『源泉恐怖小説集 牛の首』より「ツウ・ペア」
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3
バーも麻雀もことわって、その日は会社がひけるとまっすぐアパートへかえった。
かえりついた時は、もう外はまっ暗だったが、酔ってない眼で、もう一度ノブのまわりをたしかめると、今朝拭きとったあとに、まだうっすらと
繃帯を見ると、果してもう、血が中心部ににじんでいた。──繃帯をはずし、いつの間にかまた血まみれになった手を、今度はすぐに洗わず、しげしげと眺めた。
血にまちがいない。鼻を近づけると、ぷんとなまぐさいにおいがする。
洗いながして、爪の間をながめると、今度はあの髪の毛ははさまっていなかった。
湯を沸かし、茶を入れ、ターミナルのデパートで買って来た弁当を食いはじめた。──途中で思い出して、ウイスキーをひっぱり出して水割をつくり、それをあおりながら食べた。できるだけにぎやかにしたいので、テレビはつけっ放しにしておいた。──酔いがまわり、腹がくちくなってくると、少しは気分がおちついた。
血が、どうだというのだ?──別に実害はない。ひょっとすると、掌の毛細血管から、自然に血が噴き出す奇病かも知れない。そうだ、明日、医者に行ってみよう。……人間の体にできた
髪の毛は?
三回とも偶然だろう──と、彼は自分に
テレビの白痴的お笑い番組のにぎやかさに元気づけられて、その強弁もなんとか飲みくだせそうだった。──彼は、グラスをのみほし、熱い茶を湯のみに一ぱいつぐと、のこったおかずで、冷えた飯をかきこみはじめた。──二口、三口、ほうばった時、舌の先になにかざらっとしたものがふれた。指を口につっこもうとすると、口から何かが糸をひいた。
つまんでひくと、飯の中から、細く、長い、やや赤らんだ女の髪の毛がずるずるとひき出されて来た。
しばらく、
あまりの胸苦しさに、思わず大声で叫ぼうとして眼がさめた。──部屋の一角から、はげしい雑音とともに、青白い光が横ざまにさしている。テレビをつけっぱなしのまま眠ってしまったらしい。いつ蒲団を敷いてもぐりこんだのかおぼえがないが、ちゃんと蒲団はかけている。が──そのかけ蒲団の
突然、全身にどっと冷たい汗がふき出した。
蒲団の裾の方に、誰かが立っている!
テレビからさす青白い光が、かろうじて、その足もとをかすかに照らし出すだけで、顔はもちろん、
「誰だ!」
と声が出たとたん、胸から裾へかけての重みがすっとなくなった。反射的にはね起きたが、全身はまるで電気にかかったようにはげしくこまかくふるえ、膝ががくついて立つ事もできないほどだった。カタカタカタとかわいた音をたてて、歯が鳴っていた。黒い影は、まだ部屋の隅に
「誰だ!……そこにいるのは誰だ……」
彼は、かすれた声でもう一度叫んだ。叫びながら、まるではうようにして、壁のスイッチをさぐった。
部屋の隅には誰もいなかった。──今の今まで、その一角から吹き出していた冷気は、明りがつくと同時にふっと消え失せた。だが、ぼたっ……ぼたっ……という音は、なお蒲団の裾の方からきこえ、畳の上に、どろりとした赤い斑点がひろがりつつあった。
彼は天井を見上げた。──白っぽくぬられた天井のどこにも、血のしたたってくるあとはない。にもかかわらず、ぼたっ、と音がして、畳の上に、また小さな赤い花が咲いた。彼は思わず、血溜りの上に手をのばした。──ぽつっ、となまあたたかい血の
血は、畳の上七、八十センチほどの高さの、何もない空間からしたたりおちている。
ふわり、と何かがひろげた指にからまった。──細い、三、四十センチほどある髪の毛だった。
人さし指にからまって、すうっと下にたれた髪の先を見おろすと、畳の上の血溜りの傍に、二筋の髪の毛が、蛇のようにうねっていた。
4
「掌の皮膚に異常はない……」と加賀見医師は検査室から出て来ながらいった。「汗腺も毛細血管もごく正常だ。──色汗症といって、色のついた汗が出ることもあるが、それでないのは勿論だし……第一、あの血液型はAB型だ。君の血じゃない」
「だから、はじめから言ったでしょう!」彼は傍の奈良崎をふりかえって、叫ぶように言った。「あの血は、掌から噴きだすんじゃないんだって……」
「とすると、いよいよ怪談か……」奈良崎は、鼻の頭を搔いた。「怪談といっても、いろいろあるぜ。──〝聖痕〟というのを知っているかね? ヨーロッパじゃよくあるが、健康な人間の掌や、足の甲に、何で切ったわけでもないのに、突然傷ができて血が噴き出すんだ。それがちょうど、キリストが
「ヨーロッパも、地方へ行けば、まだまだ未開だからな……」と奈良崎と同期の加賀見医師は、眉をしかめた。
「信心きちがいが、ヒステリー発作を起して、無意識のうちに自分で傷をつけるんだろう」
「ところがそうも言われん所があってね……」妙な趣味で、世界中の奇現象についてよく知っている奈良崎は肩をすくめた。「君たち医師の、合理的説明って奴を、まるきりうけつけない現象もあるんだ。──クラリタ・ヴィラノヴァ事件というのを知っているか?」
「知らんな。なんだ、それは……」
「一九五一年五月十日、十一日と二日にわたってマニラ市で起った事件だ。クラリタという十八歳の少女が、突然眼に見えない何ものかにおそわれ、かみつかれた。その歯型が、体中何箇も、警官、マニラ警察署長、監察医、マニラ市長の見ている前であらわれたんだ。二度目は法廷で新聞記者が見ている前で起った。三度目はマニラ市長が少女の腕をおさえていたが、その手の下で、歯型があらわれた……」
「信じられんな、そんな事……」と加賀見医師は横をむいた。
「じゃ、自分でマニラへ行って当時の記録をしらべるんだな。新聞記者にも、警察の公式記録にものこっている。──多木は、昨日の晩、部屋の中の、何もない空中から、血がわいてしたたりおちた、と言っていたな……」
「ええ……」
「それも似たような話がずいぶんある。──広義の〝
「やはり、血も降るんですか?」
「血の話は聞かないが、何もない空間から、岩だの小石だのが降ってくる、という事件は、世界中にいやというほどある。──日本でも富山県にそういう事がよく起る村があるが、一番有名なのは、一九五七年三月七日、アメリカのパースという街で起った現象だ。その時は、ペニーという青年の仮住いのテントの中で、高さ一・八メートルほどのなにもない空間から小石がふり出し、日中数度、一回五分ほど降りつづけた。新聞記者十名、見物人五百人の見る中で、その現象はつづき、記者や警官がテントの内外をしらべたが、テントには穴もあいておらず、すきまもなかった。この現象は三十五日間もつづき、ペニーというその青年についてまわった。また、乾いた壁から突然水が噴き出し、壁をこわしたが、中には水道管も雨もりもなかった、という事件が一九六三年九月二十七日、アメリカのマサチューセッツ州メチューエン市のマーティン邸で起っている……」
「どうも、これは……そんなのじゃないみたいです……」と多木は青い顔でつぶやいた。「たしかに……あれは、女の幽霊でした。幽霊が……ぼくにたたっているんです」
「なにかおぼえがあるか?」
「まさか……」多木はぎょっとして、青ざめた。「……何のおぼえもありません」
「じゃ、なぜ、君にたたるんだろう……」奈良崎は首をかしげた。「今夜も君の部屋に出るかな?──ぼくが泊ってやろう」
「それより二人とも、紹介状を書いてやるから、精神科へ行ってみたらどうだ?」加賀見医師はうんざりしたようにいった。「頭がおかしいんじゃないか?──ばかばかしい」
「じゃ、君はこれをどう説明するんだ」奈良崎はいきなり多木の右手をつかんで、ぐいと医師の方につき出した。
「つい一分前まで、きれいに洗われていた事は、君も見ていたろう?──皮膚組織をきりとったあとからの出血だ、と思うなら血液型をしらべてみろ。手品じゃない、彼の体のどこに、そしてこの部屋のどこに、これだけ大量のAB型血液があるか、さがしてみたらいい」
たった今、血みどろになった多木の右手を見て、加賀見医師はさすがに顔色を変えた。
奈良崎はその土曜日の夕方、アパートへ来た。──
何十回目かの勝負で、奈良崎がコールし、彼が手をさらした。──クラブとスペードのキング、ダイヤとハートのクインのツウ・ペアのカードの上に、なにかがポトッとおちた。彼は、はっとして宙を見上げた。
「はじまった……」と彼はかすれた声でいった。「……ようです……」
キングの剣をもった手の上に、ぽつりと赤い汚点ができた。つづいてもう一枚のキングのカードにも、……それにつづいて、ハートのクインの胸にも、じわっ、と血の
それを見た時、彼の中に、ずきん、と名状しがたい衝撃が走った。
ツウ・ペア……。キングの血ぬられた手と、クインの血のにじむ胸……。
ぼたっ……。
と、奈良崎の背後で、畳の鳴る音がした。部屋の一角から、氷のような冷気がふうっ、と吹き出した。
「はじまったか?」奈良崎は、襟をすくめながら天井を見上げた。「どこに?」
「うしろ……」彼はこまかくふるえながら指さした。
入口のドアのついた壁と、押入れとのつくり出す角の所の畳の上に、もう三つ、赤い、丸い点ができていた。──血の滴は、はっきり、畳から八十センチほど上の空間にふいにあらわれ、落下し、畳の上に、ぼたっと音をたてる。
さすがの奈良崎も、紙のような顔色になって、その血の滴のあらわれる空間を凍りついたように見ていた。──意を決したように立ち上ろうと奈良崎が膝をたてたとたん、電圧が下ったように、蛍光灯がぶん、と音をたてて暗くなる。思わず見上げる二人の頭上で、蛍光灯は、ぼうっと光力を弱めて、ふっと消えた。
多木はとうとう、見栄も外聞もなく、悲鳴をあげた。
明りの消えた真の闇の中に、ちょうど血のおちていた部屋の隅の所に、ぼんやり若い女の姿がうかび上った。──肩から背へすべる長い髪、藍のようにまっさおな顔、なめらかな卵型の顔に、ほそく弧を描く眉、通った鼻筋、くろずんだハート型の唇……瞳のないうつろな眼は、ひたと彼の方にむけられ……黒い裾をひくマキシドレスの左胸には、深々と何かの刃物がつきささり、そこの傷口から、燐光を放つ血が、闇の中で赤く燃えながら、ぽたり、ぽたりとしたたりおちる。
女は突然、苦悶にその美しい顔をゆがめた。
唇がいっぱいにひらかれ、その部屋の中ではない、二人の頭の中に、すさまじい断末魔の悲鳴が、長く長くこだましたかと思うと、女の姿は、くずれおちるように消えた。