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試し読み

【試し読み】20年の時を経て解き放つ〈となり町戦争2.0〉!――三崎亜記『みしらぬ国戦争』冒頭を大ボリューム特別公開!

2025年3月17日、三崎亜記さんデビュー20周年記念作品『みしらぬ国戦争』がついに刊行となります。
発売に先立って、大ボリュームの試し読みを公開します!

『となり町戦争』から20年ぶりに「見えない戦争」を描く、まさに原点回帰であり最高到達点と言える本作。
是非、お楽しみください!

三崎亜記『みしらぬ国戦争』試し読み

ユイ・エピソード1 流れ着くもの

「戦争なんて、ホントにやってるの?」
 徴集者たちを乗せた送迎バスから降ろされたのは、目的地から五百メートルも離れた山の中だった。離合場所もないので、バスはユイ一人だけを降ろしてすぐに走り去った。
 事前に地図でレクチャーを受けていなければ、脇道であることすら気付かないような、草むした小径に入り込む。木々の天蓋から漏れこぼれた光の斑紋を道しるべにして、ユイは歩き続けた。スニーカーの下で、折れた枝木が乾いた音を立てる。
 やがて雑木林は途切れ、松が等間隔に植えられた造成林に変わった。四月の松林は鳴く虫もおらず、ひっそりと静まりかえっている。松は防風林としての役目を律儀に果たしているらしく、ユイの平衡感覚に挑むように、一方向に傾いて立っていた。風の気まぐれなのか、クモの糸からぶら下がった一対の松葉がクルクルと回転する様も相まって、異世界に迷い込んだ気分にさせられる。
 海が近づいたことを、未知の動物の寝息のような不規則な潮騒が伝える。足元の地面が砂をはらむようになり、なだらかな丘を越えると、視界が一気に開けた。茫洋と広がる砂浜の向こうに、波静かな海が横たわっていた。水平線の彼方に小さな島影が一つだけ浮かんでいるが、場所も知らされずにバスから降ろされたユイには、島の名前すらわからなかった。
「さて、始めるか……」
 リュックから徴集業務用のスマホを取り出し、「業務開始」を送信した。海岸線に沿って歩き始める。波静かな砂浜の風景はのどかすぎて、ユイに今のこの国の現実を忘れさせた。気を改めて業務に集中する。足元を見つめ、漂着物を一つずつチェックしてゆく。流れ着いた「異物」を確認し、異常を発見したら業務スマホで撮影し、本部に送信するように言われていた。「国防」なんて言葉と、自分が関わることになるなど、想像したこともなかった。
 とはいえ、内海のこのあたりの漂着物は木片や貝殻ばかりで、たまに人工物があっても、漁船や港から流れ着いただろう漁具のウキや発泡スチロールくらいのものだった。
 業務に集中できず、ユイは顔を上げた。風が海面をドット絵のように細かく切り分け、光を乱反射させる。ユイはまぶしさに目を細めながら、海岸近くを見渡した。
「あれって……」
 波間に漂う漂着物の姿に、思わず声を上げていた。波は焦らすように漂着物を行きつ戻りつさせる。待ちきれずに、スニーカーを脱いで海に入った。まくり上げたジーンズを濡らしながら、ユイはフジツボが付着したその木片を手にした。
「……やっぱり、あの浜にしか流れ着かないんだ」
 記されていたのは、「遠藤鮮魚店」の文字。トロ箱の破片だろう。落胆を込めて、木片を水平線に向けて放った。
 文字の記された漂着物は、ユイの心を望月さんに出逢った六年前の浜辺へと引き戻した。
 同じ浜辺でも、こことは違い、海際まで迫る二つの山襞の狭間で守られた、弧を描いた小さな入り江だった。波に角を落とされた小さな丸石が重なり合う石浜には、波が押し寄せるたびに、少しだけ間を置いて、異国の打楽器を打ち鳴らすような音が響き渡っていた。その男性は、波打ち際の海と陸の境界線を辿るように、ゆっくりと歩いていた。ただ、足元だけを見つめて……。
「落とし物ですか?」
 背後から声をかけると、彼は初めて顔を上げ、ユイと向き合った。髪の毛の半ばが白髪になっている、六十代くらいの男性だ。洗いざらしのグレーのコットンシャツに、ブラウンのチノパン。足元は濃紺のデッキシューズ。近所を散歩するような装いだが、使い込んだ服や靴はどれも、名の通ったブランドのものだった。
「良かったら、一緒に捜しましょうか?」
 男性は心の起伏を見せようとせず、無表情にユイを見つめた。
「落とし物か……。どうしてそう思うんだい?」
 暗い海の底で錆付いたような声だった。
「だって、さっきから海の方を一度も見ずに、下を向いて何か捜しているみたいだったから」
 わざわざ海を訪れて、海に眼を向けない人なんていない。彼を惹き付ける何かが浜にあるのだろう。男性は再び視線を落とした。
「確かに落とし物を捜しているよ。ただし、落としたのは私ではないがね」
 ユイに向けた言葉のはずだが、まるで自分に言い聞かせるようで、返答に困ってしまう。視界に入っていても、心の視野にはまだ、ユイは映っていないのかもしれない。
「一緒に歩いてもいいですか?」
 返事もせずに、散歩にしてはゆっくりした足取りで、男性は歩きだす。貝殻、発泡スチロールの欠片、漁具のブイやウキ、そしてペットボトルにプラスチックと、波打ち際の風景はずいぶんとカラフルだ。だけどその色の乱舞は、用済みとなって捨てられ、誰の下へも行き着けない、不毛な鮮やかさだった。男性の歩みは、後ろを歩くユイを拒むようでも、受け入れるようでもない。何かが彼の、外に向けての感情を虚ろにしている。
「この浜だけなんだ……」
 独り言のようなその呟きは、波音にかき消されそうだった。
「海の向こうのどこかで使われている、誰も知らない文字の記された漂着物が、この浜だけに流れ着くんだよ」
「誰も知らない文字……」
「いや、誰も興味を持っていない、見捨てられた文字と言った方がいいかもしれないね」
 ユイは思わず、胸元に隠したペンダントヘッドを服の上から握りしめていた。
「だけど、こんな時代に、誰も知らない文字だなんて……」
 動揺を必死に抑え込んで、ユイは取り繕った声を発した。声の震えを、石浜の奇妙な波音がかき消してくれることを願いながら。
「ほとんどの人は、そう思うだろうね」
 男性は足元を見つめたままで、ユイの否定を気にするそぶりもない。
「人工衛星が飛ぶ現代に、誰にも知られず使われ続けている文字だなんて、あるはずがない。だが、この海岸に流れ着く漂流物に記されている文字は実際、世界のどんな文字とも違うんだよ」
 淡々とした語り口は、不思議なことを不思議と感じさせない。男性は初めて海に顔を向けた。その瞳は、海の向こうの、辿り着けないずっと遠くに向けられているようだった。
「君は、このあたりに住んでいるのかい?」
 男性の口調に、少しだけ親しみが込められた気がした。
「一人旅の途中なんです。勤めていた会社を辞めたばっかりで、しばらくのんびりしようと思って」
「それは、何だか贅沢な時間の使い方だね」
「貧乏旅ですから。バイトをして、お金が貯まったら次の街に行くって感じで。今はスマホがあれば、その日の仕事が見つかるし」
 ユイは問わず語りに自分のことを話した。新卒で入社したものの上司と反りが合わず、退職代行サービスで逃げ出したブラック企業のこと。何となく始めた貧乏一人旅の、旅先でのエピソード……。根無し草のような旅の日々で、ユイもまた、この浜辺にたまたま流れ着いたようなものだった。
 不意に男性が足を止めたので、思わずその背中にぶつかりそうになる。彼はしゃがみ込んで、黒い海藻に埋もれた漂着物の一つを掘り起こした。
「遠くから旅をしてきたんだな……」
 男性は手のひらに包んだ木彫りの人形に向けて、優しく語りかける。どんな子どもが、その人形の持ち主だったのだろう? 笑顔が半ば消えかけた人形の、海を越える旅を思う。迎え入れたこの浜からすれば、それは確かに「旅」だが、どこへ辿り着くかわからない人形からすれば、「漂流」に過ぎない。一歩間違えば、暗く深い海の底に引きずり込まれたかもしれない旅路は、どんなに心細く、孤独なものだっただろう。その遠さは、距離の遠さだけではない。想いの遠さだった。人形を失い、届かない場所に必死に手を伸ばす子どもの姿が、心にありありと浮かんだ。
 男性の手が、丁寧に汚れを払う。ユイは思わず、その手元をのぞき込んでいた。
「これって……」
 人形のおなかの部分の消えかけた模様は、折れ曲がった釘を組み合わせたような、独特の形だった。
「どうしたんだい?」
「えっ?」
 のぞき込まれて初めて、自分が涙を流していたことに気付いた。ユイは涙を拭うことも忘れて、泣き笑いを浮かべた。それは、人形と自らの境遇とを重ね合わせた悲しみの涙であり、同時に、喜びの涙でもあった。
 ユイは服の中からペンダントヘッドを取り出し、人形の横に並べた。そこに刻まれた「文字」は、人形のおなかの模様と同じ形状をしていた。男性は束の間、驚いた表情をした後、人形へ落としたのと同じ、優しいまなざしをユイに向けた。
「君も、同じ文字を探していたんだね……」
 そんな望月さんとの出逢いから、六年の時が経った。あの時とは違う形で、ユイは今も海辺を歩き続けている。
「あんた、ここでなんばしよるとね?」
 回想は、目の前に立ち塞がる人物に断ち切られた。腰の曲がったおばあさんだ。
「海に出ちゃ危なかよ。ゆーえぬしーからいつミサイルが飛んでくるかわからんとやけんね」
 ことばの不穏さとは裏腹に、おばあさんはのんびりと水平線の向こうを見やった。この国を侵略する敵国〈UNC〉も、訛りの強いおばあさんの言葉だと、何だか違うものに聞こえる。
「このあたりにも、ミサイルが飛来したんですか?」
「この浜には飛んで来とらんばってん、他の地区じゃ、えらい被害があったように聞いとるよ」
 近隣地区にミサイルが落下した際には、安全確認のため三日間、海辺への立入が禁じられる。今はその期間からは外れていたが、最近は国民すべてが「自粛警察」になって、お互いの自由な行動を制限し合っている。ミサイルが自分の上に落ちてくるだなんて、誰も思ってなどいないのに……。
「あんた、このあたりじゃ見らん顔やねぇ。どこから来たとね?」
 電車の駅も、バスの停留所も遠い、幹線道路からも離れた海岸だ。おばあさんの詮索は当然だろう。できるだけ住民とは接触するなと言われていたが、話しかけられたら、徴集業務だとは知られずに会話すべしとレクチャーされ、シミュレーションもしていた。
「旅の途中なんです。とってもきれいな砂浜だってネットの噂で聞いたんで、ちょっと寄り道して歩いてきました」
 マニュアル通りに、ユイは答えた。架空の住所、架空の仕事、架空の家族構成、架空の旅行の理由――。誰に何を聞かれても即答できるように、偽りの人生は諳んじることができる。
「そげんね。戦……平和な時代じゃないとやけん、フラフラ遊び歩いとっちゃいかんよ」
「戦争」と言いかけたおばあさんは、慌てたように言い繕った。そう、今まさにこの国は「戦争中」なのだ。だけどそれを、誰も言ってはいけないことになっている。
「はい……。気をつけます」
 頭を下げるユイに頷いて、おばあさんは砂のこびりついたユイの素足を見つめた。
「まあだ水も冷たかとに海に入ったりしよるけん、ミサイルが怖くて、自殺でんしようとしたかと思うたばい」
「まさかぁ。ミサイル恐怖症だなんて、そんな恐がりじゃないですよぉ」
「そんならよかばってん……。そしたら、気をつけて帰らんね」
 そう言って、おばあさんは背を向けてゆっくりと歩み去った。その姿が消えるのを待って、ユイは業務を再開した。スニーカーを手にしたまま、波打ち際を歩き続ける。
 波音が、ユイの空白の過去を揺さぶる。記憶の始まりは、波音だった。幼いユイは、浜辺に倒れている所を発見された。頭に残る傷と、共に流れ着いた船の残骸らしき木片から、ユイに訪れただろう悲劇は容易に推測できた。だが、その日、国内で難破した船は確認されておらず、捜索願も出されていなければ、両親だと名乗り出る者もいなかった。頭の傷が記憶一切を奪い、過去への扉を開く唯一の鍵は、首から下げていた、誰も読むことができない謎の文字が刻まれたペンダントヘッドだけだった。
 二キロほど続いた海岸線は、小さな港の防波堤で終わりだった。リュックから業務用のスマホを取り出し、「異常なし」を送信する。戦時中、いや「非平和状態」の今、ユイが感じ取れる「異常」とは、侵略者の上陸かもしれないし、漂流した不発弾の発見かもしれない。たとえそんな異常が見つかったとしても、武器一つ持たないユイに、いったい何ができるだろう。
 そんな疑問を封じ込めるように、歩いた浜辺を振り返った。砂の上のユイの足跡は、満ちてきた波がすべて消し去っていた。


奥崎・エピソード1 顕戦工作

 境界線。
 奥崎は境界線を歩いていた。日常と非日常の境界線。平時と有事の境界線。そして、平和と戦争との境界線。
 歩く目の前にあるのは、首都近郊の駅前繁華街の風景だ。チェーン店と個人経営の店が入り交じり、雑多で猥雑で、少し窮屈なことが逆に居心地の良さになる駅前商店街が広がっている。奥崎が大学生の頃に一人暮らしをしていたのも、こんな場所だった。日々が平穏であることを当然として、それを平和と結びつけようともせずに安閑と暮らす人々が行き交う街だ。
 民家の庭先からこぼれ咲く桜に足を止めて愛でる人々を、奥崎は知らず知らずのうちに睨み付けていた。学生の頃、震度七の激震に見舞われた街にボランティアとして入ったことがある。壊滅した家々の瓦礫の隙間を力ない足取りで歩く被災者たちは、希望も未来も寄せ付けようとしなかった。目の前の人々もそれと同じ、虚ろな表情であるべきなのだ。もちろん、歩く街並みに目に見える被災はない。それでも、今はこの国土すべてが、いつ灰燼と化すかもしれない戦場なのだから。
 支給された「私服」は、グレーのパーカーにカーキ色のチノパンと、動きやすく、かつ市民の日常に溶け込む目立たないものだった。奥崎はこの地に長く住む住人を装って歩いた。周囲から見れば奥崎は、少し行儀悪く歩きスマホをしている若い男に過ぎない。スマホを模した通信端末には、作戦に従事する奥崎を含めた十人の位置情報や、本部からの指示がリアルタイムで表示されている。
 奥崎たち工作班の行動は、地域の治安維持部署にも事前通達されていない極秘のものだ。不審な動きを見咎められて職務質問でも受けたなら、通信端末は非常時用の「デススイッチ」を押せば文鎮化できるが、背負ったリュックの中には、見られたら一発でアウトな剣呑なシロモノが眠っている。
 繁華街から住宅街へと景色が移り変わる頃、奥崎は端末をポケットにしまった。目的地までおよそ二百メートル。今日の工作ポイントは、二年前に閉鎖された国家施設跡地。事前のVR空間でのシミュレーション通り、表通りから死角となる南東の敷地境界の金網が侵入経路だ。
 三分前に到着していた侵入路確保担当のSとKがすでにフェンスを破り、ハンドサインでクリアを伝えてくる。二人は使用した大型工具を分解してリュックに収納し、撤収に入っている。
 同時に、それぞれ別方向からこの場所に向かっていた工作担当のN、Y、A、Mが姿を現した。侵入路から一人ずつ敷地内に入り込む。閉鎖された施設なので、警備員も監視カメラも存在しないのは事前に確認済みだ。
 工作ポイントの配電施設跡に到着した。それぞれリュックから「部品」を取り出し、無言のままシミュレーション通りに組み立ててゆく。新任のNが初参加しているのもあって若干手間取ったが、それも誤差範囲内だ。通電を確認し、絶縁装置を干渉させて時限起動スイッチを取り付けたのち、絶縁装置を取り外す。ここまでで、想定工作時間三分三十秒プラス七秒。奥崎は工作班のリーダーとして、ハンドサインで撤収を告げる。振り返って背後の雑居ビルの屋上を見上げた。撮影班のF、Rも撮影完了を伝えてくる。
 奥崎は起動スイッチを押し、残留物がないかを確認しながら最後に退避する。離れて周辺哨戒を行っていたTに工作完了を送信し、来た時とは別のルートを辿って駅に戻った。起動時間は二十分後に設定しているので、奥崎たち工作班が爆発に立ち会うことはない。その時間にはもう散り散りになって、市民の中に溶け込んでいる。
 駅のトイレで、ロッカーに入れていた自分の私服に着替え、本部からの指示通りに、私鉄とバス、地下鉄三本を乗り継ぎ、遠回りをして本部へと戻った。
 窓の外で移り変わる風景を見るともなく流し去りながら、奥崎は思い出していた。五年前の、国家保安局入庁時のことを。
「この国は三年後、戦時体制へと移行することが想定されている」
 能面のような表情で切り出された、当時の局長による訓示。「戦時体制」という降って湧いた言葉に、奥崎は狐につままれたような気分になったものだ。
 それでなくとも、庁舎大ホールでの入庁式から隔離されるように地下会議室に集められて開催された式に、戸惑いを覚えていた所での局長の言葉だ。思えばその当時から、UNCは密かに、この国に見えない侵略の手を伸ばしていたということなのだろう。
 来たるべき戦時体制について、奥崎たち特別対策班第一期生は、極秘カリキュラムによってたたき込まれた。まがりなりにも「平和」であった入庁時、それを自らの血と肉にするのには、長い月日が必要だった。
 二年前、局長の言葉通り、戦争が始まった。海を越えてミサイルが飛来するようになり、今まで事故と思われていた国内施設の爆発や炎上が、敵国潜入兵士によるテロ行為であったことが表面化した。
 攻撃を仕掛けてくる敵国については、その国名、位置、戦力や侵略理由など、一切が謎のままだ。そのため敵国は仮称として「Unidentified Neighbor Country(未確認隣接国家)」と呼ばれ、今では略称のUNCが呼称として定着している。
 正式な宣戦布告無きまま、この国は戦時体制への移行を宣言した。ほんの十日間で、その宣言は国家的配慮から白紙化されたが、今もまだ戦時体制は継続中だ。それ以後、この国は「非平和状態」というあいまいな表現によって、国境を封鎖し続けている。そして特別対策班は、そんな見えない戦争の最前線に立っているのだ。
 通信端末に、工作地点周辺での「中規模パンデミック発生情報」が表示され、それに伴う移動制限と、インターネットの地域遮断情報がポップアップした。それはつまり、奥崎たちの工作が予定通りに「発覚」し、適切に処理されたということだ。
 ターミナル駅が近づき、電車は地下へと潜っていった。窓景は消え去り、奥崎の目の前のガラスには、平和と非平和の境界線の上を生きる乗客たちの姿が映り込んだ。奥崎をねぎらおうとも、感謝しようともしない、守るべき無垢なる市民たちは、スマホにポップアップしたパンデミック情報を指先で弾き飛ばし、戦争の恐怖など寄せ付けようとしなかった。

   ◇

 対策本部は、都心の官庁街にある保安局本部から三十キロも離れた郊外にある、かつて変電所だった建物だ。役目を終えた施設を特別対策班が居抜きで使用している。地図上でもこの建物は変電所のままであり、地域住民もそう認識している。
 それぞれ迂回して帰路についた工作担当者全員の帰着を確認して、奥崎は作戦室Bに長島を呼び出した。工作班にNとして参加していた長島は、研修期間を経て、今日が初めての工作任務だった。
「長島、初の工作従事、お疲れ様。これから、帰還後の作業についてレクチャーしておこう」
「はい! よろしくお願いします!」
 長島の気負いと初々しさを、奥崎は好ましく感じた。
「工作活動は現地工作で終わりじゃない。事後の作業を完璧に終えて初めて、工作活動が100%の効果を発揮するんだ」
 説明しながら端末に動画編集ソフトを起動し、撮影班の撮影データを取り込んだ。
「まずは撮影データの加工だ。撮影班は、敢えて固定アングルで、望遠機能も使わずに撮影している。名目上は、隣接する雑居ビルの防犯カメラの映像ということになっているからな。犯行現場も、たまたま映っていたって設定で、画面のすみっこになるように画角を調整しているんだ」
「は、はぁ……」
 長島は返事をしながらも、要領を得ない様子だった。
「これを、編集ソフトを使って加工する。画質を敢えて粗くして、監視カメラ風に映像を汚していくんだ。これには、俺たち工作班の顔バレを防ぐって意味合いもある」
 映像の中には、つい二時間ほど前の奥崎たち工作班の「犯行」の一部始終が記録されていた。
「そしてもう一つが、犯行声明文の作成だ。工作の規模や、外交トピック、周辺他国との緊張度の変化によって、犯行声明の色合いも変わってくる。作成後に、怒りレベル、恫喝レベル、挑発レベルを調整して完了だ」
 声明文のひな形は、罵倒型、冷笑型、皮肉型、泣き落とし型など、さまざまな口調がバラエティ豊かに取り揃えてある。
「犯行声明をどの政府機関に送りつけるかは、情報統制局が調整することになっている。文章データを作って情報統制局にメディアで手渡しするまでが、俺たちの役目だ。もっとも、この国は戦争状態ではないって他国への建前上、犯行声明が表に出ることはないがな。さあ、それじゃあ俺が横で見ているから、とりあえずやってみろ」
 データのやりとりは、今ではクラウドが主流だが、間違っても外部に流出させられない最重要機密データだ。メディアで手渡しし、受け渡し後は即座に粉砕処理される決まりになっている。
「どうした長島。作業を開始しろ。こんなのは慣れが肝心だぞ」
 促したものの、長島は椅子に座ろうともせずに立ち尽くしている。
「これじゃあ……。これじゃあまるで僕たちが、テロ組織みたいじゃないですか!」
 長島の心からの叫びに、思わず苦笑した。二年前に、この工作に初めて参加した奥崎が言った台詞そのままだったからだ。
「なあ長島。お前、UNCの侵略部隊の姿って見たことあるか?」
「……いえ、ありません」
「そうだろう。俺だってそうさ。戦争なんてホントにやってるのかってくらい、奴らが姿を見せることはない」
 奥崎は長島に見せつけるように、大げさに肩をすくめた。
「UNCの侵略行為への疑惑が芽生えたのは、政府が国境を封鎖する二年も前だ。それから時を経て、奴らの侵略行為はますます巧妙化している。俺たちの工作と違って、奴らは犯行声明を出さない場合もある。だから攻撃を受けてもそれと気付かず、事故や災害として処理してしまうことも少なくない。数ヶ月に及ぶ調査を経てやっと侵略行為だと判明することも多いし、いまだ単なる事故として警察の処理で完結しているものもあるはずだ」
 日々、多発する事故や災害を隠れ蓑に、この国への侵略を繰り返すUNCを思うと、心の中にどす黒い憎悪が湧き上がった。
「だからこそ、UNCがやったと国民にわかる形でのテロの痕跡を作り出さなきゃならない。それが、俺たちがやっている、侵略を顕在化させる工作……つまり、顕戦工作だ」
「だけど、それをわざわざ僕たちが捏造してまで、国民に知らしめる必要がどこにあるんですか?」
 長島は、心の葛藤をそのまま奥崎にぶつけてきた。
「そうしなければ、国民の中に、国家存亡の秋であるという危機意識は芽生えない。そうして、いつのまにかこの国はUNCに破壊され、蹂躙し尽くされ、取り返しのつかないことになってしまうぞ」
 国民に、この国が戦時下にあることを知らしめ、危機感を植え付け続けること。それこそが特別対策班の使命だった。
「なあ長島。俺がこの部署に配属された頃は、まだUNCっていう存在自体が世間には公表されてもいなかったんだぞ」
「そうか、先輩はその頃からずっと……」
「初めて顕戦工作に従事した時の絶望感や徒労感は、今のお前の比じゃあなかったぞ。戦時中だっておおっぴらに宣言できない状況ではあるが、今はUNCの侵攻も無差別攻撃も、国民の誰もが理解している。たとえ最前線に立つのが俺たちだって認識されていなくとも、国民は皆、誰かが自分の代わりに立ち向かってくれていることを理解しているんだ」
 長島はようやく、瞳の輝きを取り戻した。
「俺たちは、国家保安局の中の、存在しない組織だ。見えないUNCの奴らと戦うためには、俺たちも見えない存在になりきるしかない。相手の姿が見えないからって、自分の使命まで見失うな」
「はいっ!」
 作業を見守りながらも、奥崎は暗澹たる思いに包まれていた。長島に語ったことは、絵に描いた餅でしかなかった。戦争開始から二年の月日が経ち、特別対策班の「顕戦化」の努力も空しく、見えない戦争に国民の恐怖心は薄れ、厭戦気分が蔓延していた。


ユイ・エピソード2 三種徴集業務

「アタシも今まで、いろんな仕事をしてきたけどさぁ……」
 ルミさんは、目を保護する未来人みたいなゴーグルをかけて、すねの脱毛に余念がない。
「こぉんなわけわかんない仕事って、初めてじゃない?」
「まあ、そうですよね」
 ルミさんが言うのも無理はない。毎日それぞれに担当と決められた浜辺でバスを降ろされ、ひたすら歩くだけなのだ。一応、「漂着危険物を目視確認する」という任務が課せられてはいたが、この業務が想定している「危険物」など、そうそう見つかるものでもなかった。張り切って危険物とこじつけてたくさん送信したところで賞賛されることもなく、何も発見しなかったからといって叱責されるわけでもない。
「まあ、楽でいいんだけどさ。目的ってやつがはっきりしないと、ルールを知らないスポーツでもやらされてる気分でさぁ、スッキリしないんだよねえ」
 ルミさんは脱毛器を棚にしまうと、ベッドに大の字で寝転んだ。
 閉鎖されたリゾートホテルを一棟丸ごと借り上げた徴集者専用の宿舎だ。ファミリー向けの部屋はベッドばかりが三つも並んで殺風景でだだっ広く、一人でいるとなんだか心に隙間風が吹くようだった。それでユイは、業務終了後は仲良くなったルミさんの部屋に入り浸るようになっていた。
「まあ、こんなんでお金もらっていいのかって、ちょっと申し訳なくなっちゃいますけどね」
 ユイはそう言って、小さく舌を出した。
「徴集業務従事者慰労金ねぇ……。もらってるって言っても、三種徴集者は、最低賃金の全国平均値だしねぇ。もっとも、一種とか二種の徴集を受けるよりは、よっぽどラッキーだけど」
 音が無いと寂しいからという理由だけで付けっぱなしにしていたテレビに映された数字に、二人とも自然に目をやっていた。

 ――本日の新型ウイルス罹患情報(確定値)
     死者数 39名
     重症者数 63名
     軽傷者数 232名 ――

「ルミさん。知り合いに、一種とか二種の徴集を受けた人がいるんですか?」
「まわりにはいないけどさあ、ネットの噂じゃ友達に赤紙が来て、行ったきり帰ってこないとか、二種の工場で大怪我したとか、イロイロと聞こえてくるじゃない?」
 一種徴集は、一世紀近く昔の戦争で言う「赤紙」で、二種は兵器を作る工場での危険な作業に従事するという噂だ。
「ホントだったら、ユイちゃんと外で飲んだりしてみたいとこだけど、徴集業務だから、そこだけはお堅いのよねぇ」
 全国から集められた三種徴集者の研修では、業務内容よりもむしろ、業務時間外の禁止行動についての説明の方が長かったくらいだ。本名を名乗らないこと。徴集者同士で業務時間外に連れだって外出しないこと。出身地の方言を使わず標準語で話すこと、などなど……。
「一緒に夜遊びなんかしたら、それぞれ一人旅中って設定が崩れちゃうからでしょうね」
 ルミさんは脱毛を終えたすねを触りながら、不満そうに首を振る。
「その設定ってやつもよくわかんないよね。そんな大層な業務でもないってのに、どうして偽名を使って、まるっきり違う人物を演じなきゃいけないんだか」
「それはやっぱり、機密保持のためじゃないんですか?」
 ルミさんは大げさに笑って、ベッドの上ででんぐり返しした。
「こぉんな浜辺を歩くだけの業務に、どんな機密があるっていうのよ」
「そうですよねぇ……」
 ユイは苦笑いで返すしかなかった。
「まあ、二ヶ月続いたこの業務も、この五月いっぱいで終わるから地元に戻れるんだけどさ。戻ったところで、この戦……非平和状態じゃ、いつミサイルやテロで移動制限がかかるかわからないし、地元の観光地も自粛警察とか不謹慎モンスターばっかりで、遊びにも行けないしさぁ。息が詰まるよ」
 ユイはあいまいに頷いた。ルミさんは知らない。ユイが非平和状態になってから二年にわたって、さまざまな徴集業務に従事し続けていることを。
 二人のスマホが、同時にメッセージの受信を告げた。居住まいを正してスマホと向き合ったルミさんは、すぐになぁんだって顔になって、そのままスマホでネットサーフィンの態勢だ。だけどすぐに、スマホをベッドの上に放り投げた。
「まぁったく、カホゴのせいで、ネットもつまんなくなっちゃったしさぁ」
 ルミさんは大きく伸びをしてTシャツからおへそをのぞかせた。
「ところで、カホゴカホゴって言ってるけど、何の略だっけ?」
「ええっと、たしか……、『ネット空間を快適に保つための環境保全五原則』だったと思います」
「それそれ。なぁにが『快適に保つ』よ! ぜんっぜん、快適じゃないじゃない!」
 ルミさんは枕を振り回して、親の敵とばかりにスマホに向けて振り下ろした。カホゴは、非平和状態になってすぐ、「国民生活の安全を維持するため」という名目で始まった制度の一つだ。
「法律で決まったってんなら、まだ納得できるけどさぁ、またあれでしょ? 『遵守を強く推奨する』なんてお偉いサンの言葉一つで決まって、スマホとかネットの会社が、ははーっ! ってひれ伏して従ってるってだけでしょ? 結局、非常時にかこつけて、ネット規制がしたかっただけじゃないの!」
 枕の連打にも、耐久性が売りのルミさんの最新スマホは知らん顔だ。
「昔の戦争の時にも、検閲って制度で、本当の情報を隠したりしてたって話ですけど……。それとはだいぶ違いますね」
 カホゴ下での検閲官はAIだ。政府や社会への不満をネットに書き込もうとしたら、AIがそれを瞬時に判断して、「本当にいいですか? 後悔しませんか?」と何度も形を変えて念押ししてくる。その発言が世に広まった場合の炎上可能性やリスクまで、予測して提示してくるのだ。はじめは意地を張って「表現の自由」を行使していた人々も、その煩わしさに、本音を書き込むことを諦めてしまっていた。
「一種徴集を受けたなんて書き込みをしてる人って、過保護な親を押しのけて、どうやって書き込んでるんだろう?」
 子どものやることにあれこれ口出しする過干渉な親のように、おせっかいで押しつけがましいネット環境保全五原則は、「カホゴ=過保護」と略称されるようになっていた。
「……ところで、そろそろ鳴るかな?」
 ルミさんがそう呟いた矢先、二人のスマホのアラート通知が同時に鳴り響き、テレビの音量が自動的に上がって臨時放送に切り替わった。
「カンボーチョーカン様の臨時放送だよ」
 うんざりしたように言って、ルミさんは首を振った。ウマヅラハギという魚にそっくりな官房長官は、深く刻まれたほうれい線のせいで、口を開くと腹話術の人形がしゃべっているようだ。
「本日午後八時十六分に、UNCからの未確認飛翔物体が、本土西方域に飛来し、落下した」
 用意された文章を読み上げるだけで、事態の緊迫性は伝わってこない。水族館の分厚いガラスの向こうから話しかけられているみたいで、国民に寄り添う感情を表情筋に乗せる気は一ミリもないようだ。その姿はアバターで、本当の官房長官とは似ても似つかないという噂もあるけれど、本当だろうか。
「まったく、UNCの奴も、好き勝手にやってくれるもんだねぇ」
 ルミさんはテレビ画面には見向きもせず、気のない声だ。UNCは何か小難しい言葉の略称で、敵国がどこにあるかもわからないからこその仮の呼称だった。だけど、「未確認飛行物体」のUFOが「空飛ぶ円盤」の代名詞になったように、UNCもすっかり、敵国の名前として定着してしまっている。
「着弾地点および我が国の被害については?」
 記者からの質問も、判で押したように毎回同じだった。
「着弾地点および被害状況については、国民感情保護の観点から、開示を憂慮すべき情報であると考えている」
「あらまあ、とってもお優しいことで」
 ルミさんが画面に向かって嫌みを言った。ミサイルやテロの被害者数は決して公表されない。その代わり、「ウイルスの罹患者」という名目で被害者数が発表される。この国はあくまで、未知のウイルスの蔓延によって国境を封鎖しているってタテマエだ。戦争をしていることが他の国に知られたらマズいということらしい。
「ミサイルなんて落ちもしないし、戦争って本当にやってるの?」
 ルミさんが呟いた。戦争が始まった当初は、ミサイル着弾の通知が来るたびに飛び上がってテレビやスマホで確認していたが、二年も経つと警戒心もすっかり薄れてしまっている。
 ルミさんは一度放り投げたスマホを再び手にした。
「それにしても、ミシラヌの人たちも、おせっかいなことだね」
「ルミさんも、ミシラヌのアカウント、フォローしているんですね」
「だって、外しても外しても、ゾンビみたいに復活してくるんだもん。面倒くさくって放置してるだけ。ユイちゃんもそうでしょ?」
 Y0639515Sという、登録時に割り当てられた初期番号のままのSNSアカウントがミサイル情報を発信しだしたのは、非平和状態が始まってすぐだった。その情報はいつも政府の発表よりも早く、より絞り込んだ落下予測地点も含まれていた。
 プロフィール欄も空白のままで、ドロップされるのは、どことも知れない風景の写真と、UNCのミサイル発射情報だけだ。非平和状態が始まった頃は、いつ、どこに落ちるかわからないミサイルへの恐怖もあって、人々はそのアカウントを、UNCに近接する国家が善意で運営しているものだと信じ、こぞってフォローしたものだ。この国に救いの手を差し伸べてくれる「見知らぬ国」から、いつしか「ミシラヌ」と呼ばれるようになっていた。
 だけど戦争開始から二年が経った今、ちっとも終わらないし、勝ってるのか負けてるのかもわからない戦争に、みんな飽き飽きしていた。戦争は、どこか遠くで起きているように、誰もが他人事だ。ミシラヌをユートピアだなんて信じているのも、臆病な一部の「信者」たちだけになっていた。ミシラヌ・アカウントがゾンビ化しているのも、信者たちが強制的にそのアカウントをフォローさせるウイルスを作って広めているからって噂だ。
「まあ、ミシラヌからのミサイル情報の方が五分以上早いから、ミサイル警報のアラートにびっくりしなくっていいんだけどね」
 ルミさんの言葉は、ゾンビ化したミシラヌ・アカウントをフォローさせられている人々の心を代弁したものだった。
「しかたない。暇つぶしに、ミシラヌのコミュニティでものぞいてみるか」
 ルミさんはスマホを熱心に操作しだす。なぜかミシラヌに関してだけは、「カホゴ」のおせっかいを受けることもなく書き込むことができるらしい。ミシラヌのコミュニティ内では、信者たちによって、どうやったらミシラヌに渡れるかという熱心な議論が繰り返されていた。それを生ぬるい視線で見守り、おちょくるのが、フラストレーションが溜まった人々の憂さ晴らしになっていた。
「どうやったら行けるんでしょうねぇ、ミシラヌって」
「何だか、ミシラヌに渡るための特別なパスポートがあるんだってさ。馬っ鹿馬鹿しい!」
 薄ら笑いを浮かべて、ルミさんは信者たちをからかう書き込みに夢中になっている。
「もっとも、アタシも一種徴集の赤紙なんて来たら、ミシラヌへの亡命を真剣に考えちゃうかもぉ!」
 それは、ミシラヌ信者を装う定番過ぎる会話の一つだった。
「ところで、ユイちゃんのサイト、けっこう話題になってるみたいじゃない?」
 ミシラヌ信者ごっこにも飽きたのか、ルミさんはユイの個人ホームページを閲覧しだしたようだ。
「ええ、ルミさんも、お友達にどんどん紹介してくださいね」
「それじゃあ、しっかり紹介料をいただかなくっちゃねぇ」
 サイト内の動画を開いたのか、ソラの歌が流れ出す。
「誰も知らない文字と、どこでもない国の言葉で歌われる歌かぁ……」
 そう呟いたルミさんは、少し意地悪な顔を、ユイに向けてきた。
「ねえ、もしかして、ユイちゃんの探している文字って、UNCかミシラヌのものなんじゃないの?」
「もう! そんな意地悪、言わないでくださいよぉ!」
 ユイは大げさにむくれて頬を膨らませた。自分の人生をかけて追い求めている存在を、この国に攻撃を仕掛ける敵国や、手垢のついた妄想の国なんかと一緒にされてはたまらない。
 ユイはルミさんに「おやすみなさい」と告げて、自室に戻った。そろそろ、ソラと約束したビデオ通話の時間だった。今週いっぱいで、この徴集業務も終わる。そうしたらまた、望月さんにも会いに行こう。今は一人でも多くの人にサイトにアクセスしてもらって、文字と歌のヒントを得ることだ。記憶から消えた空白の過去を取り戻すために……。戦争なんて、ユイにとっては遠い世界の出来事だった。


奥崎・エピソード2 H公園

「犯行声明」のデータ受け渡し場所は、毎回異なっていた。今回、情報統制局側から指定されたポイントは、首都中央駅から二駅離れた地下鉄駅の構内だった。

 ――本日の新型ウイルス罹患情報(速報値)
     死者数 25名
     重症者数 71名
     軽傷者数 194名 ――

 靴紐を緩めながら、車内の電光掲示板の表示を確かめる。
 UNCに侵略を受ける戦争状態であることを公的に宣言すれば、輸出入が滞るのはもとより、外交的な不自由・不利益が生じ、戦争状態にかこつけて我が国の領土を掠め取ろうとする周辺国家との軍事的緊張が高まることは目に見えていた。
 そのため国際的には、この国は未知のウイルスの蔓延によって国境を封鎖すると宣言し、国内外の人や情報の行き来をシャットアウトしている。ミサイルの飛来だけは、「未確認飛翔物体の飛来」として飛来地を特定せずに公表されるが、実際のミサイル着弾被害地や無差別テロ発生地は、「ウイルスによるパンデミックの発生地」として封鎖される。日々公表されているウイルス罹患情報の数字はそのまま、UNCの侵略による死傷者数だった。
 戦時下(非平和状態)となってからの累積死者数は、二万人台に及ぶ。その死者が、不当に命を奪われた侵略被害者であると公表できる「終戦」の時を一日でも早めるために、奥崎たちの暗闘は続く。
 十六時四十三分着の電車を降りた奥崎は、ほどけた靴紐を直しがてら休憩するふりをして、ホームの端のベンチに座った。二分後、島式ホームに逆方向の電車が到着し、スーツ姿の男が一人、ベンチに鞄を置いた。会議の資料でも確認する様子を見せて、すぐに立ち上がる。立ち去る男の鞄には、奥崎が渡した封筒が入っていた。
 これで、受け渡しは完了だった。
 直帰しようとして、ふと思い立ち、改札を出てH公園に直結する14番出口の階段を上った。出口の先には管理事務所があり、事務所を閉じる時間なのか、掲揚台では管理員の紐の操作で国旗が下ろされてゆく所だった。
「落ち日の国の旗か……」
 かつてこの公園では、国旗の日の丸が旗の下端にひび割れた姿で描かれた「没落旗」が、大量に翻っていた。非平和状態が訪れるまで、この国はそんな没落のイメージと共に語られる国に成り下がっていたのだ。十五年前の、全世界に広がった疫病での経済停滞は世界中で同じだったが、その停滞から抜けきらないうちに訪れた二度の大震災が致命的だった。復興費用の経済圧迫によってスタートダッシュが遅れ、疲弊した国民もまた、国家を未来へと進める推進力とはなり得なかった。経済構造改革の遅延や社会保障費の増大など複合的な要因によって他国の発展から置いてきぼりになり、かつて背中を見せていた国に追いつかれ、今度はその背中が遠ざかってゆく焦燥と失望。萎縮し、疲弊し、自信を失った国民と、旧弊と既存の権力構造を変革できず、国民を鼓舞も後押しもできない機能不全となった政府。この国は、身体の各所に病巣を抱え、もはや手術にも耐えられない末期患者と同じだった。
 さまざまな問題で絡まり合った糸を誰もほぐすことができないまま、それでも進み続けるしかなかったのだ。いつかがんじがらめになって、この国が立ちゆかなくなるだろうことは誰もが気付いていた。だが、立て直すことなどできないまま、少し糸をほぐしては二、三歩前に進み、余計に絡まって踏みとどまる――そんなことを繰り返してきた結果、この国は他国から「落ち日の国」と呼ばれるまでになった。
 そんな現実を前に、自暴自棄となった国民の間には、両極端な反応が起きていた。過激指向とモラトリアムだ。
 過激指向の「没落旗族」が出現した発端は、ある一つの無差別殺傷事件だった。被害者の一人がたまたま政権を擁護する御用学者だったことから、犯人の男はダークヒーローとしてもてはやされた。男が警察に確保されたのが、官庁街にほど近いこのH公園だった。男は犯行時、白無地のTシャツを着ており、返り血を左裾に丸く付けた姿で悠然と歩く動画が拡散されると、それ以後、男が着ていたシャツの返り血をイメージし、国旗の日の丸が落下してひび割れた「没落旗」がデザインされた。
「没落旗」を掲げての殺傷事件が相次ぎ、それは、犯罪に手を染めることを躊躇させる家族も、社会的地位や信用も、そして倫理観もない「無敵の人」であるということを誇示する象徴的なアイテムとして広まった。没落旗を掲げた者はアンタッチャブルな存在となり、「没落貴族」をもじった「没落旗族」と呼ばれるようになった。
 一方で、モラトリアムな連中はその真逆だった。働き口がないわけではなかったが、どんなに働いても公的扶助以下の賃金しかもらえないのだ。賃金は上がらず、社会負担は増え、物価は際限なく上がり続ける――。そんな社会で働く気を無くした若者たちは、スマホで見つけた短期バイトで最低限の日銭を稼いでは、後は日がな一日、公園の芝生の上で寝転がるようになった。彼らは決して起き上がらない「不起族」と称された。それは、社会のどこにも帰属しないという「不帰属」とのダブルネーミングでもあった。もっとも彼ら自身は自分たちを、社会のしがらみを超越した高貴なる種族「富貴族」と呼んでいたが。
 このH公園では、手製の旗を掲げた没落旗族たちが噴水広場で、いつでも官庁街に突撃するぞと不気味な笑みを浮かべてたむろし、その横の芝生広場では、行き場を失った不起族たちが、何をするでもなく芝生に寝そべり続けていた。それはどちらも、政府への不信と将来への不安が極限に達した「未来ある」若者たちの、両極端な姿だった。いつしか二つの広場は、「合わせ鏡の広場」と呼ばれるようになっていた。
 H公園の現状が報道されると、その風潮は全国に広がっていった。各地の公園は軒並み、二つの「貴族」によって占拠されてしまった。どちらも組織化されて集まったわけではないので、集合したからといって大きな騒動に発展するわけではなかった。だが逆に組織化されていないことが、排除の動きを限定化させた。ただ旗を掲げるか芝生に寝転ぶだけの人々を、規制することもできなかったからだ。
 国民の多くもまた、積極的な賛同か消極的な黙認によって与した。彼らは国民の物言わぬ代弁者だった。モラトリアム的厭世観が浸透するにつれ、失業率や公的扶助受給比率は上昇し、国内総生産も景気指数も出生率も、予測を超えて下がっていった。この国がいずれ形だけの空洞国家となって瓦解することを、誰もが暗い薄笑いを浮かべて待ち望んでいるような、末期的状況だった。
 だが今、二派の「貴族」たちは、このH公園にも、全国の公園にもどこにもいない。戦時体制の到来によって消え去ってしまったのだ。過激行動を起こした者から一種徴集され、UNCからの攻撃の矢面に立たされるという噂が広がった。そして実際に没落旗族の中心人物たちが姿を消すと、噂は現実として固定化され、彼らは旗を手放し、公園にも寄りつかなくなった。
 それは不起族も同様だ。職業登録をしていない失業状態の者から一種徴集されるという噂の前に、寝そべっていた身体を慌てて起こして、アルバイトや派遣登録に奔走する根性の無さだった。
 実際の所は、彼らのほとんどは現在、三種徴集業務に従事させられているはずだ。戦争遂行の後方支援業務とされているが、その業務は戦争の遂行には何ら寄与していない。制御しづらい二派の「貴族」のムーブメントを終焉させ、同時にお仕着せの単純労働に従事させることで、懸案だった高止まりした失業率を抑制するという、一挙両得の施策だ。攻撃性とサボタージュで国家のあり方に異を唱えていた彼らが、「落ち日の国」の由縁の一つだった高い失業率の解消に大きく貢献しているのが、何とも皮肉だった。
「あれから五年……、いや、八年か」
 この公園は、学生時代の恋人と付き合うきっかけになった場所であり、最後に会った場所でもある。
 彼女との出逢いは、大学一年生の夏休み、政府主催のセミナーの場だった。その年から始まったプロジェクトで、省庁を横断して学生向けの体験型アクセラレーション・プログラムがさまざまに組まれていた。国家省庁への入庁も将来の選択肢に入れていた奥崎は、特に期待も気負いもなく、参加を申し込んでいた。
 セミナーは十日間続き、内容は多岐にわたった。予算消化や活動実績作りのためのイベントにありがちな、有識者講演やワークショップでお茶を濁す着ぶくれした内容ではなく、行動心理学に即した自己マネジメント実践の側面もあったし、問題思考のプロセス化のシミュレーションや、行動レベルの意識付けによるコンピテンシー思考体験など、充実した内容だった。参加した側の奥崎からしたら、身につけた学力や知識・経験とは別次元の、何らかの能力を測られているような気分になったものだ。
 将来の入庁に有利になると噂が立って、参加希望者が膨れ上がった開催四年目で、セミナーは突然に終了し、その翌年、奥崎たちの入庁した頃から秘密裏に、戦時体制に向けての組織変革が実行されていった。今にして思えば、セミナーで測られていたのは、奥崎の国家観であり、統治観であった。つまりは、非常時を担う人材を見極めるためのものだったのだろう。
 最終日のディスカッション・トークでは、主催者側から割り振られたテーマのもとに集い、十日間で実装された新たな「自分」を持ち寄って語り合った。萎縮せず自由に発言してもらうためか、トークルームに主催者側の人間はおらず、別室のモニターで観察するスタイルだ。テーマは、「国家の幸福と個人の幸福」と設定されていた。
 奥崎はしばらく聞き手に徹した。つまらない主張ばかりだったからだ。大学生になった万能感と、社会を知らない未熟さとが、学生たちに理想論を大言壮語させていた。夢や希望という言葉で、世間知らずや知識不足を都合良くディフォルメして恥じることのない、若さという翼の力を過信している輩ばかりだった。
「そんなキレイごと、あのH公園でたむろしてる奴らに、どれだけ実効性があると思ってるんだ?」
 奥崎は敢えて挑発するように言って、その頃から公園に出現しだした二派の「貴族」を引き合いに出した。希望のない社会とはすなわち、幸福の自己設定が難しい社会だと定義し、その上で、「国家の幸福」と「個人の幸福」とを両立させるためには、没落旗族たちのような、行動力を持ちつつも方向性を間違った層の意識改革が必要だと主張した。彼らを一種の矯正施設にたたき込んで明確な目的を持たせ、国家の推進力として利用すべきだと。
「幸福に向けての努力を放棄すると自ら宣言している奴らだよ。ねじ曲がった幸福観は国家が摘み取って、矯正してやることさ。長い目で見れば、彼らにとっても幸福なんじゃないかな?」
 他の参加者は暴論を聞いたように肩をすくめ、そこから議論が発展することはなかった。参加しているのは一流大学の学生ばかりで、奥崎のようなFラン大学から参加している者は皆無だった。彼らが奥崎に向ける視線は、一般人が没落旗族に向ける視線そのままだ。バカにしやがって……。奥崎は奥歯を噛みしめた。
「今の社会現実に即した、実践的な幸福論ですね」
 そんな中、同じく大学一年生の女性だけが、奥崎の暴論を肯定的に受け止めた。
「ですが、私はむしろ不起族の、自己主張なく、寄る辺なく日々を生きているだけの人々に注目したいですね。モラトリアムの代表のように思われがちですが、彼らはただ、自分で自分の幸福を見つけることができない不器用な人たちなのではないでしょうか。たとえ幻想であっても、今の人生をささやかだけれど幸福だと思わせる仕掛けができれば、彼らは立ち上がって、国家を幸福に導く推進力になってくれるはずです」
「不起族だって? あんなやる気のない怠け者たちに幸せの幻想を押しつけたところで、国を下支えする力なんか持てっこないさ」
 奥崎はささくれ立った心のまま、相手を睨んだ。しかし火花を飛ばすかと思った視線はぶつかることなく、好奇心と探究心とをたたえた理知的なまなざしに搦め捕られた。奥崎にとってディスカッションとは格闘技だった。相手をたたきのめすか、寝技で抑え込むか……。だが彼女はまるで、ポーカーのテーブルで奥崎の持ち札を透かし見るように、瞳の輝きをこちらに向けてきた。
「押しつけられた幸せだと、思わなかったとしたら?」
「え?」
「例えば一週間、奥崎さんの行動範囲を予測して、その予測範囲の外すべてを高い塀で囲ったとします」
 彼女は奥崎の名札を確かめて、そんなたとえ話を始めた。モニターの向こうの主催者側は、二人の意見の応酬をどんな風に評価しているのだろうか。
「俯瞰して見れば、奥崎さんは塀に囲まれた、束縛された日々を送っていると言えますね。ですが奥崎さんは塀の存在を認識することなく、自分の意思で行動し、自由に生きていると感じています。この時、奥崎さんは幸福なんでしょうか、それとも、不幸なんでしょうか?」
 謎かけをするように、彼女は首を傾げて笑いかけた。その瞳に、反発するのと同じくらい、引き込まれていた。二人の意見は真っ向から対立したわけではない。「幸福」という重く巨大な石を動かすために、強い力を持った者を鞭打って推進力とするか、力が弱くとも何百人もの人間に重さを感じさせないようにして運ばせるか……。手段こそまったく違ったが、見据える先は一緒だった。
 だからこそお互いが印象に残って、セミナー終了後に、奥崎から声をかけていた。会場はH公園に隣接したホテルだったので、公園のベンチに座って話した。自己紹介という互いの輪郭をはっきりさせるための儀式もなく、二人は会話を弾ませた。若さについて、互いの夢について、この国の未来について……。彼女は予想外の反応で、奥崎を導く。心の奥の形が変化して、そこに彼女がすっぽりとはまったような心地好さだった。
 それから時折、時間を合わせて会うようになった。一般的な若い男女の仲の深まりとは一線を画していただろう。周囲の恋人たちが遊園地や映画デートをする感覚で、裁判を傍聴し、被災地にボランティアとして赴き、地方再生に取り組む団体の活動に参加した。お互い、流行りの「自己啓発」には興味がなかった。社会運動や政治活動、事件の現場に身を置いては二人で語り合い、いずれ立ち向かう社会という器の中での、自らの立ち位置と歩き方を模索するフィールドワークを続けた。互いに心の鍛錬を競い合い、認め合う中で、男女の機微ではなく、人間としての機微を近づけていった。
 隣り合ったブランコを揺らしていて、たまたま揺れの振り幅が揃い、ひとときの伴走者となって同じ方向に向かっている感覚だった。いつか互いの揺れが変わり、離れていくまでの関係なのだと、奥崎は心のどこかで理解していた。夜中にふと目覚めて、月明かりに照らされた彼女の裸身の背中が、彫像のようにほの白く輝く様を眺めながら、切なくも、定めのように受け入れている自分がいた。
 奥崎は、彼女の歩く姿が好きだった。一歩ずつにしっかりと意思を介在させたような、今の一歩を何年も先の未来の一歩と結びつけるような、浮遊感と安定感を併せ持つ歩み……。わざと遅れて歩いて彼女の歩みを眺めていると、彼女は振り返って立ち止まり、二人の距離を測るように手を差し伸べた。そんな時、追いかけて手を握っても、決して追いつけない気分になったものだ。その切なさは、一人で歩くようになった今も、鮮やかな静止画のように心によみがえる。
 思い出を辿りながら公園を歩いていた奥崎は、階段を見上げて立ち止まった。公園に隣接した丘の上には、小さな神社があった。小さくはあるが、勝負事の願掛けで有名な神社だ。急すぎる参道の石段を、奥崎はゆっくりと上った。
 最後に彼女に逢ったのも、この場所だった。大学四年生の就職活動の合間に、リクルートスーツ姿で落ち合ったのだ。二派の「貴族」たちのムーブメントが最高潮に達していた頃で、広場には近づけなかった。神社の境内から見下ろす「合わせ鏡」の映し出す社会はますます混迷を極め、「個人の幸福」と「国家の幸福」は、より切実な命題として二人の前に横たわっていた。
「向き合わなきゃならないんだよね、これから。人々をあの行動に走らせる現実と……」
「社会そのものの構造を変えれば、あいつらは自然にいなくなるよ。そのために、俺たちは働くんだろう?」
 そんな時代だったからこそ、お互い省庁への入庁を希望していた。「安定した就職先」としてではなく、「最も効果的に自己実現できる環境」を目指して。とはいえ、彼女とは受けた試験のランクも違えば、広がる未来も違う。彼女は気にしたそぶりも見せなかったが、奥崎の心にはいつしか、卑屈な思いが芽生えていた。奥崎が国家機関で働くことを決めたのも、彼女の影響があったことは否めない。二十二歳の自尊心は、それを認められるほどに成熟してはいなかった。入庁が決まったことを告げることもなく、自ら彼女から離れていったのだ。
 そして彼女もまた、奥崎の前から姿を消した。入庁者名簿のどこにも、彼女の名前はなかった。彼女の携帯の番号もアドレスもいつのまにか変わり、音信不通となっていた。そうなって改めて、奥崎は彼女のことを何も知らなかったことに気付かされた。出身地も家族構成も、大学で何を学んでいたのかも。自分から離れたつもりだったが、本当は彼女に、そう仕向けられていたのではないか。今となっては、そうも思えてくる。
 それから五年が経ち、改めて境内から公園を見下ろす。戦争が始まり、公園の奇妙な占拠者たちは消え去ったが、今度は自粛警察や不謹慎モンスターによって「非平和時に公園で遊ぶことはけしからん」という風潮が形成された。五月の花壇に季節の花が咲き誇ることもなく、公園は本来の役目を忘れて静まりかえっている。
 神社の絵馬掛けは、絵馬が重なり過ぎてすっかりメタボリックになってしまっていた。学生の頃に訪れた際には、恋愛成就や、推しのアイドルの成功を願う絵馬が多かったことを覚えている。

 ――ミシラヌに行けますように――
 ――ミシラヌにつれて行ってください――
 ――家族揃って、ミシラヌに渡ることができますように――

 絵馬は見事なまでに、「ミシラヌ」の文字で埋め尽くされていた。非平和状態の今、絵馬は打倒UNCや、平和を願うもので溢れていてしかるべきなのに。
「ミシラヌ幻想か……」
 UNCの侵略行為が表面化すると同時に、その幻想は広がっていった。願望が形を持つことはある。だが、ミシラヌ幻想の形は、どこかいびつだった。この世界のどこかにある、「見知らぬ国」。それがミシラヌの語源だ。国家なのか、ある特定の地域なのかもわからないし、確かに存在するという具体性があるわけでもない。そんなあやふやなものを、どうして人々は信じてしまったのだろう。
 没落旗族も不起族も、戦時体制下で消えてしまった。だがそこに存在した不安や怒り、諦めや願望は、目に見える行動が消えてしまったからといって霧消するわけではない。仕掛けられた戦争という理不尽と、ミサイルやテロによるリアル過ぎる「命の危険」、その二つの鉄蓋によって、強引に封じられただけだ。鉄蓋の隙間から立ち上る煙のようなものが、ミシラヌ幻想ということだろう。
 実体のない幻想に形を与えたのは、人の弱さだ。一人一人の行動の帰結を「平和」と結びつけるだけの気力も能力もなく、ただただ現実逃避願望だけで形作られた蜃気楼の国、ミシラヌ。
 だが、奥崎はミシラヌ信奉者たちをさげすむ気にはなれなかった。どんなに愚かな妄想だとしても、それはすなわち、戦争への恐怖心の裏返しだからだ。侵略を受けているこの国の現状を肌で感じているからこそであり、奥崎たちの顕戦工作が功を奏した証拠でもある。
 一人の参拝者があたりをはばかるように現れ、長い時間祈りを捧げて、そそくさと立ち去っていった。この神社は何故か、ミシラヌ信奉者の最後の砦となって、人目を忍んで願掛けに訪れる場所となっていた。
 戦争開始から二年が経ち、国民の臨戦意識も低下した。今ではミシラヌ幻想は、一部の臆病者だけがはまってしまう宗教的な扱いだ。ミシラヌ幻想が人の愚かさの現れだとしたら、それがあっという間にカルト化してしまうのもまた、愚かさの別の側面だ。今の彼女が、愚かさを身にまとった人々の姿を見たならば、何と言うのだろう。それでも彼女は、そんな人々にもまた、幸福へと導く道を指し示すことができるのだろうか。
 彼女の面影を消すべく、勢いよく階段を駆け下りた。
 一つだけ気がかりなことがあった。SNS上に、ミシラヌからの発信だとされるアカウント「Y0639515S」がある。Y0639515Sが出すミサイル通知は、なぜか政府が出す警報よりも数分早く、飛来予報も精度が高かった。しかもそれはゾンビ・アカウント化し、ほとんどの国民にフォローされている状態だ。
 戦時体制下の国民をネット上の誤情報や偽情報から守るべく定められた「ネット環境保全五原則」に間違いなく抵触するアカウントである。それにもかかわらず、残り続けている……。いや、残され続けている。

(続きは本書でお楽しみください)

作品紹介



書 名:みしらぬ国戦争
著 者:三崎亜記
発売日:2025年03月17日

私たちは見えない「敵」と戦っている――。

国名も位置も分からない未確認隣接国家〈UNC〉の侵略で、「交戦状態」となったこの国。2年間続く戦争に人々は飽き飽きし、数字だけで伝えられる戦況を他人事のように感じていた。海岸の漂着物を確認するという徴集業務に従事するユイも、そんな「日常」を送る1人。ユイの目的はただ1つ、両親の形見に刻まれた謎の文字を解明し、幼い頃失った記憶を取り戻すことだ。その文字の記された漂着物を拾い集める男性、文字と同じ言語の歌を歌う少女らと交流を深めながら、その秘密に迫ろうとするユイだったが――。
みしらぬ敵、みしらぬ文字、みしらぬ歌、みしらぬ戦争。全てが繋がるとき明らかになる、戦争の“真実”とは?

詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322401000681/
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著者プロフィール

三崎亜記(みさき・あき)
1970年、福岡県生まれ。熊本大学文学部卒。2004年、「となり町戦争」で第17回小説すばる新人賞を受賞しデビュー、同作で第18回三島由紀夫賞、第133回直木賞にもノミネートされる。その他の著書に『バスジャック』『失われた町』『鼓笛隊の襲来』『廃墟建築士』『刻まれない明日』『ニセモノの妻』『メビウス・ファクトリー』『博多さっぱそうらん記』『名もなき本棚』「コロヨシ‼」シリーズなどがある。


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