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試し読み

山で見つかったひとつの頭蓋骨。それは惨劇の始まりに過ぎない――【北林一光『ファントム・ピークス』試し読み】

2024年3月の角川文庫仕掛け販売タイトルとして、新オビでの展開(※)がスタートした北林一光さんの『ファントム・ピークス』。これにあわせて、作中の一部を特別公開!
ぜひこの機会に、気になる物語のワンシーンをお楽しみください!

※新オビの展開状況は書店により異なります。

作中の一部を特別公開!
北林一光『ファントム・ピークス』(角川文庫)試し読み



あらすじ
長野県安曇野。半年前に失踪した妻の頭蓋骨が見つかる。しかしあれほど用心深かった妻がなぜ山で遭難? 数日後妻と同じような若い女性の行方不明事件が起きる。それは恐るべき、惨劇の始まりだった。

 14 五月二十三日 烏川林道上部I

 もちろん丹羽本人は知る由もなかったが、彼の予感が早くも的中していた。例の新聞記事を見て山を訪れようとしている者がいたのだ。ただし、それは茶髪の高校生でもなければ暴走族でもなかった。人一倍常識をわきまえた思慮分別のある大人、ひと昔もふた昔も前に流行した言葉でいえば、〝フルムーン旅行〟の最中にいる老夫婦だった。
 夫はむらきようすけ、妻はきく。ともに六十九歳。神奈川県よこ市で息子夫婦と暮らしているふたりは、恭輔の定年退職後、初めての長期旅行をたのしんでいた。ふたりには以前から信州や安曇野へのあこがれがあった。かつて文学青年だった恭輔は、たとえば信州で青春時代をすごしたきたもりの文学作品などに触発され、憧れをはぐくんできた。海辺に育った菊路はいささかあまじや的に山国の自然をずっと夢想していた。若い頃からいつかふたりで行こうと話し合いながら今まで引き延ばしてきてしまったが、恭輔がリタイアして時間が空くようになったので、ようやくこの旅が実現したのだった。あまり細かいスケジュールを立てずに、のんびり乗用車で憧れの地を旅しようということになり、三日前に自宅を出発した。松本市内、うつくしはらかみこうのりくらなどを観光し、明日以降はおおまち温泉郷のホテルに拠点を移してくろダムやはくに出かけるつもりでいた。そして、松本から大町へ向かう途中に立ち寄った穂高町の蕎麦そば屋で恭輔が偶然、一日前の新聞記事に眼を止めた。彼は「魔の山」とか「神隠し」という言葉を異様に喜んだ。
「へえ、神隠しか。まだあるんだな、こんな古風な話が」
「なんですか、子供みたいなことをいって」と菊路は笑った。
「〝魔の山〟だってさ。トーマス・マンの小説のタイトルだね」
 菊路は夫に押しつけられた新聞を斜めに読んで、「嘘に決まってるでしょ、こんなの」といった。
「そういえば、神隠しみたいな現象を扱った映画で、どうしても題名を思い出せないやつがあるんだよ。全寮制学校の女子生徒が三人、山でこつぜんと行方を絶って、それっきりになってしまうんだ。洋画なんだがね、なかなかいい雰囲気の作品だった。おまえ、覚えていないか」
「私、一緒に観ました?」
「一緒だよ。宏太が生まれる前だったかもしれない」
「ずいぶん昔のことね。忘れちゃったわ」
「ほんとうにいい雰囲気の映画だったんだ。映像がすごくれいでね。一時期、また観たくなってビデオ屋で探したんだが、結局、見つからなかった」
「変な人ね、今日に限ってそんなことをいって。神隠しだとか、映画だとか……あなた、そんなことに興味を持つ人だったかしら?」
 恭輔は構わず、蕎麦屋の主人に「この記事に紹介されている事件はほんとうにあったんですか」と質問した。決して愛想がいいとはいえない店主は「あったみたいですね」と短く答えた。恭輔はおおよその場所を店主にたずね、さらにガイドブックで道順を確認すると、「ここから近いぞ。行ってみないか」と妻に笑顔を投げかけた。
「いやよ。怖いじゃない」と菊路も笑って拒絶した。
「なんだよ、おまえこそ本気にしているじゃないか」
「そうじゃないけど……」
「心配ない。神隠しに遭うのは美人だけだそうだ」
 恭輔の軽口に、菊路は「どういう意味よ?」と少女のように頬を膨らませた。
「どうせ急ぐ旅じゃないんだ。道草して行こう。道草なんて久しく人生になかったことなんだから」
 恭輔は子供じみた自分を愉しんでいたのかもしれない。この時この場所でこの記事を眼にした偶然をおおに喜んで、郷愁とか旅情を自分であおっていたのかもしれない。あるいは忙しくすごしてきた過去に対するアイロニーのように、ことさら無意味なことをしたがっていたのかもしれない。
「須砂渡ってところには温泉もあるらしいぞ。帰りはそこに寄ってもいいじゃないか」
 ガイドブックの情報を引き出してまで恭輔は妻の気をこうとした。神隠しの山へ赴くという思いつきにすっかり囚われてしまっているようだった。
「温泉って……あなた、これから私たちが行くところも温泉なんですよ」ほんとうに子供みたいだわと思って菊路は苦笑したが、夫のわがままに付き合う気になっていた。「車で行けるならいいわよ。有名な観光地ばかり訪ね歩くというのも、この旅の主旨に反するような気がするし」
「そうさ。道草こそ旅、道草こそ人生だよ」
 蕎麦屋を出た志村夫妻は、恭輔の定年後に買い替えたオデッセイに乗り込み、松本方面へ引き返した。走行距離は二千キロそこそこ、まだまだ新車の匂いがこもる車を駆って、田植えが済んだばかりの緑色の大地のただなかを気持ちよく疾走した。
 ふたりの旅はすべてが新鮮で、華やいでいた。季節もよかった。行く先々で清新な緑や色あでやかな花々に迎えられた。そして、山国ならではの風景に圧倒された。たとえば、昨日行った上高地。ふたりは河童かつぱ橋から眺めた山岳パノラマに思わず息を飲んだ。なにかというと雑誌やテレビなどで紹介されるいささかあかのついた定番の風景だが、写真で見るのと実際にその場所に立って見るのとでは大違いで、まるで天国を眺めるような美しさだった。死ぬまで記憶にとどめたい風景だと菊路はいった。恭輔も同感だった。
 しばし感慨にふけったふたりは、当初の予定にはなかった山歩きを敢行することにした。おたがい体力にはまったく自信がなかったが、山の澄んだ空気と美しい風景がふたりの背中を押した。あずさがわ沿いの道を軽快に歩いた。そのうち自分たちの年齢や衰えた体力のことなどすっかり忘れ去っていた。昔にかえったようにはしゃぎ、からかい合いながら歩きつづけ、ふと気がつくと、一時間ほどの道程を踏破してみようじんいけ辿たどり着いていた。夫婦は、年寄りの冷や水になりかねない軽挙を大いに笑い合った。まだまだおれたちも捨てたもんじゃないなと少しばかり自信を取り戻し、〈もん小屋〉の露天のテーブルに座ってジュースで乾杯した。帰路もまた愉しかった。その間、恭輔はビデオムービーを、菊路は写真を撮りまくった。今回はいい旅になりそうだ──ふたりともそう思った。


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