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試し読み

八月は母の匂いがする。八月は、血の匂いがする。 ――早見和真『八月の母』試し読み

 そこまで言われて、ようやく私は腑に落ちた。小学校四年生のときに神奈川から引っ越した北陸地方のある街で、健次の家族はいわれのない中傷を受けた。曰く、関東で大きな罪を犯したから一家で逃げてきたのだと。
 もちろん根も葉もない話だったし、最初は〝よそ者〞にありがちなことなのだろうと取り合おうとしなかった。しかし、ウワサはあっという間に尾ひれがつき、少しずつリアリティが増していき、一向に終息しなかった。
 同級生たちの遠巻きの視線は、健次が六年生に上がった頃にイジメに変わった。「自分がいじめられるだけなら耐えられた」と彼自身が言う通り、本当に苦しかったのは母親までもが陰口に留まらない陰湿なイジメを受けていると知ったときだ。
 地方移住は両親のかねての夢だった。横浜の自宅を売却し、縁もゆかりもない土地に新しく家を建て、「どうか仲良くしてください」と、近所にお菓子を持って挨拶に回った。「最初に下手に出たのが間違いだった」と、いつか健次は苦虫をかみつぶしたような表情で言っていた。結局、健次の中学卒業を待たずに一家は逃げるように街を離れた。
 周囲に対する思いやりや、繊細な人柄に加え、私が健次に心を許せた理由がもう一つある。多感な時期を過ごした街を、二人とも心の底から恨んでいたということだ。
 健次から北陸での出来事を聞いたとき、私もつい愛媛のことを話してしまった。具体的なことは語っていない。母について口にした記憶もない。ただ、瀬戸内海に沈む夕日の陰気くささを伝えただけだ。
 たったそれだけのことだとしても、東京に出てきて、私はほとんどはじめて地元のことを誰かに明かした。そのとき健次は「わかるよ。僕にはわかる」と言ってくれた。
 故郷の海に沈む夕日を眺める人たちは、そろって優しい笑みを浮かべていた。その穏やかな光景を目にしたときの強烈な孤独がよみがえり、私は人生ではじめて理解者を得たという気持ちになったのだ。
 きっと健次は覚えてさえいない。
 でも、あのとき彼が言ってくれた「僕にはわかる」に、私はいまでもしっかりと救われている。
 前夜のお酒のせいだろう。翌朝、健次はいつもより起きてくるのが遅かった。一翔の方が先にご飯を済ませ、テレビにかじりついている。 
 健次はどこか不機嫌そうにカウンターの卓上カレンダーに目を向け、少し考える仕草を見せてから、表の紙を一枚めくった。
 レンジで温めたご飯に箸をつけ、ぼそりとつぶやく。
「昨日はごめん」
「ううん。ずいぶん熱くなってたね」
「やっぱりそうだよね。なんかあんまり記憶にないや」
 そう照れくさそうに微笑んだかと思うと、健次は再び真顔を取り戻し、思ってもみないことを言ってきた。
「実は転勤が決まったんだ。九月下旬、シンガポール」
 呆気にとられる間もなかった。「え……?」と声をこぼした次の瞬間には、全身の細胞が幸福感で充たされそうになっていた。
 健次は申し訳なさそうに頭を垂れる。
「本当は昨日伝えようと思っていた。会社には妻の出産直後だからもう少し待ってほしいと言ってたんだけど、ごめん、受け入れてもらえなかった。申し訳ない」
「そんなの、べつに」
「本音をいえば、一緒についてきてほしいと思ってる。でも、ママにはママの人生があるのもわかってる。出産のことや、一翔の幼稚園のことはこれから一緒に考えていくとして、仕事のことはママ自身が決めたらいい」
 一瞬、私はカッとなった。仕事なんていますぐにでもやめればいい。その言葉がのど元まで出かかったが、かろうじて押し留めた。
 健次に失望されるという気持ちもあった。でも、それ以上に強かったのは、たとえ安月給だとしても、すぐに誰かに替えの利く職業と思われていたとしても、私自身が必死につかみ取った仕事であるという思いだ。
 私だけは美容師という職に就いた自分自身を軽んじるわけにはいかなかった。それなのに、そんな気持ちをはるかに上回って、この国を離れることに、あの街からさらに遠く離れられるということに、甘美な思いを抱いてしまう。
「まだ時間はある。よく考えてみて」
 食器を重ね、キッチンに運ぼうとするとき、健次は不意に足を止め、先ほどめくった卓上カレンダーに目を落とした。
「今日から八月か。もうすぐ君たちの誕生日だね」
 一緒に出かけていった夫と息子の背中を見送り、玄関先で、私はお腹をさすりながら空を見上げた。
 太陽はすでに高く昇っている。いつか故郷の海岸を真っ赤に染めたのと同じものであるのを不思議に思う。
 錆びた鉄の臭いが鼻をくすぐった。
 いまから二十七年前の八月、私はどんなふうにこの世に生を受けたのだろう?
 あの母は、それでも不器用な愛を私にも注いでくれたのか?
 これまで必死に振り返るまいとしてきたことが、なぜか次々と脳裏を過ぎった。

(この続きは本書でお楽しみください)

作品紹介・あらすじ



八月の母
著者 早見 和真
定価: 1,980円(本体1,800円+税)
発売日:2022年04月4日

著者究極の代表作、誕生。 連綿と続く、女たちの“鎖”の物語。
『イノセント・デイズ』を今一度書く。そして「超える」がテーマでした。僕自身はその確信を得ています――早見和真

彼女たちは、蟻地獄の中で、必死にもがいていた。

愛媛県伊予市。越智エリカは海に面したこの街から「いつか必ず出ていきたい」と願っていた。しかしその機会が訪れようとするたび、スナックを経営する母・美智子が目の前に立ち塞がった。そして、自らも予期せず最愛の娘を授かるが──。
うだるような暑さだった八月。あの日、あの団地の一室で何が起きたのか。執着、嫉妬、怒り、焦り……。人間の内に秘められた負の感情が一気にむき出しになっていく。強烈な愛と憎しみで結ばれた母と娘の長く狂おしい物語。ここにあるのは、かつて見たことのない絶望か、希望か──。
詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322008000196/
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