著者究極の代表作、誕生。連綿と続く、女たちの“鎖”の物語。
早見和真の最新刊『八月の母』4月4日発売
ベストセラー『イノセント・デイズ』を超えるという決意で著者が挑んだ、衝撃作『八月の母』。その冒頭部分を掲載します。
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早見和真『八月の母』試し読み
プロローグ
八月は、母の匂いがする。
何年もそのことに気づかないフリをしていた。自分が気づかないフリをしていたのだということを、ある日、私は不意に知らされた。
その正確な日づけも覚えている。いまから五年前の、八月十四日。
三十時間を超える難産の末に赤ちゃんが私たちのもとに来てくれた日、助産師がそっと胸に置いてくれた赤ちゃんの匂いを、私は思いきり吸い込んだ。
砂糖を水で溶かしたような甘い香りがした。「赤ちゃんの匂い」と、誰にともなくつぶやき、まだ濡れた髪の毛にゆっくりと手を伸ばしかけたとき、甘さの奥に、私はかすかな血の匂いを見つけた。
胸を駆け巡ったのは、猛烈な嫌悪感だった。
「どうかした?」
立ち会っていた夫の目は潤んでいた。その顔を見て、私ははじめて自分の腕が止まっていることに気がついた。
「ううん。この子に、私たちのところに生まれてきてくれてありがとうって」
私はあわてて赤ちゃんの髪を撫でた。すぐにおっぱいを口にふくんだ男の子の様子を見ていたら、感動で頰に涙が伝った。
それでも、心は晴れなかった。焼きつけなきゃ。この子のこの姿をしっかりと目に焼きつけなきゃ。心の中で、何度も唱えた。そうしなければ、弾かれたように湧き上がった拒絶感に意識が持っていかれそうだった。
産後処置のために赤ちゃんが連れていかれ、静けさを取り戻した分娩室の窓から、真夏の陽が差していた。
私の人生から母が忽然と消えた日のことがよみがえった。
ずっと記憶から消そうと思って生きてきた。それなのに、五年前の出産の日以来、ムンとした夏の熱気を感じるたびに私はあの人のことを思い出す。
八月は母の匂いがする。
八月は、血の匂いがする。
これ以上ない喜びに充ちていたあの朝、生まれてきたばかりの赤ちゃんの匂いの中に、私は目を逸らし続けた自分の過去を見つけてしまった。
後悔に似た負の感情が一気にあふれ出した。
私はそれを誰にも見つからないよう、幸せの中に必死に閉じ込めようとした。
母から連なる物語が、自分という人間を経由し、赤ちゃんを通じて未来へとつながってしまったという実感があった。
憧れてやまなかった家族をようやく手に入れたというのに、先立つのは不安ばかりだった。そのことが、五つ年上の夫の健次に対して、そして一翔と名づけた生まれたばかりの赤ちゃんに対して、ひどくうしろめたかった。
一翔の出産からしばらくの間は二人目を考えることができなかった。それどころか一翔を産んだ日の濁った感情がよみがえり、健次と関係を持つことはおろか、身体に触れられることにも抵抗があった。
健次は辛抱強く私の気持ちを待ち続けてくれた。ふて腐れた態度を取ることもなく、暴言をぶつけてくることもない。むしろ私の方が理不尽に八つ当たりすることもあったけれど、そんなときでも健次は笑って受け止めてくれた。
自分の不安定さを呪いながら、私は何度も泣いて謝った。こんなに幸せなのにいったい何が不満なの? 私は繰り返し自問した。不満なんてあるはずない。けれど、自分が幸せであるという事実こそに私は言いしれぬ恐怖を抱いてしまう。
一翔が三歳になった頃、ようやく健次に身を預けることができた。最後まで身体は硬直したままだったし、やはり嫌悪感を拭うことができず、これでまたしばらく肌に触れることはないのだろうと気が鬱いだ。
しかし事を終えると、健次は「ああ、良かった。本当はもうこのまま一生ないんじゃないかってビビってたんだ」と、おどけた声を上げた。
私が落ち込んでいることを悟り、わざと陽気に振る舞ってくれたのだろう。
「本当にありがとう。これまでごめんね、パパ」と口にできたとき、ふっと心が軽くなるのを感じた。それ以来、久しぶりに自分から彼の手をつかめるようになったし、身体にも自然と触れられた。
一翔もすくすくと成長している。あっという間に五歳になる彼との関係もとりあえず良好と言えそうだ。
去年の冬、ついに念願の二人目の妊娠がわかったとき、一翔は飛び跳ねて喜んでいた。「今度は女の子みたいだよ」と伝えると、瞳を潤ませてこう叫んだ。
「じゃあ、僕が守ってあげなくちゃね!」
優しくて、家族思いで、涙もろい。一翔が健次に似ているのだとしたら、お腹の女の子はどちらに似るのだろう。
そんな一抹の不安はあったが、育児と、仕事と、家事に忙殺されていれば、なんとか神経をすり減らさずに済んだ。
この一年くらいは、だから母のことをあまり思い出さなかった。それなのに、いつもより長かった梅雨がようやく明けたからか、それともそのタイミングで産休に入ったからだろうか、この数日間は妙に胸がざらついた。
ふとカレンダーに目を向ける。
明日から八月だ。
太陽の熱をいっぱい吸収した洗濯物を畳み、この夏は一翔をどこに連れていってあげようかと思いながら、私はため息を止めることができなかった。