「どうだい、周さん?」
だしぬけに背後で声がした。振り返ると、生駒が斜面をくだってきていた。
「中に男性がいます」と周平はいった。
それからふたりで協力して慎重に男を引き出した。傍らの女と同年輩と思われる男だった。目立った外傷こそなかったが、こちらは一見して絶命していることがわかった。周平が念のために脈を取ったり、
──陽一はまだか。
「村越くんのハイラックスと擦れ違わなかったですか」と周平は
「いいや、誰とも
「おれは、彼を探してきます。ひとまずここは社長におまかせします」
「ああ、わかった。周さんも気をつけてな」
「はい」
周平はロープを手繰って斜面を登った。林道に戻ると、ちょうどそこに丹羽のジムニーが乗りつけた。丹羽は路肩に車を寄せて停め、運転席の窓越しに「生駒社長から電話をもらいました。車は村越くんのですか」と険しい表情で訊ねた。
「いえ、違いました。お年寄りのご夫婦のようです。女性は生きていますが、男性の方は車の中で死亡していました」いいながらバイクに駆け寄った。「丹羽さん、おれは上に行ってきます。村越くんのことが心配なので」
「私もご一緒します。ひとりでは危険だ」
「しかし、ここは?」
「救急車が間もなく到着します。交通課の連中も駆けつけますから、彼らにまかせましょう。さあ、車に乗ってください」と丹羽はいい、ジムニーの助手席のドアを開けた。
車に乗り込んだ周平は、岡村に告げた。
「別件で崩沢へ行くので、ここをお願いします」
岡村は黙って
「それから」と丹羽がいった。「あとで実況見分が入るだろうから、このカーブの近辺はあまり荒らしたくない。岡さん、すまないが、救急車やほかの車をうまく誘導してくれ」
岡村はまた頷いたが、なにやら心細そうな顔になっていた。構わずに丹羽は車を発進させた。登り坂のカーブでジムニーのエンジンが
「早速、丹羽さんに怒られそうな事態になってしまいましたね」と周平がいった。
「怒るだなんて、そんな……」と丹羽は否定したが、不機嫌は隠せなかった。
「村越くんになにかあったら、おれの責任だ」
死者を見、死者の冷たさに触れた周平は動揺を隠し切れなかった。
「なにかあったと決まったわけじゃありませんよ。村越くんは崩沢へ向かったんですか」
「ええ。日没までには帰るという約束だったんですが」
すでに陽はとっぷりと暮れていた。ハイビームのヘッドライトが射し照らす眼前の光景は本来の色が飛んでしまって白く輝き、まるで写真のネガを見るようだった。周平は次第に
「どうしたんです?」
「事故現場に作業服を置いてきてしまった。ポケットに無線機が入っていたんです」
「無線機?」
「ええ。なにかあった時のためにと思って、村越くんにも同じものを持たせていました」
「かなり出力のある無線機ですか」
「いいえ、杳子と山歩きをするために買った
そんなやり取りをしている間に、陽一の車が見えてきた。とりあえず崩沢まで降りてみようということになり、ジムニーをハイラックスの後ろに停めた。それぞれに懐中電灯を持ってふたりが旧登山道をくだりはじめた時、すぐ間近で犬が
「リキか!」
周平が呼ぶと、アイリッシュ・セッターが
「おまえの主人はどうした?」
周平はリキが駆けてきた方角に懐中電灯の光を向けた。すると、陽一がこちらに向かって登ってくるのが見えた。ひどく疲れたように
「約束が違う! 日没前には戻れといったはずだぞ」
周平はただならぬ気配を察し、訊ねた。
「いったいどうしたんだ?」
陽一は二歩、三歩、おぼつかない足取りで前に進み出たかと思うと、いきなり
「それはなんだ?」と周平は訊ねた。
陽一の反応は鈍く、表情はまるで幽鬼のそれのようだった。彼は今、なにも見ていないし、なにも聞いていないし、なにも感じていない……。周平は軽く陽一の頬を張った。すると、ふいに陽一の眼から涙が
「なんだって? はっきりいいなさい」と丹羽が問い
「……こんなふうになってしまいました」と陽一は涙声でいった。「あいつが……こんなふうになってしまいました」
陽一がトレーナーを地面に置いた。それを広げたのは丹羽だった。周平は一瞬、そこに現われ出たものを流木かなにかだと思った。丹羽が先に反応して眼を
トレーナーに包まれていたものは人間の脚だった。右脚の膝下の部分で、血とも土ともつかぬ汚れに
「あいつがこんなふうになってしまいました。茜がこんなふうに……」
陽一はうわ言のように繰り返した。周平と丹羽はおたがいの顔を
「洗ってやりたかったけど……」陽一が
丹羽が静かに陽一の肩に手を置き、訊ねた。
「どこで見つけたんだね?」
「……橋から百メートルも離れていないところです。岩と岩の間に挟まっていました」
「見つけたのはこれだけかい?」
陽一は頷いた。
「ほかにも見つけようと思ったけど……必死で探したけど……暗くなってしまって……」
陽一はそれだけ答えるのが精一杯だった。あとは声にならず、地面に突いた
腕の中で
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