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試し読み

【試し読み】夢枕獏「キマイラ」シリーズ 電子書籍フェア開催記念! 『幻獣少年キマイラ』期間限定全文公開

一章 異常学園



 ――夕刻。
 駅前に近い繁華街は人であふれていた。
 定時で仕事を終えたサラリーマン。
 買い物帰りの主婦。
 学生。
 男。
 女。
 雑多な人間たちが、それぞれの方向に歩いている。
 地方都市の、どこにでも見られるような風景とざわめき。
 大鳳吼は、あかりのき始めた商店街を、駅に向かって歩いていた。
 四月――
 まだ、桜が咲いている頃である。
 暑くもなく、寒くもない時期。
「おい、待てよ」
 大鳳の背後から、ふいに、低く押し殺した声が響いた。
 大鳳は立ち止まった。
 ふり返ると、そこに、ふたりの男が立っていた。
 ふたりとも、大鳳とあまり変わらない年頃だった。おそらくは高校生――間違っても中学生ということはなさそうだった。
 せた長身の男と、ずんぐりとした小男。
 どちらも、つい今しがた、大鳳が出てきた本屋の店内で見た顔だ。ふたりとも、ジーンズに、黒い革ジャンパーを着こんでいる。学生服姿の大鳳とは対照的だ。
 大鳳の顔に、おびえの色が浮かんだ。
「久しぶりじゃねえか」
 長身の男が、大鳳の肩に手をかけた。
 一メートル七二センチの大鳳よりも、数センチは上背がある。短い髪に、ぴっちりとパーマをかけ、細い金縁のメガネをかけていた。口の中で、しきりにガムをんでいる。
 その口元に、うすわらいがへばりついていた。
 小男の方は、身長は、一メートル六〇センチもないだろう。低い位置から、押し黙ったまま、大鳳をにらんでいる。眼球の黒い部分が、常人より、はっきりひと回りは小さい。
 どこか、病的なものを感じさせる眼だ。
 長身の男は、大鳳の肩に手をまわして歩き始めた。
 他人の眼には、久しぶりに会った友人どうしと映るに違いない。しかし、男の手には、有無を言わせぬ力がこもっていた。
 大鳳が、このふたりの男と会ったのは、さきほどの本屋が初めてである。むろん言葉をかわしたこともない。
 大鳳が連れこまれたのは、通りからはずれた細い路地だった。一方を、灰色のビルの壁面でふさがれた、完全な袋小路だ。
 人通りは、ない。
 通りと十数メートルも離れていない路地の奥には、早くも薄闇がたちこめていた。
 路地の奥に大鳳、出口を塞ぐ形で、ふたりの男が立った。
「おめえ、あれを見たな」
 長身の男が言った。
 メガネの奥から、細い眼が大鳳を見ている。
 口元には、あの薄嗤いがへばりついたままだ。
「何を、ですか――」
 大鳳は言った。
 自分の声が、かすかに震えているのが情けなかった。
「とぼけんじゃねえよ」
 長身の男は、ことさら声のトーンを落として言った。その方が、大声で怒鳴るよりも、相手に恐怖感を与えるのを知っているのだ。
 長身の男は、革ジャンパーのホックをはずし、ふところから一冊の本を取り出した。
「これだよ」
 それは、今人気のある女優のヌード写真集だった。
 本から、顔をそむけるように、大鳳はうつむいた。
 相手が、何のことを言っているのかは、わかっている。
 その本は、長身の男が、さきほどの本屋から万引してきたものだ。大鳳は、その現場を目撃してしまったのだ。
 眼が合った時に見せた、長身の男のすごい眼つきをまだ覚えていた。
 あわてて眼をそらした大鳳の頰に、執拗に突き刺さってきた視線の感触が、むずがゆよみがえった。
 ちゆうるいの冷たい舌に、頰をちろちろとねぶられているようだった。
 先に外に出たふたりは、大鳳が出てくるのを待ち受け、後を尾行つけてきたのだろう。
「見たんだろうが」
 長身の男がさっきの言葉をくり返した。
 大鳳はこくんとうなずいた。
「たれこんだりはしなかっただろう?」
 もう一度うなずく。
「このボタンは西せいじよう学園のだな。おめえ、何年だ」
「一年です」
「今日、入学式をすませた口だな。言っとくがな、先公なんかにたれこんだりするんじゃねえぞ。もっとも、そんな度胸はねえだろうけどよ」
「――」
「おれたちは、おめえの先輩だよ。同じ西城学園のな。それで、ちょっとあいさつに来たのさ。おめえが、よけいな口を滑らせねえようにな」
 しゃべっているのは、長身の男だった。
 小男は、さっきから一言も発していない。
「おめえのクラスと名前を聞いておこうか」
 大鳳は、ぴくっと身体を震わせた。
 クラスと名前を言ったら最後だと思った。
 この男は、卒業するまで、自分にまとわりついてくるだろう。
 そういう恐怖感に満たされた。
 いじめ――
 という言葉が脳裏にちらついた。
 大鳳は、まだ自分の置かれた状況が信じられなかった。とんでもない冗談に巻き込まれているだけなのだと思った。
 よりによって、入学式のあったその日に、同じ学校の、札つきのワルに目をつけられたのだ。
 またか、と大鳳は想った。世の中には人にいじめられやすいタイプの人間がいる。本人は意識していないのに、知らぬ間に他人の暴力を誘発してしまうのだ。
 大鳳がそうだった。
「言わねえか」
 その声には、はっきりしたどうかつの響きがあった。
 大鳳は、それでも口を開かなかった。
「調べりゃよ、すぐにわかることなんだぜ」
 その言葉を耳にした時、大鳳は、地に沈み込むような絶望感に襲われた。
 その通りだった。
 今言わなくても、大鳳のクラスと名前くらい、いずれは知られてしまうことだった。顔を覚えられた以上、同じ学校の人間が調べる気になれば、明日にでもわかる。
 動揺し、そんなことすら気がつかなかった自分がくやしかった。
 せいいっぱい口をつぐんでいた気力が、急速にえた。
 今は、できるだけ相手を刺激せずに、一刻も早くこの場を立ち去りたかった。
「一年C組の……」
 屈辱で顔が赤くなった。
「――C組の、大鳳吼です」
 やっとそれだけ言った。
 自分は、これほど暴力に弱い人間だったのかと思った。
「おい、顔をあげろよ」
 うつむいたままの大鳳に、長身の男が言った。
 言われるままに、大鳳は顔をあげた。
「ほう」
 メガネの奥の眼が、まゆと一緒に、わずかにりあがる。
「いい男じゃねえか」
 長身の男は、大鳳の顔だちに、あらためて眼をやった。
 大鳳は、確かに整った顔をしていた。
 肌が、ぬけるように白い。ゆるくウエーブした髪が、耳に半分かぶさり、その下に滑らかな首筋がのぞいている。ぶたは二重。ひとみは大きく、黒くれて光っていた。唇は、微かに、あかみを帯びている。
 まるで、同じ年頃の少女のような顔つきである。
 それも、とびきり美麗な少女だ。
 しかし、大鳳のそのぼうには、どこか人間離れしたものがあった。
 長身の男は、大鳳のかおだちの美しさに、数瞬の間とまどいに似た表情を浮かべていたが、すぐに、元の細い眼つきにもどった。黒い瞳に、さっきまではなかった、サディスティックな光が、宿っていた。
 その光が、大鳳の不安をかきたてた。
「もう、帰ってもいいですか」
「待てよ。まだおめえを信用したわけじゃねえ。ここでだけいい子でいて、後でたれこまれたんじゃたまらねえからな」
 獲物をいたぶって楽しんでいる口調だった。
「どうしようか」
 自分にとも、横にいる小男にともつかぬ口調で言った。唇の片方が、うれしそうに吊りあがっている。
 小男は、返事をせず、やはり押し黙ったまま、細い小さな黒い眼で、じっと大鳳をにらんでいた。
 ひどいニキビ面で、くすんだ紙のような顔の皮膚は、夏ミカンの皮を連想させた。背はずんぐりしているが、がっしりした肉厚のたいをしていた。爆発的な力を秘めていそうな身体である。ケンカとなれば、長身の男などより、はるかにすごそうな迫力がある。
 さっきから一言も口をきかないが、それがかえって不気味だった。
 常人とは、歯車が、どこかひとつずれている。
「いいことがあるぜ。おめえもよ、あの本屋で、何か本を一冊万引ってくるんだ。そうすりゃあ、おめえもおれたちの仲間だ。まさか仲間をたれこんだりはしめえ――」
 長身の男は、しためずりしそうな唇を、軽薄にゆがめて笑った。
 万引を見られた、というのはただの口実で、男たちの目的は、獲物をいたぶることにあるようだった。
「なあ、おい」
 横に立って、長身の男は大鳳の顔をのぞき込む。
「で、できません」
 言いながら、何故こんな目に遭わなければいけないのか、と大鳳は思った。
 力が欲しかった。力さえあれば、このふたりをぶちのめしてやるのに。
 屈辱と、怒りと、憎悪とが、ごちゃ混ぜになって渦巻いていた。
 長身の男が、大鳳の横に来たことにより、小男の右横が、広くあいていた。ふいをついて、いきなり走り出せば、なんとかそこを抜けられるかもしれなかった。
「できねえだと」
「――」
「ならば金を置いていくんだな」
「お金?」
「この本の代金だよ。おめえが払うんだ……」
 その言葉が終わらぬうちに、大鳳は走り出していた。
 長身の男に、肩がぶつかった。
 はずみをくらって、よろけた長身の男の背がコンクリートの壁にぶつかった。
「野郎!」
 長身の男がうめく。
 その時には、もう大鳳は小男の横を走り抜けつつあった。
 小男の脇をすり抜けたと思った瞬間、大鳳の身体は宙を舞っていた。ふわりと自分の体重がなくなり、次に、激しい衝撃がどっと背を襲った。
 初めは、自分に何が起こったのかわからなかった。肺がふさがっていた。背を打った苦痛で呼吸が止まり、息がつけないのだ。
 小男のニキビ面が、無表情に大鳳を見下ろしていた。
 小男の足が、大鳳の脚をはらったのだ。
 長身の男が、まだあえいでいる大鳳の胸ぐらをつかみ、引き起こした。
「ずいぶん、なめたマネしてくれたな」
 大鳳の後頭部を、ごつん、ごつんとコンクリートの壁に打ちつける。
「この」
 強烈なこぶしの一撃が大鳳の顔面を襲ってきた。
 爆発するような恐怖が大鳳を捕らえた。
 ほとんど無意識のうちに、大鳳は首をまげてその拳をかわしていた。自分でも信じられない、一瞬の動作だった。プロボクサー並みの反射神経だ。いや、たとえプロボクサーといえども、胸ぐらをつかまれた状態で、至近距離からのパンチを、こうもみごとにはかわしきれまい。
 長身の男の拳は、したたかにコンクリート壁をたたいていた。
 しぼりあげるようなうめきが、長身の男ののどからこぼれた。胸ぐらを握っていた左手を離し、右腕を抱えて腰をかがめる。すごい眼で大鳳をにらんでいた。眼が血走っている。
「てめえ!」
 完全に逆上していた。
 革靴の爪先をたて続けに大鳳の腹にり込んできた。大鳳は思わず腰を引いた。しかし、その蹴りをかわすことはできなかった。長身の男の激しい感情が自分にぶつかってきて、それが大鳳の精神をえさせたのである。
 爪先は、正確に大鳳の腹にめり込んだ。
 大鳳は、腹を押さえて腰を折った。
 激痛に、眼から涙がにじんだ。
 頰に左のパンチが叩き込まれた。一発や二発ではなかった。鼻の奥がキナ臭いもので満たされた。ぬるりとした温かいものが、鼻から滑り出てきて唇に伝わった。しょっぱかった。血であった。
 殴られた時、大鳳が感じたのは、痛みというよりは温度であった。顔面が、火のようにかっと熱い。
 くずおれた大鳳のポケットに、長身の男の手が差し込まれてきた。サイフを探しているのだ。
 声がしたのは、その時だった。
「それぐらいでやめておくことだな。強盗までしたんじゃ、ただのケンカじゃおさまらなくなるぜ――」
 身体をびくんとさせて、長身の男が顔をあげた。おなじようにふり返った小男の顔に、初めて表情らしきものが浮かんでいた。驚き、というよりは、とまどいに近い表情だった。
 そこに、ぬうっとひとりの男が立っていた。
 巨漢である。
 長身の男が小さく見えるほどだ。一メートル八〇センチは軽く越えていよう。盛りあがった岩のような肩の上に、太い首があり、柔和な顔がその上で笑っていた。
「誰だ、てめえ」
 長身の男がえた。
「通りがかりの者だよ。穏やかじゃない雰囲気だったんでな。ちょっとおせっかいをやきに来たのさ」
「すっこんでやがれ。てめえにゃ関係のねえことだ」
 長身の男が凄む。
 身体のでかい男には、えてして小心者が多い。自分より大きい相手を、凄むことで何度か威圧してきたことがあるのだろう。長身の男のどうかつは堂に入っていた。
 しかし、巨漢は、毛ほどもそれを感じていないらしい。
「しかしなあ。こうして声をかけちまった以上、これで引き下がっちまうんじゃ、そこの彼が可哀そうじゃないか」
 涼しい口調で言う。
「痛い目を見てえのか」
「痛い目を見たがる人間なんぞ、マゾでもなければいるわけないだろう」
「おちょくってるのか、てめえ」
 立ちあがりざま、長身の男は、巨漢に殴りかかった。
 それを、巨漢はひょいと上体をゆらめかせてかわした。ほとんど身体を動かしていない。両足は地についたままだった。
 宙に泳いだ身体をたてなおした長身の男は、自分とその巨漢との力量の違いにようやく気づいたようだった。
 べっ、とんでいたガムを吐き捨てた。
くそっ」
 今度はふいをついたつもりで、巨漢のひざの裏を目がけて、蹴りを入れてきた。
 巨漢の男は、左足をあげて、その蹴りに空をきらせ、そのまま左足で、半回転した長身の男のしりをとんと突いた。
 長身の男は、前につんのめって、地面に頰をこすりつけた。
「やっちまえ、菊地!」
 倒れたまま、長身の男は、小男に向かって叫んだ。
 菊地と呼ばれた小男の、さっきまで何もなかった右手に、魔法のようにスイッチ・ナイフが握られていた。
 刃渡りが一五センチはありそうだった。
「きいっ」
 獣じみた声をあげ、ナイフの尻を自分の脇腹にためた菊地の身体が、どんと巨漢の身体にぶちあたった。テレビや映画でヤクザがするような格好を、大鳳は、初めてその眼で見た。
 自分の眼が信じられなかった。
 ひきつった悲鳴が、自分の喉にからまったのがわかった。
 大鳳は、てっきり、巨漢が刺されたものと思った。
 長身の男もそう思ったのだろう、
「へへ――」
 長身の男は、ゆがんだ唇を震わせて立ちあがった。
 ぶつかりあったふたりの身体は、二、三秒の間、動かなかった。
「いかんなあ」
 場違いな、とぼけた声をあげたのは、巨漢だった。
 巨漢は、両手で菊地を抱くようにして、ゆるく足を開いていた。菊地の背に回された巨漢の右手に、菊地の持っていたはずのナイフが握られていた。
「ケンカにこういうものを使うのはいかん」
 言いながら、菊地の身体を抱えあげ、自分の足元に寝かせた。
 菊地は気絶していたのである。
 おそらく、巨漢は、一瞬のうちにナイフを奪い取り、菊地の身体のどこかに、気絶するような打撃を加えたのであろう。恐るべき早技だった。いつ、どのようなことをしたのか、大鳳にはそれが見えなかった。
 菊地が、頭をふって起きあがってきた。
 まだ、自分に何が起こったのかわかっていないのだろう。困惑の色が、その顔にあった。
 大鳳は、巨漢が、菊地がすぐにせいするように、打撃を手加減したのだと思った。
 巨漢が、その唇に笑みを浮かべていたからである。まだ本気になっていないのだ。
 そうだとするなら、あの状態にあって、巨漢にはまだ余裕があったことになる。
 長身の男は、もう逃げ腰になっていた。
 その時――
「やめた方がいいよ、はいじま。あんたなんかのかなう相手じゃないんだからね、この男は――」
 通りの方から響いてきたのは、女の声だった。
 大鳳たちのいる場所と、通りとの中間あたりに、両手を腰にあてた女が立っていた。
さん――」
 灰島と呼ばれた長身の男が、女の名を呼んだ。
 その女――由魅は、灰島の声が聞こえなかったように、巨漢を見つめていた。
「お久しぶりね。九十九つくもさん」
「由魅か」
 巨漢の顔に、笑みが浮かんだ。れぼれするようないい笑顔だった。にんじようの最中とは思えないほどだ。
 由魅は、四人のいる所まで、みごとな足どりで歩いてきた。背筋がぴんと伸びている。黒いスカートに、燃えるようなあかいブラウスを着ていた。
 由魅が現れたとたんに、場の中心が、さっとそこに移動してしまっていた。鮮やかな登場のしかただった。
 ブラウスの胸元が大きく開き、白い肌が惜しげもなくさらけ出されている。胸のふくらみが、ブラウスの布地を、下から大きく挑発するように押し上げていた。紅い布の間にのぞく白い胸の谷間が、どきりとするほどなまめかしい。
 布越しに乳首の位置が見てとれる。ブラジャーをしていないのだ。
 ウエストのくびれも、腰の張りぐあいも、申し分なかった。スラリとした脚も、ファッションモデルそこのけだ。足首もしまっている。
 同性の女が見ても、思わずため息をもらすほど、みごとな身体つきだった。
 由魅は、ぐるりと見回してから、
「なるほどね」
 と、大鳳に視線を止めた。
「だいたいのところは想像がつくわ。灰島と菊地がこの子からカツアゲでもしようとしてたところに、あなたがやってきたってとこね――」
「まあ、そんなとこだ」
「あいかわらずね、九十九さん」
 由魅の視線は、大鳳に向けられたままだった。大鳳の、並みはずれたぼうきつけられているらしい。
 アイライナーに縁どられたキラキラ光るれたひとみが、大鳳の眼とぶつかった。
 心臓を、素手でつかまれたようなショックがあった。あわてて視線をそらし、大鳳は、こぶしで鼻から滴る血をぬぐった。鼓動が速くなった。こめかみを打つ心臓の音がはっきり聴こえる。
 自分の顔が、赤くなっているのではないかと思った。
 由魅のかおが眼に焼きついていた。
 アイライナーのいらぬほどくっきりとした眼。ブラウスと同じ色のルージュをひいた唇。肩まで垂れたくせのない髪――。いや、それ等よりも何よりも、その貌にたたえられた、不思議な微笑が、鮮やかに大鳳を捕らえていたのだ。
 それは、欲情した女の貌であった。
 大鳳の本能が、敏感にそれを感じて、眼をそらせたのだ。大鳳自身もまた欲情していたのである。だが、大鳳の意識は、まだ自分の肉のうずきに気づいていないのだ。
 大鳳は、自分の心臓の鼓動する音が、この場にいる全員に聴こえてしまうのではないかと思った。
 由魅の赤い唇がすっと横に広がり、白い歯がこぼれた。大鳳の心のうちを見すかしたような笑みだった。
「いつ大阪から帰って来たの」
 由魅が、巨漢に向かって言った。
 眼は、もう巨漢に向けられている。
「今日さ。久しぶりに街を歩いていたら、偶然にこの現場を見ちまった。まあ、本当は、小便をしにこの路地に入っただけなんだがね――」
「あなたらしいわね」
「ところで、は元気か」
「ええ。元気すぎるくらい」
 久鬼の名が出たとたん、灰島の顔が驚きでこわばった。
「由魅さん。この野郎――いや、こちらは久鬼さんを知ってるんですかい」
 灰島は時代がかった言い方をした。
「あなたたちよりはずっとね」
 灰島の顔が、何とも言えない表情になった。
 由魅が九十九と呼ぶこの巨漢を、心の中であつかいかねている顔つきだ。敵なのか、仲間なのか、計りかねているのだ。
 小男――菊地は、さっきから恐ろしい顔で、九十九をにらみつけていた。一見無表情な顔の下に、さきほど軽くあしらわれたことに対する怒りと屈辱が、どす黒く燃えていた。
「今日はこれでおしまい。帰るのよ――」
 由魅が、灰島と菊地をうながすように言った。
 灰島はうなずいたが、菊地は、その言葉が聴こえなかったように、九十九を見すえていた。
「ほら、これを返しとくぜ」
 九十九が、スイッチ・ナイフを菊地の足元にほうった。菊地は、それには見向きもしなかった。
「いいかげんにしなさい。今、あっさりやられたばかりでしょう。あたしが来なかったら、あんなものじゃすまなかったかもしれないのよ――」
 由魅の言葉に、菊地の顔がどす黒くなるのを、大鳳は見た。激しい憎悪の炎が、陰火のように、その眼にめらめらと燃えあがっていた。
 ――この男、由魅を好きなのだ。
 大鳳は、直感的にそう思った。
 由魅を好きだからこそ、その前で恥をかかされた九十九に怒りを覚えているのである。
「行くわよ」
 由魅が歩き出すと、ねじ込むような視線のいちべつを九十九に放ち、菊地は由魅の後ろに続いた。もう、大鳳のことなどすっかり念頭から消えているようだった。
 由魅の背に、ぴったり寄り添うように従う菊地を見た時、大鳳の心に、苦痛に似た、熱い、得体の知れぬものがこみあげた。
 それが、菊地に対するしつの念であることに、大鳳はまだ気づいていなかった。
「久鬼によろしく言っといてくれ」
 九十九が由魅の背に声をかける。
「わかったわ」
 由魅がふり向いた。
「またすぐに顔を合わすことになりそうね。それから、そちらの可愛い方ともね――」
 三人の姿が消えた。
 夜になっていた。
 通りのあかりと、頭上のビルの窓からこぼれる灯りが、路地に差し込んでいた。
「さて、おれも行くか」
 九十九が歩き始めた。
 巨体に似合わず、おそろしく軽い足どりだ。
「ありがとうございました」
 大鳳は、あわてて九十九に声をかけた。
「礼を言われるほどのことじゃないさ」
 九十九が立ち止まり、ふり返った。
「気をつけろよ。あんなのにからまれてケガをしたんじゃ合わないからな」
 あの、太い笑みを浮かべた。
 人を安心させる、温かい笑顔だ。
 九十九が去った後、その路地には、大鳳とナイフだけが、ぽつんと取り残されていた。



 西城学園――
 神奈川県わら市内にある私立高校である。
 小田原城の西、山の手の城山に校舎がある。はこ外輪山の巨大なやまひだのスロープが終わるあたりだ。
 屋上からは、西に箱根外輪山の山々、北にたんざわ山塊が遠望される。小田原城を見下ろすと、天守の向こうに、相模さがみ湾が見える。
 東京から新幹線で四〇分、新宿からきゆう線で一時間半の距離である。
 大鳳吼のアパートは、小田急線で一区間新宿よりの、あしがらにあった。
 市街地よりも、家賃がずっと安い。
 安いとはいっても、高校生で、しかも独り暮らしとあっては、ばかにならない額である。
 大鳳は、早めに家を出た。
 一般の生徒が登校しはじめるより、一時間早く校門をくぐっていた。
 さすがに誰もいなかった。
 構内は、静まりかえっていた。
 グラウンドの奥にある散りかかる寸前の桜が、朝陽を浴びて、しんと明るく輝いている。
 大鳳は眼を細めた。
 グラウンドは、あっけらかんと広い。
 ひどくつまらぬことをしたような気がした。
 昨日のふたり――灰島と菊地と顔を合わせぬように早く登校したことが、馬鹿ばかしくなった。
 ――気にしすぎているのだ。
 昨日のことも、今は悪い夢のようである。
 悪夢は早く忘れることだ。そう自分に言いきかせようとするのだが、それで肩の荷が軽くなるわけではない。
 あれは、もうすんだことなのだ。このまま、あのふたりが自分にかまってこないのなら、この新しい環境の中でも、なんとかやっていけるだろう。
 ふいに、由魅のことが頭に浮かんだ。
 あの胸のふくらみと、大鳳をじっと見つめた眼――。
 何かの残りのように、それが、静まりかけた大鳳の心を波立たせた。
 大鳳は、それをふりはらい、桜の木の下に向かって歩いていった。
 腹が減っているのに気がついた。
 朝食を食べていないのだ。カバンの中には、駅前で買った、サンドイッチと牛乳が入っている。
 幹の下に腰を下ろし、それを食べる。
 最後のサンドイッチを手に取った時、大鳳は、一匹の犬が、じっとこちらを見ているのに気がついた。すぐ隣の桜の幹の陰から顔だけを出し、大鳳の手の中のサンドイッチに視線をそそいでいる。切ないほどに腹をすかせている眼だ。
 大鳳は、犬と自分との中間に、サンドイッチを投げてやった。
 犬は、走りよってくると、あっという間にそれを食べた。
 大鳳は笑った。昨日殴られた個所が痛んだ。四発はきれいに殴られたのだ。痛みが残ってあたりまえだ。
 顔をしかめながら、大鳳は、まだ牛乳の残っているビンを、犬に向かって差し出した。犬は、をふりながら、おそるおそる近づいてきた。
 ビンを傾けてやると、こぼれてくる白い液体を、犬はきれいにめとった。もうこぼれてくるものがなくなっても、犬は舌をビンの中に伸ばして、内側に付いた牛乳を舐めようとする。
「よしよし」
 大鳳はまた笑った。
「優しいのね」
 ふいに、すぐそばから女の声がした。
 制服を着た女生徒が立っていた。笑いながら犬を見ている。
「残念だわ。わたし一番最初だと思っていたのに――」
 犬に眼をやったまま言う。
 ロングヘアの、ほっそりした少女だった。
「え――」
「わたしより早く登校してくるなんて、よっぽど早起きなのね」
 少女が大鳳に向きなおる。
 二重の優しい眼が、大鳳に向かって微笑んでいた。黒い髪に、桜の花びらが一枚とまっている。
 大鳳は、理由もなく、ろうばいしていた。
 何か、ひどく恥ずかしい現場を見られてしまったような気がしていた。自分は、どんな顔をして犬にビンを舐めさせていたのだろう。だいぶ子供じみていたかもしれない。
「ごめんなさい。驚かせちゃったかしら――」
 少女が軽く唇をすぼめると、淡いピンクの唇の表面に、清潔なしわがよった。
 同年齢の少女に比べ、いくらか成熟の遅れた、まだあどけなさの残る娘だった。中性的で、ようせい的な雰囲気が、少女の肉体を包んでいた。
「君も新入生かい」
 大鳳が言った。
 牛乳ビンは、もう地面に転がっている。
「ええ。あなたもでしょう。ね、もしかしてC組? 昨日のクラス編成の時に、あなたの顔、見たような気がするわ」
「君もC組なの?」
「そう。担任はおおいし先生――」
「君は、いつも、こんなに早く学校に来るのかい」
「中学の時からよ。この、誰もいない明るい雰囲気が好きなの」
「へえ」
「あなたもそうなんでしょう」
 声を出しかけて、大鳳はあわててうなずいた。本当のことは言えなかった。
「あら、その顔――」
 少女は、ようやく、大鳳の顔に気がついたようだった。
「ケンカ、したんでしょう」
「これは――」
 大鳳は、殴られた個所に手をやって立ちあがった。ビンを舐めていた犬が、とびのいた。
「転んだことにしておいてもいいのよ」
「そうしてくれると助かる」
 大鳳は、ほっとして言った。
 少女の顔が、やけにまぶしかった。



 少女の名前は、おりゆきといった。
 大鳳は、その名前を、ホーム・ルームの自己紹介で知った。
 深雪の方も、これで大鳳の名を知ったはずだった。
 席決め、自己紹介、委員の選出で午前中が終わった。
 昼休み――パンで昼食をすませた大鳳の所に、織部深雪がやってきた。
「やあ」
「面会よ、さん」
「面会?」
「三年生ね。今、私が外に出ようとしたら声をかけられたの。教室の入り口の所で待ってるわ」
 不安が大鳳の胃をじわりと締めあげた。
 昨日のふたりの顔が、すぐに浮かんだ。
「女の人よ。とてもれいな方――」
 声の中に、どこか怒ったような響きがある。
 しかし、大鳳は、その響きには気づかない。
 ほっとすると同時に疑問がわいた。
「誰だろう」
 立ちあがり、深雪に礼を言って廊下に出た。
「大鳳さん」
 と、声をかけてきた女がいた。
 大鳳は女を見た。はっきりした顔だちの、確かに綺麗な女だった。大鳳よりは小さいが、女としては大柄な方である。
「わたしよ。わかる?」
 悪戯いたずらっぽい微笑で言う。
 黒いれたひとみと唇の形。つい最近見たものだ。のどもとまで答えが出かかっているのに、それがつかえて出てこない。そんなもどかしさがあった。
「どう、その顔。まだ痛むんじゃないの?」
「由魅、さん?」
 言葉が大鳳の口をついて出た。
「そう、由魅よ。むろ――」
「まるでわかりませんでした――」
「無理はないわね。あの格好とこの姿じゃあね。どう、驚いた?」
 昨日とは、言葉づかいまでが違う。
 大鳳はうなずいた。
 目の前にいる由魅が、昨日の由魅と同一人物だというのはわかる。しかし、昨夜の映像と、今ここにいる由魅の姿が、まだぴったりと重ならないのだ。
 昨日の由魅は、どう見ても二〇歳か、それより上に見えた。化粧を落としただけで、女はこうも変わるものかと思った。
 目の前にいるのは、どう見ても高校生である。
 しかし、由魅の魅力が、わずかも損なわれているわけではなかった。匂いたつような、なまめかしい肉体の雰囲気は、制服の下からも、色濃く漂ってくる。それが、磁気を帯びたオーラのように、由魅の肉体を包んでいる。
 あの、燃えるようなあかい布の下からのぞいていた、白い胸のふくらみを、大鳳は思い出した。
 顔が赤くなった。
「何か用だったんですか」
「あなたの顔を見に来ただけよ。それが目的――」
 含み笑いをする。
 廊下を通る新入生たちが、不思議そうな顔で、ふたりを見てゆく。しかし、由魅は、それをまるで気にしていない。
「からかわないで下さい」
「からかってなんかないわ」
「からかっています。用件を言って下さい。昨日のことですか」
「そのことだったら、後で、ちゃんとあなたを呼びに来る者がいるわ――」
「――」
「驚かなくてもいいわ。あなたをどうにかしようってわけじゃないんだから。わたしの見るところでは、むしろその逆ね――」
「逆?」
「たぶん、ね。久鬼の考えていることは、わたしにもわからないところがあるの。とにかく、あなたは、何も気にしないでいらっしゃい。怖がることなんてないんだから」
「その久鬼さんていうのは――」
「だめだめ」
 由魅は、大鳳の言葉をさえぎった。
「言ったでしょ。わたしはあなたの顔を見に来ただけ。でも、もうその目的はすんだわ。じゃあ、放課後ね――」
 にっと微笑んで、由魅は去って行った。
 大鳳が教室にもどると、とたんにた叫び声があがった。
「いい女じゃないか」
「色男は手が早いからなあ」
「もう、やっちまったのかい。すんだらこっちにもまわしてくれるんだろう?」
「俺にも、少しは女を残しといてくれよな」
 口笛と笑い声。
 五、六人の男子生徒が、輪になって大鳳を見ていた。騒ぎの中心は彼等である。
 彼等のには憎しみがこもっていた。
 それは、すでに、大鳳にとってはみのものだった。
 ――またか。
 と、大鳳は思った。
 またなのだ。初対面の、大鳳と同年齢の男たちの多くが、いつも決まって同様の反応を見せる。彼等は、大鳳のぼうにまず驚き、そして、次には本能的に大鳳を憎む。
 程度の差こそあれ、まず、そうである。
 たとえ、彼等が口にしなくとも、大鳳は敏感にそれを感じることができた。
 いつ頃からそうなったのかはわからない。
 気がついた時には、そのような雰囲気がまわりにあった。彼等の反応が、自分の美貌に対してのものであることを知ったのは、中学に入ってからだった。大鳳は、彼等を無視することを覚えた。
 それ以来、大鳳は、ほとんど友人らしい友人を持ったことがない。
 自意識が過剰になって、大鳳のかおだちに特別な感情を持っていない者たちとも、しっくりいかなくなってしまったのだ。
 すでに、一年C組の内部でも、大鳳の美貌は話題になっていた。
 大鳳は、彼等にいいきっかけをあたえてしまったのだ。
「見せつけてくれるじゃねえか」
 野太い声をあげたのは、騒いでいる男たちの中心になっているさかぐちという男だった。自己紹介で、出身中学で番をはっていたとおくめんもなく言って、担任教師の顔をしかめさせた男である。いかにもそれらしい、ごつい四角い身体つきをしていた。
 大鳳は、彼等を無視した。
 席についた大鳳の貌から表情が消え、超然とした顔つきになる。
 自然に身につけた、自分を守る方法である。
 貌が美しいだけに、効果は抜群だった。しかし、それは、薄くもろいガラスの仮面だ。わずかの暴力で、たやすく素顔が露呈する。昨日がいい例だった。
 大鳳のおくびようさが、そんな仮面をつけさせるのだが、相手にはそれがわからない。
 かえって反感をあおりたてることになる。
 坂口の場合もそうだった。
 ぬうっと立ちあがって、大鳳の席に向かって歩いてくる。
 心臓がすくんだ。
 しかし、それを表情には出さない。
 ――能面のような貌。
 深雪が、痛いほど見つめているのが、大鳳にはわかった。
 すぐ横に、坂口が立った。
「もてるんだなあ、大鳳」
 ささやくように言う。
 教室のざわめきが、すっかりやんでいた。
 すべての視線が、ふたりに集まっている。空気がぴりぴりと張りつめている。
 大鳳の神経は、限界近くまで緊張していた。いっぱいに張ったゴム風船と同じだ。針先が軽く触れるだけで、簡単に破裂してしまうだろう。
 それでも大鳳は黙っていた。
 いや、声を出せなかったのだ。声を出せば、それは、昨日以上に震えた、だらしないものになるのはわかっていた。
「いい度胸じゃねえか。え、そのつらは、昨日どこかでタイマンはったって面だぜ……」
 ダン!
 と、ごうおんが響いた。
 坂口が、こぶしで大鳳の机をたたいたのである。
 大鳳が声をもらさなかったのは、ほとんど奇跡に近かった。表情もそのままだ。
 その音が、あまりに突然だったからである。すくみあがってしまったと言ってもいい。机への一撃が、もう少し加減したものであったなら、大鳳は、おそらく声をあげていたろう。
 坂口は、にやりと笑った。
 教室中の者が、かたずをのんだその時、前の戸がふいに開いて、ひとりの男が入ってきた。
 大きな男だった。
 ひと目で上級生とわかる。昨日の九十九ほどの上背こそなかったが、体重はほとんど同じくらいであろう。
 学生服の下に、分厚い肉の塊が、ぎっしり詰まっている。それが、鍛えあげられ、引き締まっているものであることが、布越しにもわかる。
 肉の風圧のようなものが、その肉体からむうっと漂ってくるようである。
 男は、けいとした鋭い眼で、教室内をいちべつした。
 眼をそらさずにその視線を受けたのは、坂口だけであった。
「この中に大鳳というのはいるか」
 男が言った。低く、落ち着いた声である。
 全員の眼が、大鳳にそそがれた。
「おまえか」
 大鳳は、まれるようにうなずいていた。
「空手部のだ。今日の放課後、どうかんに来てもらいたい。来られるか」
「はい」
 気づいた時には、返事が大鳳の口から滑り出ていた。
 由魅が言っていたのは、このことだったのだ。
「そうか。約束したぞ。むかえの者をよこす」
 それだけ言うと、男は、大鳳の横に立っている坂口に数瞬視線を止め、何も言わずに教室を出て行った。
「けっ」
 吐き捨てるように言ったのは坂口だった。
「おかしな眼で俺を見やがって――」
 阿久津の出現によって、大鳳に関しては、完全にタイミングをずらされたのであろう。くるっと背を向けて、仲間のいる方へ歩いて行った。
 その時になって、大鳳は、ようやく、自分がとんでもない返事をしてしまったことに気づいていた。



 鬼道館は、校舎の西側に建てられた、木造の建物である。
 西城学園の、剣道部、柔道部、そして空手部が共同で使用している。鬼道館のすぐ西側に、背中合わせの棟続きで、びやくれんあんがある。もとはひとつの建物だったものに、仕切りの壁を入れてふたつにしたものだ。
 白蓮庵の方がせまく、その一部は、大きめの茶室風になっており、ここは茶道部と華道部が使用している。
 もっとも、茶道部、華道部共に、部室そのものは別にあり、そちらの方はそちらの方で、一般の部員が使っている。
 白蓮庵のすぐ先は雑木林である。雑木林は、そのまま、箱根外輪山のやますそとなって広がっている。
 鬼道館と白蓮庵――ひとつの建物をこのようにふたつに分けたのは、肉体は鬼神のように強く、心は白いはすの花のごとくに――という意味のものであるらしい。
 鬼道館の内部は、畳敷きと板敷きとに分けられていた。
 畳敷きの方が二〇畳、板敷きの方が三〇畳ほどで、仕切りの壁はない。畳のある方を柔道部、板の間の方を空手部と剣道部が使用していた。
 大鳳は、空手着を着た男の後から、鬼道館の中に足を踏み入れた。
 中は、しんと静まりかえっていた。
 人がいないのではない。ざっと五〇名近くの人間がいる。その五〇名近くの人間全員が、両側の壁際にきちんと正座をして眼を閉じているのである。
 ほとんどの人間が、空手着、柔道着、剣道着を着ている中で、ひとりだけ学生服姿の人間がいた。
 学生服姿の男は、左右に皆を従えるように畳の間の一番奥に座って、左手を軽く前に出し、考えごとをするように首を傾けていた。左手に握られているのは、紫の花を付けた菖蒲あやめであった。右手には花バサミが握られていた。
 その男は、目の前の水盤に、花をけていたのである。
 大鳳を連れてきた小柄な空手着の男は、学生服姿の男に向かって一礼し、列の一番端に、皆と同じように正座をした。学生服姿の男は、ふたりが入ってきたことにまるで気づいた風もなかった。
 じっと、左手の菖蒲を見ている。
 大鳳は、どうしていいかわからずに、そこにつっ立っていた。下は板の間である。靴下を通して、硬い板のひんやりした感触が伝わってくる。
 鬼道館に入る時、うわきをぬがされたのである。
 あがってすぐが板の間、その奥が畳の間だった。左右の列の端に座っている何人かは、直接板の上に正座している。
「大鳳くんですね」
 ふいに、菖蒲を手にした学生服姿の男が、眼をあげて言った。
 落ち着いた声だった。
 その声が響いたことにより、部屋の静寂が一層増したようだった。
「はい」
「こちらへ来て座りませんか」
 大鳳は緊張した足取りで、男の前までゆき、そこに正座をした。
 男の眼は、再び菖蒲にそそがれていた。
 そのかおを見て、大鳳は軽いショックを覚えていた。
 その男は、大鳳に優るとも劣らない、美しい貌をしていたのである。貌の造りそのものはむろん違う。しかし、その優美さには、大鳳にも共通した、あの、どこか人間離れしたものがあるのである。
 だが、男と大鳳を比べてみると、決定的に違うところがある。
 男の全身からは、大鳳にはない、己に対する絶対的な自信が漂ってくるのである。ひ弱ではない、内側から光る完成された美だ。
 わずかな仕種や口調、表情にも、強い意志が一本通っている。
 それは、ストイックな者にありがちな、その肉体を硬くおおうものではなく、内側からにじみ出てくるものだ。
「どうしますか」
 花を見つめたまま男が言った。
「――」
「これを、あなたならどうしますか」
 驚くほど深い色をした黒いひとみを、すっと大鳳に向けた。
 大鳳に向かって、菖蒲が差し出されていた。
 男は、大鳳に、おまえならこの菖蒲をどう活けるか、といているらしかった。
 大鳳はようやくそのことが吞み込めた。
 大鳳は水盤に眼をやった。
 えん形の薄い水盤には水がはられ、三本の菖蒲が活けられていた。そのうちの一本に花が咲いていたが、残りの二本は葉だけである。シンプルな構成の中に、不思議な落ち着きが感じられた。りんとしたものが、静かなたたずまいの空間に、みごとな調和を見せている。
 れの筆が、さっと描きあげた、切れるような日本画の趣がある。
 南の窓から、西に傾きかけた陽光が、大鳳のひざもとの畳に、滑るように伸びていた。
「どうしていいか、ぼくにはわかりません」
 どこにその一本を活けても、水盤上にできあがった調和をこわしてしまいそうだった。
「そうですね」
 大鳳の気持ちを読みとったように、男がつぶやいた。
「どうするかは、もう決まっているんです。今、ここへ入ってきたあなたの顔を見て、ちょっと考えを訊いてみたくなったんですよ」
「決まっている?」
「はい。こうするのです」
 男は、右手の花バサミで、手に持った菖蒲の花を無造作に切り落とした。
 とん、と、まるで音でもたてたように、紫色の花が畳の上に落ちた。
「この花も、確かにみごとに咲いてはいるのですが、こちらでは、もうすでにひとつの美が完成されています。その美にとっては、この花がどんなに美しく咲いていようと、もはや邪魔なだけです」
 花バサミを畳の上に置いた。
「自己紹介をしていませんでしたね」
 男が言った。
 正面から、大鳳の眼を見すえた。
れいいちといいます」
 その時、背後に人の気配がした。
 新たに、誰か入ってきたらしい。
 大鳳はふり返った。
 ひとりの、学生服姿の大きな男が、あの由魅に連れられて入ってきたところだった。
 男は、頭をかきながら、きちんと正座をしている男たちを、困ったような顔で眺めていた。
 その顔に見覚えがあった。
 大鳳と眼が合ったとたん、その男の顔が、人なつっこい、れぼれするような笑顔になった。
「よう。また会っちまったな」
 その男は、昨日、大鳳が助けられた巨漢――九十九だったのである。



 九十九は、大鳳の横に、どっかりと座した。
 堂に入ったみごとな姿勢だ。まるで岩である。
「元気そうですね」
 久鬼が言った。
「ああ。そっちも相変わらず、と言いたいところだが、なかなかご大層な様子じゃないか――」
 九十九が、左右に並んで座っている者たちを、ぐるりと見渡した。
 久鬼は、口元に、わずかに笑みを浮かべただけだった。
えんくうざんには、もう行きましたか」
 久鬼が言った。
「まだだよ。ここの用がすんだら、うんさい先生の所に顔を出すつもりだ」
「もう一年以上も会ってない。顔を出したら、久鬼がよろしく言っていたと伝えてくれませんか」
「わかった。ところで、足を崩させてもらうよ。どうも正座というのは、性に合わん」
 九十九は、胡座あぐらをかいた。
「あんたも足を崩したらいい。ここの連中につきあって正座なんかしてると、足がしびれちまうぜ」
 大鳳に向かって九十九が言う。
「かまいませんよ」
 と、久鬼がうなずく。
「このままで、平気です」
 大鳳は、頰をひきしめて言った。
 足は、すでにしびれかけている。しかし、九十九のように胡座をかく勇気はなかった。この場の雰囲気に、すっかりまれているのだ。
 自分が来る前から正座をしている人間の前で、後から来た自分が、先に膝を崩すわけにはいかなかった。大鳳の、せめてもの意地であった。
 が、そんな自分の気持ちも、すっかり久鬼と九十九には読まれているような気がした。
「そろそろ用件を聴かせてもらいたいな。もっとも、この大鳳がここにいるところを見れば、だいたいの想像はつくがね」
 九十九が言った。
 昨日、ナイフをつきつけられた時の口調と、少しも変わってない。
 久鬼も、九十九も、どちらも自信に満ちた大人びた雰囲気を感じさせるが、その個性にはまるで異質なものがあった。
「灰島と菊地。前へ出てきなさい」
 久鬼の声が凜と空気を打った。
 右手の列から、ふたりの男が立ちあがった。長身の男と小男、灰島と菊地だった。ふたりとも、空手着を着ていた。
 ふたりは、前に出てくると、九十九の横に、いくらか距離をとって立った。
「このふたりが、昨日は、たいへん失礼をしたそうですね」
 灰島が、気の毒になるほど緊張しているのが、大鳳にはわかった。菊地の方は、細い眼で宙をにらんでいる。何を考えているのか見当もつかなかった。
「たいしたことじゃない。もうすんだことだ」
 九十九が言った。
「聴くところによると、ナイフさえ使ったらしいですね。大鳳くんの顔には、まだ殴られた跡が残っていますね。それは、この灰島がやったのでしょう」
 大鳳は、黙っていた。
 久鬼の意図がわからぬうちは、何とも答えようがなかった。
「灰島――」
 と、久鬼は、大鳳から灰島へ、質問の相手を変えた。
「おまえは、大鳳くんを殴りましたね?」
「久鬼さん、そ、それは――」
 灰島が、やっとという感じで声を出す。
「答えなさい」
「殴りました」
「何回ですか」
「四発――たぶん四回だったと思います」
 灰島は、哀れなほどしゆくしていた。
「菊地は、大鳳くんには手を出していないのですね」
「大鳳に手を出したのは自分だけです」
「わかりました」
 久鬼は、大鳳に向きなおった。
「大鳳くん、今、この場で、あなたが殴られた数だけ、灰島を殴りなさい。ぼくが許します」
 平然と言った。
 大鳳は、一瞬、その言葉の意味がわからなかった。が、雷のせんこうの後に、遅れて雷鳴が響いてくるように、その言葉の意味が大鳳に追いついてきた。
「後の心配はいりません。遠慮は無用です」
 声を出せずにいる大鳳を、久鬼がうながした。
 しかし――
 大鳳はどうしていいかわからなかった。
 今まで、本気で人を殴ったことなどなかった。どう殴っていいか見当がつかない。昨日ならばともかく、今は、灰島を殴りつけたい、という意志そのものが欠如しているのだ。
 いや、正確に言うなら、現在でも、灰島にこぶしたたき込んでやりたいという気持ちはある。もっと正確に言うなら、それは、強くなりたい、という欲望――暴力に対する飢えである。相手は灰島でなくてもかまわなかった。
 大鳳の心には、暴力を恐怖する気持ちと、暴力そのものを、自分の力として思う存分駆使してみたいという願望があった。暴力を憎む気持ちが強ければ強いほど、また、その願望も強かった。自分のひ弱さがのろわしかった。
 時には、己の中に潜む、暴力への激しい渇望に、りつぜんとすることすらあった。
 しかし、それは断じてこのようなものではなかった。今、目の前で畏縮しきっている男を、他人の力をかりて殴りつけるものではなかった。
 やるのなら、自分がもっと強くなって、自分の力で、灰島を叩き伏せるのでなければならなかった。
「できません」
 大鳳は言った。
 緊張で声がかすれたが、せいいっぱいの意志を、その言葉にこめた。
「そうですか。しかたありませんね」
 久鬼がつぶやくと、灰島が、いきなりわめき出した。
「殴ってくれ、大鳳!」
 悲痛な声だった。
「頼む。おれを殴ってくれ。でないと――」
「黙りなさい」
 久鬼が、言った。
 低い、静かな声だが、拒否を許さぬ、断固としたものがあった。
 久鬼は、両側に並ぶ道着姿の男たちに、悠然と視線をめぐらせた。
 久鬼の眼が、ひとりの男の上で止まった。
「阿久津――」
 久鬼が言った。
「は――」
 と、その男が、頭をそびやかした。
 それは、昼休みに大鳳を訪ねてきた男――空手部の阿久津だった。
「灰島も菊地も、空手部の人間でしたね」
「はい」
「主将のおまえが、大鳳くんにかわって始末をつけなさい」
 灰島の身体が、硬直した。
 ぬうっと、阿久津が立ちあがった。
 巨大なヒグマのようであった。
 灰島の前まで歩いてくると、そこに立ち止まる。眼が、すっと細められた。
「いくらか手加減しなさい」
 久鬼が、阿久津に声をかけた。
「わかっています」
 答えるのと、手が繰り出されるのと、ほとんど同時だった。

 灰島の頰に正拳がふたつ、腹にまえりがふたつ、きれいに入っていた。合わせて四つ。大鳳が殴られたのと同じ数である。
 灰島が、腹を両手で抱え、畳の上で身体をねじくってもだえていた。
 ぜんとするような光景だった。
 大鳳は、そっと由魅の方を盗み見た。
 由魅の眼は、熱くれてキラキラ光っていた。形のよい鼻の穴が、小さくふくらんでいる。明らかに興奮しているのだ。
 逆に、九十九の顔には、あからさまな不快感が現れていた。その顔を見た時、大鳳はほっとした。正常な人間がこの場にいてくれることが、ひどくありがたかった。
「次は菊地ですね」
 冷ややかな、久鬼の声が響いた。
 菊地は、心持ちぜんとした面持ちで、立ったままであった。表情も、ほとんどかわりがない。
「おまえは、ぼくの友人の九十九に、刃物を向けたそうですね。知らなかったとはいえ、許されないことですよ。もっとも、相手が悪かったようですがね。いや、相手が九十九で良かったと言うべきかな。これが、ぼくであれば、腕の一本も折られていたでしょう」
 菊地の顔が、かすかに赤黒く染まっていた。
 昨日の屈辱を思い出したのだろう。
「阿久津、菊地には手加減は無用です。おもいきりやりなさい。ただし、ひとつだけです。急所はちゃんとはずすのですよ――」
「やめろ」
 重い声で九十九が言った。
「これは私刑リンチじゃないか」
 ほとんど何事にも動じない九十九の顔が、苦いものをんだようになっていた。
「やめなくていい」
 硬い声でつぶやいたのは、菊地だった。
 すごい眼で、九十九をにらんでいた。
 普通よりも小さい黒眼が、ぎらぎらと憎悪に燃えていた。
「おまえ、おれが殴られるの、見ろ。おまえ、見なくてはいけない。おれが平気なのを、ちゃんと、見ろ――」
 菊地が、ぶつぶつとうなるように言った。
 その言葉が終わらないうちに、阿久津の強烈な前蹴りが菊地の腹にぶち込まれていた。充分に体重の乗った、みごとな一発だった。
 菊地の身体は、数メートルもふっとんでいた。
 阿久津とでは、身体の大きさが違っていた。身長で三〇センチ、体重では五〇キロ以上の差があるだろう。
 素手の戦いの場合、体重ウエイトの差は決定的である。
 菊地は、げえげえと、昼に腹に入れたものを吐き出していた。
 吐きながら、燃える眼で九十九を見ていた。
 暗く青白い陰火のひとみだ。
「どうなってやがるんだ、まったく――」
 九十九が、苦いものを吐き捨てるように言った。
「用事というのはこれだったのか」
「そうだ」
「おれは帰らせてもらうぜ」
 九十九が立ちあがった。
「これで、昨日からのことは全部すんだと、そういうことにさせてもらう」
 きっぱりと久鬼が言った。
「かってにするんだな。おい、大鳳、これ以上こいつらにつきあうことはない。出よう」
 九十九にうながされて、大鳳は立ちあがった。足がもつれた。しびれて半分感覚がなくなっていた。
「無理をするからだ」
 九十九が苦笑する。
 大鳳はほっとした。この巨漢の笑顔には、見る者を安心させる力がある。
「大丈夫です」
 大鳳は、ほっとした気持ちを面に現さないようにしながら、怒っているようにも聞こえる声で言った。足のしびれたことに対する気恥ずかしさが、そうさせたのである。
 背を向けようとした大鳳に、久鬼が声をかけた。
「大鳳くん。よかったら華道部に入りませんか――」
 久鬼の涼しい眼が、大鳳を見ている。
「――」
「まだ入部先を決めてないんでしょう」
「華道部、ですか」
「ぼくが部長をしています」
「でも、ここは――」
 大鳳は、まわりに座っている道着を身につけた男たちを見回した。
「鬼道館の管理は、ぼくにまかされているのです」
 大鳳は、平然とそう言ってのける久鬼に、寒さにも似た驚きを覚えた。
“まかされている”というのは、むろん学園からまかされているという意味であろう。それが、どの程度のことを意味するのかはわからなかったが、この場の雰囲気には、単にまかされているという以上のものがあった。
 久鬼は、この場にいる男たちに対して、絶対的な支配権を持っていた。独裁者のようである。
 体力的に、久鬼に劣ると思われない、阿久津や、柔道、空手、剣道のたちが、すっかり久鬼に心酔しきっている風だった。
 この分では、久鬼が、死ねとひと言言えば、死ぬ人間だっているかもしれない。
「君の活けた花を見てみたい」
 久鬼の眼が、静かに大鳳を見あげている。
「ぼくは――」
 大鳳は、久鬼から視線をそらしてうつむいた。
「どうですか」
「ぼくは、花は好きです。けれど――」
 大鳳は口ごもった。
「どうぞ、言って下さい」
 久鬼が言う。
 大鳳は、どもりながら言葉を探した。
 とまどっているうちに、大鳳の意思に反して、その言葉の方が自然に口からすべり出ていた。
「――けれど、ぼくはあなたを好きになれません」
 言ってしまってから、大鳳はその言葉の意味に気づき、びくっと身体が震えた。
 その言葉を聴いた男たちが息をむ気配が、部屋を打った。阿久津の顔が、すっと青くなった。
 一瞬静まりかえった部屋の中に笑い声が響いた。
 大声ではないが、のどの奥からもれる、くっくっといういかにもおかしそうな笑い声だった。
 九十九だった。
「こいつはいいや。見直したよ、大鳳」
 九十九が、大鳳の肩に手をかけた。
「一本とられましたね」
 と、久鬼が言った。
 見ると、久鬼も口元に笑みを浮かべていた。
「じゃ、行くぜ」
 久鬼に声をかけ、大鳳の肩に手をかけたまま、九十九は歩き出した。


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