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試し読み

山で見つかったひとつの頭蓋骨。それは惨劇の始まりに過ぎない――【北林一光『ファントム・ピークス』試し読み】

 オデッセイは烏川林道を登りはじめていた。ここまでくる途中、一度だけ田んぼのあぜにいた農夫に道を訊ねた。恭輔が行方不明事件のことを口にしたので、農夫はげんな表情を浮かべた。だが、事件については否定も肯定もしなかった。陽にけた顔をゆがめ、けんに深々としたしわを寄せて、ただ一言、「まあ、山にはいろんな不思議があるもんさ」とらしただけだ。そんな農夫との一瞬のかいこうも今の志村夫妻にとっては旅の味わいのひとつだった。
 林道を三十分ほどかけて登ったが、その間、林道脇の斜面で作業をする土木作業員を見かけた以外はまったく人と行き合わなかった。乗用車は何台か停まっていた。釣人の車か、はたまた山菜採りにきている人の車か……いずれにしても、どやどやと人が押しかける山ではなさそうで、深山のせいひつと涼やかさに満ちていた。葉陰のドームのような箇所をいくつも通過し、助手席の窓を開放している菊路はその度にひんやりとした風を頬に受け、気持ちよさげに眼を細めた。道は三股駐車場のゲートで行き止まりになった。そこから先は蝶ヶ岳新道という登山道になり、しやりよう進入禁止となっていた。駐車場には十数台の車があった。皆ここに自家用車を置いて蝶ヶ岳や常念岳に向かうのだ。同じ登山口でも上高地とは雲泥の差だった。地味で、きようあいで、人気もない。もちろん売店などもなかった。あるのはトイレだけだ。
「なにもないところね」と菊路は拍子抜けしたようにいった。
「名所ばかり訪ね歩くのが旅じゃないって、おまえがいったんだろう。静かでいいところじゃないか」
 恭輔は車を降り、運転で疲れたからだをほぐそうと屈伸運動をはじめた。菊路も外に出た。
うまい空気だなあ」
 恭輔は伸びをして深々と山の空気を吸った。遠くでカッコウが鳴いている。この世ではないどこかから聞こえてくる鳴き声のようだった。
「ほんとうに静かねえ」
 菊路は、カッコウの鳴き声って不思議だわと思った。静寂がより際立つ。そして、山の底知れぬ奥深さを感じさせる。
「これが山本来の静けさなんだろうね」と恭輔も感慨深げにいった。「上高地は素晴らしいところだが、人が多くて騒がしすぎるのが珠にきずだな。自分が登るとしたら、こういう静かで地味な山がいい」
「あら、今度は登山?」と菊路がするようにいった。「昨日は、渓流釣りをやってみたいっていいませんでした? あなた、いったいいくつまで生きるつもりなんですか。これからそんなに趣味を作ったって、道具を揃えた途端にぽっくり逝っちゃうんじゃない?」
「いやなことをいうね、まったく。せいぜい長生きしてやるから、覚悟しとけよ」と恭輔は反撃した。「おまえもどうだ? 思い切って登山でもはじめてみないか。結構いるらしいぞ、年を取ってからハマる人が。この年にして夫婦共通の趣味を持つというのも一興だと思うがね」
「山登りなんて、いくらなんでも無茶ですよ。私は、昨日のピクニックみたいなコースが限界だわ」
 ふと恭輔が思案顔になり、つぶやいた。
「ピクニック……」
「なに?」
 恭輔の顔が輝き、「そうだ、ピクニックだよ」とひざを打った。「『ピクニックatハンギングロック』だ」
「なんですか、それ?」
「映画さ。さっきいった映画のタイトルだよ。ようやく思い出した」
 恭輔は「人生最大の謎がひとつ解けた」と大仰なことをいって喜んだ。
 菊路が訊ねた。
「そういえば、神隠しとやらはどこで起きたんですか」
「さあね。しかし、これだけ山深いと、そういうことがあっても不思議ではないという気がしてこないかね? あの映画もたしかそうだった。今となっては記憶もあいまいだが、少女たちがあたかも大自然に溶け込んでしまったというような描き方だったんじゃないかな。謎は謎として最後まで残し、合理的な解答を出さなかったはずだよ。少女たちは神に愛され、神に召された……そんな雰囲気だった」恭輔は眼を細めて遠くをった。「この山で消えた人たちも、何者かに愛されたのかな?」
「ロマンチックなんですね、男の人は」と菊路が柔らかく笑った。「でも、現実はもっと単純で、もっと残酷ですよ、きっと。それで、いつかは誰かが解答も出すんです」
 恭輔は頭を振り、嘆息した。
「夢がないね、女ってやつは」
 菊路がそんな夫の手を引いた。
「せっかくここまできたんだから、記念撮影しましょうよ。あの案内図のところで」
 わざわざ三脚を立てて、セルフタイマーでふたりのポートレートを撮った。恭輔は妻の肩に腕をまわして抱き寄せた。普段ならあり得ないことだった。旅先の夫は、じようぜつで優しいと菊路は思った。
 あとはなにをするでもなく、ふたりは駐車場の片隅に座って雑談をした。旅のこと、息子夫婦のこと、自分たちの将来のこと……脈絡のないおしやべりで一時間あまりがすぎた。志村夫妻はようやく車に戻り、三股駐車場を出発した。夫の甘言を受け入れて、菊路は須砂渡の温泉施設に立ち寄ることを承諾した。
 出発して間もなくのことだった。車の前方、数十メートルの距離で小さな影が林道を横切るのが見えた。
「今の、なに?」と菊路がいった。
「なんだろう?」
 恭輔も眼を凝らし、車のスピードを落とした。同じ場所を次々と動物が横切ってゆく。
「まあ、サルだわ」と菊路が喜んだ。「見て、赤ちゃんが背中に乗ってる。可愛いわねえ」
 ザルが、移動する母ザルの背や腹に必死に取りすがっている様に、志村夫妻は思わず微笑んだ。
「おい、写真を撮れよ」と恭輔がいい、車を停めた。
「サルをですか? いいわよ、カメラは後ろのバッグに入れちゃったもの」
「観光客ずれした日光あたりのサルとは違うんだよ。本物の野生ザルだ。こんな機会はめったにないぞ」
 恭輔の方は少し興奮ぎみで、セカンドシートに置いてあったビデオカメラを手に取って身構えた。
「それにしても、すごい数だな」
 恭輔はビデオをまわしながらゆっくりと車を進め、サルの行列の間近にまで迫った。車には慣れているようで、サルたちはなかなか逃げようとしない。恭輔が悪戯いたずら心からクラクションを鳴らしてみると、さすがにおびえて、群れがさっと左右に散った。警戒のえ声が湧き起こり、騒々しいほどになった。サルたちは素早く道沿いの木に駆けあがり、高みから人間の様子をうかがった。しばらく大勢のサルとのにらめっこがつづいたが、そのうちサルの方が飽きてしまったようで、一斉に枝を渡って下にくだりはじめた。それを追うように恭輔も車を発進させた。撮影は菊路が引き継ぎ、助手席の窓を開けてサルの移動をビデオカメラに収めた。
 右の急カーブを曲がろうとした時だった。やはり道を横切ろうとした〝それ〟が突然、車の前に出現した。まさに出合い頭だった。恭輔が「わっ!」と小さく叫んだ。撮影に気を取られていた菊路が少し遅れて前方を見た。〝それ〟を目の当たりにした菊路は(まさか)と思った。恭輔は衝突を回避するために慌ててハンドルを左に切った。そして、ブレーキを踏んだ……つもりだった。サルに注意が向いていたし、くだり坂ということもあって、かえってスピードは抑えていた。恭輔のとつの対処で事故は避けられるはずだった。しかし、恭輔が踏んだのはブレーキではなく、実はアクセルペダルだった。単純な、しかし重大な操作ミスによりオデッセイは一気に加速し、路肩を乗り越えてオニグルミの幹に激突した。運転席、助手席双方のエアバッグが作動した。志村夫妻の不運はそれだけでは終わらなかった。路肩でバウンドした車体が衝突後に横転し、そのままササやぶの急斜面を惰性で落下した。二転三転した車は、斜面に生えているかんぼくの群落に引っかかって停止した。腹を見せた車のタイヤがむなしく空をいていた。
 林道を挟んで反対側の斜面では、ササ藪が激しく揺れ動いていた。〝それ〟も大変な恐怖を味わい、一気に藪を掻き分けてとんそうしたのだ。さすがの巨体といえども、走りくる自動車に対抗することはできなかった。


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