るぐらい、大した事はない。
 髪の毛は?
 三回ともだろう──と、彼は自分にきようべんしようとした。──そういえばゆうべ、この階のどこかに住んでいるらしい、髪の毛の長い女が、酔っぱらって鍵をあけようとしているおれの事を見ていたっけ……。あの女、き毛の始末が悪くて、それが風にとばされて、この部屋にどこからかまぎれこみ……服にでも、たくさんついているんじゃないかな?
 テレビの白痴的お笑い番組のにぎやかさに元気づけられて、その強弁もなんとか飲みくだせそうだった。──彼は、グラスをのみほし、熱い茶を湯のみに一ぱいつぐと、のこったおかずで、冷えた飯をかきこみはじめた。──二口、三口、ほうばった時、舌の先になにかざらっとしたものがふれた。指を口につっこもうとすると、口から何かが糸をひいた。
 つまんでひくと、飯の中から、細く、長い、やや赤らんだ女の髪の毛がずるずるとひき出されて来た。
 しばらく、ぎようぜんと、その三、四十センチほどの髪を見ているうちに、彼はあついものでも手にふれたように弁当折りを膳の上にほうり出し、ウイスキーをグラスにどくどくつぐと、のままでぐいとあおった。

 あまりの胸苦しさに、思わず大声で叫ぼうとして眼がさめた。──部屋の一角から、はげしい雑音とともに、青白い光が横ざまにさしている。テレビをつけっぱなしのまま眠ってしまったらしい。いつ蒲団を敷いてもぐりこんだのかおぼえがないが、ちゃんと蒲団はかけている。が──そのかけ蒲団のすそから胸にかけて、なにか石のように重いものがずっしりとのっていて、おしつぶされそうに息苦しい。叫ぼうとしても声が出ない。
 突然、全身にどっと冷たい汗がふき出した。
 蒲団の裾の方に、が立っている!
 テレビからさす青白い光が、かろうじて、その足もとをかすかに照らし出すだけで、顔はもちろん、姿すがたかたちはほとんどわからない。が、ほそい、背の高い影が、ぼうっと部屋の隅の暗がりの中につっ立っている。
「誰だ!」
 と声が出たとたん、胸から裾へかけての重みがすっとなくなった。反射的にはね起きたが、全身はまるで電気にかかったようにはげしくこまかくふるえ、膝ががくついて立つ事もできないほどだった。カタカタカタとかわいた音をたてて、歯が鳴っていた。黒い影は、まだ部屋の隅にもうろうと立っている。そのあたりから、全身を総毛立たせるような冷気が、流れ出してくるのだった。──じたッ……じたッ……というような、はだしの足でしめった畳をふむような、かすかな音が、その影の方角からきこえる。
「誰だ!……そこにいるのは誰だ……」
 彼は、かすれた声でもう一度叫んだ。叫びながら、まるではうようにして、壁のスイッチをさぐった。
 部屋の隅には誰もいなかった。──今の今まで、その一角から吹き出していた冷気は、明りがつくと同時にふっと消え失せた。だが、ぼたっ……ぼたっ……という音は、なお蒲団の裾の方からきこえ、畳の上に、どろりとした赤い斑点がひろがりつつあった。
 彼は天井を見上げた。──白っぽくぬられた天井のどこにも、血のしたたってくるあとはない。にもかかわらず、ぼたっ、と音がして、畳の上に、また小さな赤い花が咲いた。彼は思わず、血溜りの上に手をのばした。──ぽつっ、となまあたたかい血のしたたりが、掌の上におちた。つづいてもう一つ……。彼はさし出した手を、次第に上にあげて行った。二つ、三つ、と、血の花びらはふえて行った。が、ある高さになると、不意に血の滴はおちてこなくなった。今度は徐々に手をさげて行くと、またポツリと、なまあたたかいものが掌をうった。
 血は、畳の上七、八十センチほどの高さの、したたりおちている。
 ふわり、と何かがひろげた指にからまった。──細い、三、四十センチほどある髪の毛だった。
 人さし指にからまって、すうっと下にたれた髪の先を見おろすと、畳の上の血溜りの傍に、二筋の髪の毛が、蛇のようにうねっていた。

    4

「掌の皮膚に異常はない……」と加賀見医師は検査室から出て来ながらいった。「汗腺も毛細血管もごく正常だ。──色汗症といって、色のついた汗が出ることもあるが、それでないのは勿論だし……第一、あの血液型はAB型だ。
「だから、はじめから言ったでしょう!」彼は傍の奈良崎をふりかえって、叫ぶように言った。「あの血は、掌から噴きだすんじゃないんだって……」
「とすると、いよいよ怪談か……」奈良崎は、鼻の頭を搔いた。「怪談といっても、いろいろあるぜ。──〝聖痕〟というのを知っているかね? ヨーロッパじゃよくあるが、健康な人間の掌や、足の甲に、何で切ったわけでもないのに、突然傷ができて血が噴き出すんだ。それがちょうど、キリストがはりつけにされた時、釘をうたれた箇所にあらわれるので、〝聖痕〟とよばれている……」
「ヨーロッパも、地方へ行けば、まだまだ未開だからな……」と奈良崎と同期の加賀見医師は、眉をしかめた。
「信心きちがいが、ヒステリー発作を起して、無意識のうちに自分で傷をつけるんだろう」
「ところがそうも言われん所があってね……」妙な趣味で、世界中の奇現象についてよく知っている奈良崎は肩をすくめた。「君たち医師の、合理的説明って奴を、まるきりうけつけない現象もあるんだ。──クラリタ・ヴィラノヴァ事件というのを知っているか?」
「知らんな。なんだ、それは……」
「一九五一年五月十日、十一日と二日にわたってマニラ市で起った事件だ。クラリタという十八歳の少女が、突然におそわれ、かみつかれた。その歯型が、体中何箇も、警官、マニラ警察署長、監察医、マニラ市長の見ている前であらわれたんだ。二度目は法廷で新聞記者が見ている前で起った。三度目はマニラ市長が少女の腕をおさえていたが、、歯型があらわれた……」
「信じられんな、そんな事……」と加賀見医師は横をむいた。
「じゃ、自分でマニラへ行って当時の記録をしらべるんだな。新聞記者にも、警察の公式記録にものこっている。──多木は、昨日の晩、部屋の中の、、血がわいてしたたりおちた、と言っていたな……」
「ええ……」
「それも似たような話がずいぶんある。──広義の〝騒霊現象ポルターガイスト〟とよばれるものの一つだがね。ポルターガイスト現象というのは、大昔から人間によって知られ、、世界のどこかで起りつづけ、科学者や警察によって、目撃されていながら、まだどんな科学的説明もつけられていない、もっともポピュラーな奇現象だ。日本でも戦後起っているよ。関西在住の歴史小説家で有名なS氏は、終戦後間もないころ、京都市北郊、大原雲ヶ畑の寺でそれを目撃して記事を書いているし、昭和三十二年一月に青森県北津軽郡で八日にわたって起ったのも、大勢の人間によって目撃されている。東北は〝座敷ぼっこ〟などという現象が多い所だからな……」
「やはり、降るんですか?」
「血の話は聞かないが、、岩だの小石だのが降ってくる、という事件は、世界中にいやというほどある。──日本でも富山県にそういう事がよく起る村があるが、一番有名なのは、一九五七年三月七日、アメリカのパースという街で起った現象だ。その時は、ペニーという青年の仮住いの、高さ一・八メートルほどのなにもない空間から小石がふり出し、日中数度、一回五分ほど降りつづけた。新聞記者十名、見物人五百人の見る中で、その現象はつづき、記者や警官がテントの内外をしらべたが、テントには穴もあいておらず、すきまもなかった。この現象は三十五日間もつづき、ペニーというその青年についてまわった。また、乾いた壁から突然水が噴き出し、壁をこわしたが、中には水道管も雨もりもなかった、という事件が一九六三年九月二十七日、アメリカのマサチューセッツ州メチューエン市のマーティン邸で起っている……」
「どうも、これは……そんなのじゃないみたいです……」と多木は青い顔でつぶやいた。「たしかに……あれは、女の幽霊でした。幽霊が……ぼくにたたっているんです」
「なにかおぼえがあるか?」
「まさか……」多木はぎょっとして、青ざめた。「……何のおぼえもありません」
「じゃ、なぜ、君にたたるんだろう……」奈良崎は首をかしげた。「今夜も君の部屋に出るかな?──ぼくが泊ってやろう」
「それより二人とも、紹介状を書いてやるから、精神科へ行ってみたらどうだ?」加賀見医師はうんざりしたようにいった。「頭がおかしいんじゃないか?──ばかばかしい」
「じゃ、君はこれをどう説明するんだ」奈良崎はいきなり多木の右手をつかんで、ぐいと医師の方につき出した。
「つい一分前まで、きれいに洗われていた事は、君も見ていたろう?──皮膚組織をきりとったあとからの出血だ、と思うなら血液型をしらべてみろ。手品じゃない、彼の体のどこに、そしてこの部屋のどこに、これだけ大量のAB型血液があるか、さがしてみたらいい」
 、血みどろになった多木の右手を見て、加賀見医師はさすがに顔色を変えた。

 奈良崎はその土曜日の夕方、アパートへ来た。──てんもので食事をすませ、少し飲み、テレビを見、時間つぶしに二人でカードをはじめた。わずかな金をかけてブラック・ジャックでやりとりし、途中でドロウ・ポーカーに切りかえた時は、もう十時をすぎていた。奈良崎はブラフの名人で、何とかその裏をかこうとしているうちに、次第に夢中になって来た。
 何十回目かの勝負で、奈良崎がコールし、彼が手をさらした。──クラブとスペードのキング、ダイヤとハートのクインのツウ・ペアのカードの上に、なにかがポトッとおちた。彼は、はっとして宙を見上げた。
「はじまった……」と彼はかすれた声でいった。「……ようです……」
 キングの剣をもった手の上に、ぽつりと赤い汚点ができた。つづいてもう一枚のキングのカードにも、……それにつづいて、ハートのクインの胸にも、じわっ、と血の斑点しみがうかび上った。つづいてダイヤの方も……。
 それを見た時、彼の中に、ずきん、と名状しがたい衝撃が走った。
 ……。キングの血ぬられた手と、クインの血のにじむ胸……。
 ぼたっ……。
 と、奈良崎の背後で、畳の鳴る音がした。部屋の一角から、氷のような冷気がふうっ、と吹き出した。
「はじまったか?」奈良崎は、襟をすくめながら天井を見上げた。「どこに?」
「うしろ……」彼はこまかくふるえながら指さした。
 入口のドアのついた壁と、押入れとのつくり出す角の所の畳の上に、もう三つ、赤い、丸い点ができていた。──血の滴は、はっきり、畳から八十センチほど上の空間にふいにあらわれ、落下し、畳の上に、ぼたっと音をたてる。
 さすがの奈良崎も、紙のような顔色になって、その血の滴のあらわれる空間を凍りついたように見ていた。──意を決したように立ち上ろうと奈良崎が膝をたてたとたん、電圧が下ったように、蛍光灯がぶん、と音をたてて暗くなる。思わず見上げる二人の頭上で、蛍光灯は、ぼうっと光力を弱めて、ふっと消えた。
 多木はとうとう、見栄も外聞もなく、悲鳴をあげた。
 明りの消えた真の闇の中に、ちょうど血のおちていた部屋の隅の所に、ぼんやり若い女の姿がうかび上った。──肩から背へすべる長い髪、藍のようにまっさおな顔、なめらかな卵型の顔に、ほそく弧を描く眉、通った鼻筋、くろずんだハート型の唇……瞳のないうつろな眼は、ひたと彼の方にむけられ……黒い裾をひくマキシドレスの左胸には、深々と何かの刃物がつきささり、そこの傷口から、燐光を放つ血が、闇の中で赤く燃えながら、ぽたり、ぽたりとしたたりおちる。
 女は突然、苦悶にその美しい顔をゆがめた。
 唇がいっぱいにひらかれ、その部屋の中ではない、二人の頭の中に、すさまじい断末魔の悲鳴が、長く長くこだましたかと思うと、女の姿は、くずれおちるように消えた。


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