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試し読み

あたたかい涙が流れるファンタジー小説の名手、村山早紀さんの新作から、第1話「遠い約束」を試し読み!#5

この世界の夜と眠りを守るのは、まるで天使のような、魔女たちでした――。
人気作家・村山早紀さんの待望の新作小説『魔女たちは眠りを守る』が4月16日に発売!
今回特別に、全7話の中から、第1話「遠い約束」をお届けします。
懸命に生きて、死んでゆくひとの子と、長い時を生きる魔女たちの出会いと別れの物語、ぜひお楽しみください。

>>前話を読む

 ◆ ◆ ◆

 咳き込みながら、胸いっぱいに春の夜の冷えた空気を吸い込んだ。頭痛がして、胸が痛いほどに鼓動していた。足下がおぼつかない。なんだか浮いているような気がする。濡れたからだが夜風に冷えて、震えが止まらない。口の中がしおからい。水路の塩水のせいで。
 咳き込みながら、やっと目を開けると、そこは、夜の海の上だった。
 叶絵は、誰かに手を引かれ、宙に浮かんでいたのだ。ふわふわと浮いている足の下に、ゆったりと満ちていく暗い海が見える。
(っていうか、これは)
 握りしめていた白い手を上へと辿ると、そこに、ほうきに乗った若い魔女がひとり。
 細い木々の枝をまとめて作ったような、大きく古いほうきに、制服を着た転校生が、七竈七瀬が、赤い髪と白いスカーフを夜風になびかせながら、腰掛けていたのだ。ほうきのの辺りには、長毛の黒猫が一匹、金色の目を輝かせて、叶絵を見下ろしている。
 春の嵐に吹かれながら、転校生は叶絵を見下ろし、その白い手に力を込めて、軽い調子で引き上げると、叶絵をほうきの自分の後ろに座らせてくれた。
「水の中には、ひとの子をからかって遊ぶような、いたずら好きの精霊たちがいるの」
 吹き過ぎる風の中で、転校生がそういう声が聞こえたような気がした。
「悪気はないんだけど──その分怖いところもあるわね。気をつけないと、特に寂しい気分のときなんかは、危ないものなのよね」
 いつもと同じ、少し舌たらずな声で、お天気の話でもするように、彼女はいった。
 自分はいま、空飛ぶほうきに乗っているんだろうか──叶絵は夢を見ているように思いながら、目の下の海を見ようとして、たちまち怖くなって目を閉じた。転校生に促されるままに、その背中をぎゅっと抱きしめた。
「大丈夫よ。ほうきかわたしに触れている間は、下には落ちないから」
 楽しげに、転校生が笑う。
 叶絵は黙ってうなずいているしか余裕がなくて、ただその背中にすがっていた。
「綺麗なものを見せてあげる」
 転校生が、ほうきの柄をめぐらせるようにして、叶絵をどこかの空へと運んだ。
「──目を開けてご覧なさいな」
 ぎゅっとつぶっていた目を恐る恐る開けると、目の下から光の粒子が、押し寄せるように広がっているのが見えた。
 夜景だった。
 この街の夜景が美しいのは知っていた。繁華街の街明かりも、道路を行き交う車の灯りも、そして郊外へと続いていく住宅地の灯りも、その広がりと連なりは知っていたけれど、空から見れば、こんな風に見えるのだと初めて知った。まるで宇宙だ。星空がそこにあった。
 春の嵐が、埃も汚れも、空の雲までも吹き飛ばして、澄んだ夜景を見せていた。
(うちは、どの辺だろう?)
(あの辺りかな?)
 つい目で捜してしまう。小学校のそばの、古い建売住宅が並ぶ辺り。線路のそばの。
 ああ、あの辺りだろう、と思うところには、小さな光が灯っていた。家族があの光のそばにいるのだと思うと、胸の奥が痛くなった。──なんて小さな、けれどあたたかい色の灯りなのだろう。
 空からこうして光を見ていると、辛かったはずの諍いなんか忘れて、すぐにでもあの光のそばに帰りたくなった。小さい頃からあの光のそばで、守られるように暮らし、笑い、そして泣きながら育ってきたのだ。ささやかな、けれどたくさんの思い出を作りながら。
 ふと、思った。
 自分の家に灯っているのと同じ灯り、同じ光が、こんなにたくさん地上には満ちているんだな、と。この街に、そして世界に。
「魔女の目には、人間の街の夜景って、こんな風に見えるんだね」
 訊くともなく、叶絵は呟いていた。
「こんなに綺麗に。まるで、星みたいに」
「そうね。星座みたいに見えるわね。はかなくて、強くて、小さな星が灯す光が作る星座。こうして空から見下ろすと、地上からは見えない宇宙がそこにあるのよね」
 転校生は、そう答えた。
「たくさんの人生や、夢や希望で織り上げられた、星座が広がっているように見えるの。世界中の、いろんな街に、夜ごとに、星座は生まれ、光を灯して、朝を待つの」
 風に吹かれた濡れたからだと、耳たぶが痛かった。指先も凍えそうだ。
 けれど、震えも忘れそうなほどに、空から見下ろす夜景は美しかった。
 長い髪をなびかせて、街を見下ろす転校生は静かな笑みを浮かべていて、叶絵は、この子はいつもひとりでこの美しいものを見下ろしているのかと思うと、胸がうずくほどにうらやましくなり──すぐに、切なくなった。
 それが美しければ美しいほど、ひとりで見るのは寂しいものかも知れない。美しいとか楽しいとか面白いとか、そんな思いはきっと、誰かに教え、分けあう方が楽しいのだ。
 だから、ほうきに乗った彼女は、自分をあの空に誘ったのかも知れない。
 だから自分は面白い本を探し、誰かに差し出したいのかも知れない、とあの夜、叶絵は思ったのだった。
 あの、夢ともうつつともつかない夜に。

 やがて、転校生は、繁華街の外れにある公園の方にほうきを向け、叶絵の手を引くようにして、彼女を地上に降ろした。
 空飛ぶほうきは、地上に着いた途端、星を散らすような光を放って消えた。魔女の娘のてのひらに吸い込まれたように見えた。
 春の嵐は、その頃には街を通り過ぎようとしていた。名残のようにたまに吹き荒れる風が、公園に咲いていた夜桜を散らした。
 街灯の下に、自動販売機があり、そしてふたりは熱いココアを買って飲んだのだった。
 花の雨に打たれるようにしながら、寒さに身を震わせながら、でも笑いながら。

「いつかまた、この街に帰ってくるから」
 転校生はいった。「旅する魔女は同じ街に二度暮らすことはないんだけど、きっとまたわたしは、この街に帰ってくるから。
 だから、そのときはまた、面白い本の話をしてね。童話の本をわたしに薦めてね」
 叶絵はうなずいた。
「面白い本、探しておくね」
「魔女が活躍するような話がいいな」
 赤毛の少女は、そういった物語が好きだった。『魔法のベッド』や『メアリー・ポピンズ』や、そういう、い魔女たちがひとの子を守り、そっと手を差し伸べるような物語が。
 約束、と転校生は手を差し出し、握手をした。そんなふたりを、黒猫が金色の目を輝かせ、ほうきのような尾を振って、じっと見上げていた。

 あの頃の叶絵にとって、世界は狭く、そして深かった。たやすく落ち込んで、井戸の底のような暗闇にひとりきりで沈み込んでいた。
 けれど、光が射し込むように、差し伸べられた白いてのひらを、自分は忘れないだろうと、ココアが放つ白い湯気を見つめ、その甘さを嚙みしめながら、あの夜の叶絵は思ったのだ。

 それきり、赤毛の転校生と会うことはなかった。
 叶絵はその夜から酷く風邪を引き込んでしまい、数日して高校に登校したときには、七竈七瀬はもうどこにもいなくなっていたのだ。
 教室の彼女が座っていたはずの席には他の生徒が座り、図書館の彼女が借りていたはずの数冊の童話の本は本棚に戻っていて、学校からあの赤毛の転校生の気配はぬぐい去ったように消えていた。
 そして誰も、彼女のことを覚えていなかった。叶絵ひとりの記憶の中に、転校生は存在し、そしてあの春の嵐の夜を最後に、いなくなってしまっていたのだった。
(わたしは、忘れない)
 叶絵は誓った。
 ひとりきり、心に誓った。
 ひとりで旅する魔女と約束したのだから。魔女の存在を信じる。そして忘れない、と。
 いつか七竈七瀬はこの街に戻ってくる。
 再会のその日を待つのだ、と。

「──少しだけ、忘れていたのかも知れない」
 叶絵は、傍らの席の友人に語りかける。すっかり冷めてしまったココアは、でも変わらずに、優しく懐かしい甘い香りを漂わせている。
「ほんとをいうとね、熱のせいで見た幻なんじゃないかとか、思ったこともあった」
 それほどに、長い年月がたったのだし、叶絵は高校生ではなく、おとなになったのだ。
 社会の中で、身と心を削るようにして、働いていたのだ。
(でも──)
 叶絵は、ココアを見つめて、微笑んだ。
「地上には、星座が──宇宙が広がっているんだよね。それを今夜、思い出した。はっきり思い出したから、もう二度と忘れない」
 久しぶりで、思い出した。
 地上にはひとびとが灯す、小さな灯りと、その灯りで編まれた星座があって、その光の中に、自分もいるのだと思い出した。
(生きていることって、楽しいことばかりじゃないけれど)
(頑張ったってむなしく思えるようなことも、多いけど)
 でも、叶絵たちが生きて、働いている世界は、空から見下ろすと、美しい。
 夜ごとに、叶絵は宇宙の星のひとつになるのだ。光のそばに立つひととなる。
 それならいいじゃないか、と思った。
 空飛ぶほうきで空ゆく魔女が、光を愛でてくれるのならば。

 平田叶絵は、そうしていまも、その街の書店で働いている。
 本を選び、棚に並べ、お客様と言葉を交わし、注文をし、返本をして。
 店長になんといわれようといまも時間を見つけてはPOPを描き続けている。最近のお気に入りは、新作の児童書の、ファンタジーだ。魔女の子が活躍する物語だった。
(再会したときは七竈さんに本を薦めるって約束、うっかり忘れちゃってたから)
 舌を出し、頭をかいた。
 この物語がいかに面白いか、どんなに素敵か書き込んだPOPを棚に飾りながら、願掛けのように願う。──いつか魔女が店に来て、このPOPに気づいてくれますように。
(わたしは、ここで待っているから)
 昔と同じに、本が棚一杯に詰まった場所で。
 あの子や、他の寂しい誰かが笑ってくれるような本を選び、考えながら、ここにずっと立っているから。

 あの夜、三日月通りの『魔女の家』で、自分がどんな風に七竈七瀬と語りあい、別れたのか、そこからどうやってアパートの自分の部屋に帰ったのか、叶絵はよく覚えていない。ココアのあとに頼んだ、甘い蜂蜜酒に酔ったのかも知れない。
 不思議なことに、叶絵はその後二度と、あのカフェバーに辿り着けなかった。
 明るい昼間にも、夜にも。
 まるで路地への扉が閉じてしまったように、辿り着けなくなったのだった。
 それは寂しいことだけれど、でも、
(まあ、仕方ないかな)
 叶絵は苦笑した。
 一度きりの魔法。それって、物語の中に出てくる奇跡のセオリーだもの。
(だけどね)
 変わらず店で働きながら、叶絵は思うのだ。
 いつかもう一度、あの赤毛の魔女と会うことがないとは誰にもいえない。
 本を手渡すという大切な約束。それをまだ果たしていないのだから。

 約束といえば、もうひとつの約束のような言葉があったっけ、と叶絵は思う。
 いつか再会したとき、叶絵が幸せならいい、と赤毛の魔女は願ったのだ。
 さて、どうだろうか?
「──わりと幸せなんじゃないかな」
 ふふ、と叶絵は笑う。
 心の内に、七瀬とふたりで見た夜空が広がっている。宇宙を抱いているように。
 きっと自分は大丈夫だと思う。
(もう、暗いところには、きっと行かない)

 商店街の光が、夜空を照らす頃。
 音もなく空を駆ける少女と黒猫がいる。
 使い込まれたほうきに腰をおろし、長く赤い髪をなびかせて、少女は空を行く。
 春の風には桜の花びらが交じり、ほうきが飛ぶ高い空まで、たまに吹き上げられてくる。
 少女は髪にからまる花びらをたまにつまみ上げるようにしながら、ほうきの上で古い物語の本を手にし、広げる。
 ページを照らすのは、月の光しかない。
 ひとの娘ならば、暗いところで本を読むなんて目が悪くなりそうだし、叱る親もいそうなものだけれど、彼女は魔女で夜目が利くし、注意してくれるような家族や仲間もすでにいない。時の彼方で、ずっと昔に見送ってしまった。
「ナルニア国のお話は、何度読んでも面白いけれど、魔女が悪役なところだけは、気に入らないわね」
 地平線に溢れ、続くひとの街の灯りを見下ろしながら、ほうきから下げた足をたまに揺らして、魔女は本を読み続ける。異世界への扉がある洋服たんや、輝かしく勇気あるライオン、冒険する少年少女と動物たちの物語を。
 たまに、古い本のページからまなざしを上げ、街の方を見る。
 彼女のことを覚えていてくれた、彼女よりもおとなになった、友人の働く書店はあの辺りだろうか──。
 あの子はもう、暗いところへ足を向けないだろうか──。
 書店のビルが灯す小さな光を見つめ、そのまわりに星雲のように広がる街明かりを、地平線に広がるひとの手が灯す宇宙を見下ろしながら、そっと魔女の子は微笑むのだ。
(大丈夫、もしまた道に迷っても、わたしが見ているから)

 わたしたちは眠らない。
 ずっと昔から、人知れずそうしてきたように、魔女たちはひとの子の眠りを守る。
 世界中で密かに、魔女たちは、街のを見つめているのだ。
 見えない大きなてのひらで、光が消えないように、包み込もうとするように。
「わたしもいつも思っていたのよ」
 ふと、魔女が呟く。
「『ここではないどこか』に行きたいなって」
『ナナセはずうっと旅しているのに?』
「そう。長いこと、世界中を旅しているのにね」
 春の夜風が、若い魔女の髪を巻き上げ、本のページをめくる。
 魔女は静かに微笑みを浮かべ、そしてまた物語の続きへと帰っていくのだった。

(このつづきは本書でお楽しみください)



村山早紀魔女たちは眠りを守る』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/321912000467/


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