2024年3月の角川文庫仕掛け販売タイトルとして、新オビでの展開(※)がスタートした北林一光さんの『ファントム・ピークス』。これにあわせて、作中の一部を特別公開!
ぜひこの機会に、気になる物語のワンシーンをお楽しみください!
※新オビの展開状況は書店により異なります。
作中の一部を特別公開!
北林一光『ファントム・ピークス』(角川文庫)試し読み
あらすじ
長野県安曇野。半年前に失踪した妻の頭蓋骨が見つかる。しかしあれほど用心深かった妻がなぜ山で遭難? 数日後妻と同じような若い女性の行方不明事件が起きる。それは恐るべき、惨劇の始まりだった。
14 五月二十三日 烏川林道上部I
もちろん丹羽本人は知る由もなかったが、彼の予感が早くも的中していた。例の新聞記事を見て山を訪れようとしている者がいたのだ。ただし、それは茶髪の高校生でもなければ暴走族でもなかった。人一倍常識をわきまえた思慮分別のある大人、ひと昔もふた昔も前に流行した言葉でいえば、〝フルムーン旅行〟の最中にいる老夫婦だった。
夫は
「へえ、神隠しか。まだあるんだな、こんな古風な話が」
「なんですか、子供みたいなことをいって」と菊路は笑った。
「〝魔の山〟だってさ。トーマス・マンの小説のタイトルだね」
菊路は夫に押しつけられた新聞を斜めに読んで、「嘘に決まってるでしょ、こんなの」といった。
「そういえば、神隠しみたいな現象を扱った映画で、どうしても題名を思い出せないやつがあるんだよ。全寮制学校の女子生徒が三人、山で
「私、一緒に観ました?」
「一緒だよ。宏太が生まれる前だったかもしれない」
「ずいぶん昔のことね。忘れちゃったわ」
「ほんとうにいい雰囲気の映画だったんだ。映像がすごく
「変な人ね、今日に限ってそんなことをいって。神隠しだとか、映画だとか……あなた、そんなことに興味を持つ人だったかしら?」
恭輔は構わず、蕎麦屋の主人に「この記事に紹介されている事件はほんとうにあったんですか」と質問した。決して愛想がいいとはいえない店主は「あったみたいですね」と短く答えた。恭輔はおおよその場所を店主に
「いやよ。怖いじゃない」と菊路も笑って拒絶した。
「なんだよ、おまえこそ本気にしているじゃないか」
「そうじゃないけど……」
「心配ない。神隠しに遭うのは美人だけだそうだ」
恭輔の軽口に、菊路は「どういう意味よ?」と少女のように頬を膨らませた。
「どうせ急ぐ旅じゃないんだ。道草して行こう。道草なんて久しく人生になかったことなんだから」
恭輔は子供じみた自分を愉しんでいたのかもしれない。この時この場所でこの記事を眼にした偶然を
「須砂渡ってところには温泉もあるらしいぞ。帰りはそこに寄ってもいいじゃないか」
ガイドブックの情報を引き出してまで恭輔は妻の気を
「温泉って……あなた、これから私たちが行くところも温泉なんですよ」ほんとうに子供みたいだわと思って菊路は苦笑したが、夫のわがままに付き合う気になっていた。「車で行けるならいいわよ。有名な観光地ばかり訪ね歩くというのも、この旅の主旨に反するような気がするし」
「そうさ。道草こそ旅、道草こそ人生だよ」
蕎麦屋を出た志村夫妻は、恭輔の定年後に買い替えたオデッセイに乗り込み、松本方面へ引き返した。走行距離は二千キロそこそこ、まだまだ新車の匂いが
ふたりの旅はすべてが新鮮で、華やいでいた。季節もよかった。行く先々で清新な緑や色
しばし感慨に