『源泉恐怖小説集 牛の首』より「ツウ・ペア」

YouTubeで紹介!珠玉のホラー短編を収録!小松左京『厳選恐怖小説集 牛の首』より「ツウ・ペア」試し読み
小松左京による秘蔵のホラー短編をまるまる試し読み!
SFの巨匠であり、ホラーの名手でもある小松左京のホラー短編を集めた『厳選恐怖小説集 牛の首』より、「ツウ・ペア」の試し読みを公開いたします。
オカルトエンタメ大学にて、怪談家のぁみ先生もその恐さを語るホラーミステリ。ぜひ動画とあわせて恐怖体験をお楽しみください。
【驚愕の結末】毎晩部屋に現れる正体不明の女は誰だ?小松左京の隠れた名作を怪談家ぁみ先生が語ります。
ツウ・ペア
1
まっすぐ立っていられないほど酔っていたので、鍵が鍵穴になかなかはいらなかった。
汗のせいか、いやに右手がぬるぬるして、力がこもらないので、彼は掌を何度もオーバーにこすりつけたが、また鍵をまわそうとするとぬるりとすべる。
酔っぱらって歩いているうちに、塀にでも手をついて、タールでもついたのかな……と、彼は体をふらふらゆすりながら、頭の隅でぼんやり考えた。──そういえば、工事場の横で転んだような気もする。あの時、油のたまりにでも手をつっこんだのかも知れない。
誰かが背後から、じっと見つめているのを感じて、彼は知らぬ間にドアにくっつけていた頭をあげ、鉛のように重い眼蓋をむりに押し上げた。同じ階の、どこかの部屋の主婦らしい細面の女が、四、五メートルはなれた所に立っていた。──髪の長い女だ、という事はわかったが、顔は陰になって見えない。
「やあ……やあ……」彼は頭をぐらぐらさせながら手をあげた。「今晩は……ただいま……どうも、おさわがせしてすいません……」
彼が手をあげたのを見ると、女の姿は、何かにおびえたように、ふっと消えた。──部屋にひっこんだらしい。
ドアの鍵穴の横にも、黒っぽいしみがついてしまった。鍵はあいたが、今度は、ドアのノブがすべってまわらない。左手で、やっとまわしたと思ったとたん、頭からつっこむように、部屋の中にころげこんでいた。
自分のいびきで、突然目がさめた。──とたんに襟もとがぞくっとして、大きなくしゃみがとび出した。
天井に青白く光る輪が見えた。二つになったり四つになったり、ふわふわと飛びまわったりしていたが、それがやっと二つの輪型の蛍光灯におさまると、今度は、チッ、チッ、とせわしなくひびく、目覚しのセコンドの音が、はっきりきこえてきた。その間に、ポツン、ポタン、と、水道の蛇口からおちる水滴の音が、ステンレスの流しに反響して、びっくりするほど大きくひびく。
部屋の中は、しんしんと冷えこんでいる。
肩がぎちぎちに
起き上って、靴を入口にたたきつける。──とたんに胸がむかついて、こめかみにずきんと、痛みが走った。明日は、宿酔いの、ひどい出勤になりそうだ。
ガスをつけ、オーバーをぬぎ、ネクタイをひきむしり、水道の蛇口に口をつけて、じかに冷たい水をがぶがぶ飲んだ。──大息を一つふうっ、とついて、額にかかる髪を手の甲でかき上げると、眼の前に、赤いものがちらついた。
彼は流しの前に立って、しばらくぼんやりと赤く染まった右手を見つめていた。──部屋にはいって寝こんでから、ずいぶんたつような気がするのに、血は、たった今ついたばかりのように、ぬれぬれと光っていた。
ふと気がつくと、シャツの胸の所にも、べたべた血の手型がついている。──この分だと、ドアの所にも、オーバーや上衣などにも、いっぱいついている事だろう。
いったい、どこでこんなに大量の血が、手についてしまったのか?
工事場でころんだ時、交通事故の
かすむ頭で、彼は駅をおりてから、団地にかえりつくまでの事を思い出そうとした。駅にタクシーがなくて、歩き出してから、途中で
とすると、やはりころんだ時だろうか?
それにしても、どうして血糊があんなにあたらしかったのだろう?──そもそも、これはいったい、何の血か?
白くふやけた掌を眼の前にあげて、何という事なしににぎりしめてみた。大きな
突然、どこか、ずっと遠くで、魂消るような女の悲鳴がきこえたような気がして、彼はぎょっとしてまわりを見まわした。──が、どこで聞えたわけでもなく、頭の中にひびいた幻想だという事は、自分でもすぐわかった。肩で息をついて、手をおろそうとすると、凝りかたまったように腕が動かない。指も、ぎゅっとこわばって開かない。
まだ血のこびりついている爪の間に何かがはさまっている。──ふるえる左手の指で、つまみとってみると、五、六十センチはありそうな、細く、長い、女の髪の毛だった。
髪の毛をとりさると同時に、右手の
2
「多木くん……」
と提出した書類に眼を通していた課長が突然びっくりしたようにいった。
「は?」
寝不足でいつの間にかぼんやりしていた彼は、はっと我にかえって、立っている課長の机の前で背筋をのばした。──なにか、ミスがあったか……。
課長の隣の係長が、こちらを見ている。まわりの、いくつかの視線が、彼にそそがれていた。
「その手はどうした?」
はっとして視線をおとすと、右手がまっかだった──彼はまっさおになった。傍の女事務員が、小さな悲鳴をあげた。彼は、おろおろして、なんとかその手を、まわりの視線からかくそうとした。
「だめよ、多木さん……」と、背後から手がのびて、彼の腕をささえた。「シャツにつくわ」
「怪我したんだろう。早く医務室へ行きたまえ」
と課長はいった。
彼は血みどろの右手を、思わずかたくにぎりしめた。怪我でない事は、どこにも痛みを感じない事からすぐにわかった。
「上にあげた方がいいわ、またたれてくると……」
とお
「いいんだ……」彼は
「飲むのもいいが、宿酔いするほど無茶飲みをするなよ」課長が声をかけた。「書類ミスぐらいならどうってことはないが、大怪我して気がつかないなんて事になると命にかかわるからな」
笑い声が上るのを背にききながら、彼は事務室をとび出した。にぎりしめた右手を、左脇の下にかくすようにしながら、エレベーターの前を走りぬけ、階段をかけ上る。その階の洗面所は、いつも誰かはいっている。二階上の、役員室がある階のものなら、大てい誰もいない。
階段をかけ上って息を切らせながら、彼は人気のない廊下をしのぶように足早やに歩き、洗面所のドアの外で、そっと中の様子をうかがい、人の気配がない事をたしかめて、すべりこんだ。
水をはねかえるほど出して、半まくれのシャツの袖がぬれるのもかまわず、彼は肘の関節ぐらいまでごしごし洗った。水を勢いよく出したのは、赤く染まるのを見るのが何だかこわかったからだった。
血は、たった今ついたばかりのように、ぬらぬらしていた。石鹼液をたっぷりつけ、思いっきりごしごし洗って、爪の間にこびりついていないかたしかめようとすると、そこにまたそれがあった。
細く、長い、かすかに赤みをおびた女の髪の毛……。そして、手の甲の三筋のみみず
ふいに横の洗面台に、人影が立ったので、心臓がのどにとび上るくらいおどろいて、ふりかえると、隣の課の、同じ大学の先輩の奈良崎が、水道の栓をひねっていた。──背後で洋式便器の中を水洗の水がおちる音がしていた。誰もいないと思ったが、奈良崎がはいって扉をしめていたのに気がつかなかったのだ、とわかった。
「怪我かね?」伊達男の奈良崎はぬれた手をぬぐうと、ボウタイをちょいとなおしながら、鏡にむかっていった。
「ええ……いや……」
「ずいぶん熱心に洗ってたな……」奈良崎は、ニヤッと笑った。「なんだかマクベス夫人を思い出させたぜ」
返事のしようがなくて、彼はほとばしる水の中で、やたらに手をもんでいた。──もちろん、爪にはさまった髪の毛は、水の中でとって流してしまった。
「君もこの階のトイレを使うのかい?」奈良崎は、ネクタイのつぎに、襟を下にひっぱりながらいった。「おれもさ。混んでなくていいよな。悠々と
お先に、といって奈良崎が出て行ってしまったあと、やっと彼は水をとめた。──ハンカチで冷たくなって色の変った手をぬぐって、ふと洗面台をのぞくと、あれほど強く流しつづけたのにもかかわらず、あの長い髪の毛は、真っ白な陶器の上に、ゆるくうねってへばりついていた。
階段を一階おりる間に、彼はこのままでは、課にかえれない事に気がついた。──その階からエレベーターにのって、彼は六階の診療所へ上った。さいわい、一、二度デートした事のある、かわいい、気だてのいい看護婦がいたので、彼は
「
「どうしたの? 怪我?」と看護婦はよく通る明るい声でいった。「出しなさいな、見てあげるわ」
しっ、と彼は唇に指をあてた。
「薬はいいんだ。──繃帯だけくれれば……」
「いったいどうしたのよ。どこを怪我したの?」
「君に見せられない所さ──おちんちんだ」
「ばか!」
少し顔を赤くして、ぴしゃりと彼の腕をぶつと、看護婦はケースをあけて繃帯の包みをとり出した。
「本当に繃帯だけでいいの?──一体何にするの?」
彼は繃帯の包みをうけとって、ちょっと考えた。
「やっぱり、薬をぬってもらおうかな……」
「それごらんなさい」クスッと笑った看護婦は、しかし、彼のつき出した右手を見ると、けげんな顔をした。
「どこを怪我したのよ」
「してやしないさ」彼は無理に笑いをうかべながらいった。「実は、今日の午後テニスの試合を申しこまれていてね。出たくないんで……その口実づくりさ」
「あら、多木さんもテニスやるの?」外用薬の
クスクス笑いながら、手ぎわよく繃帯をまきおわると、突然看護婦の眼の光がつよくなった。
「やだ……」と、彼のシャツの胸もとに指先をのばしながら、看護婦はいった。
「こんな所に、女の人の髪の毛つけちゃってさ、──ごちそうさま」
誤解だよ、という声は、口の中だけで、とうとう唇の外に出なかった。──彼は自分の顔がまっさおになり、冷や汗がふき出した事をさとられまいと、くるりと背をむけると小走りにかけ出した。眼の隅に、ぷっとふくれた看護婦の顔がちらとうつった。
課の部屋にはいる前に、彼は呼吸をととのえ、汗をぬぐい、顔をこすって血の色をよみがえらせた。
「ひどい怪我だったかね?」
机へかえって行こうとすると、課長が声をかけた。
「いや……大したことはありませんでした」彼はこわばった笑いをうかべながら、かすれた声でいった。「知らないうちに、どこかにひっかけたらしくて……」
「顔色が悪いぞ……」と課長はいった。「なんならちょっと休んできたらどうだ?」
それほどの事はありません、と呟きながら、彼はそっと机の下にかくした右手を見た。今巻いたばかりの繃帯に、また血がにじんではいないか、と思ったのだった。
繃帯は、まだまっ白だった。
それはよかったが、今度はもう一つの事が思い出されて来て、彼は全身の血が、ずしりと重く、足の方に沈んで行くのを感じた。
それでは──今朝、また右手が血まみれになっていたのは……あれは、ゆうべ酔っていて、洗ったつもりで洗い忘れたのでは決してなかった。
右手は、寝ている間に、再び血まみれになっていたのだ!
それにしてもこの血は……と紫色にせばまり行く視界を、必死にふみこらえながら、彼は胸の底でつぶやいていた。……いったい、どこからくるのだ? そして、あの髪の毛は。