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試し読み

何もない商店街。閉鎖的な人間関係。突然暮らすことになった島で葉は、一人の少女と出会う――。【新連載試し読み 千早茜「ひきなみ」】

今注目の著者による、待望の新連載!

10月12日(土)発売の「小説 野性時代」2019年11月号では、千早茜さんの新連載「ひきなみ」がスタート。
その冒頭を公開します!



 特急電車に揺られながら夢をみていた。
 なんの夢だったかはおぼえていない。けれど、確かに夢をみていた。ゆらゆらと揺れながら、目が覚めてしまえばこの夢は消えてしまうと、うっすら思いながら夢の中にいた。
 頭ではなく、からだでみるような夢だった。とろりとした、あたたかい水に浸かっているみたいな心地好い感触を、いまだに肌がおぼえている。
 覚めてしまうのが嫌だった。哀しみの念すら抱きながら浮上するように目覚め、薄目をあけると、自分のものじゃないような涙がこぼれた。
 瞬間、まぶしい、と思った。
 私はシートに一人で、かたわらの窓には海があった。
 びゅんびゅんと過ぎていく景色の中で、空と青緑色の海だけが貼りつけたように動かない。春休みだというのに車内はひと気がなく肌寒かった。
 そっと電車の窓に顔を近づけると、海がぎらっと太陽を反射して、目の奥が痛んだ。ガラス窓から日差しのあたたかさを感じた。
「お母さん、海」
 膝の上に置いた新品の携帯電話に話しかける。にぶい銀色の機械はしんと黙ったままだ。電波をしめす棒は一本と二本の間をいったりきたりしている。アンテナを伸ばしてみても変わらない。赤い電話のマークに親指の腹を押しつける。マッチ箱ほどの画面がぱっと緑色に光って、慌てて電源を切った。朝から何度もくり返した動作だった。一緒に行けない代わりにと母が与えてくれた機械は、なんの安心もくれなかった。
 顔をあげて海に目をこらした。想像していた海と少し違うように思えた。ちょっと考えて、水平線がないからだと気づく。遠くの方にちらほらと陸地が見える。陸地は海よりずっと緑色で、やっぱり動かなかった。
 今度は「島」とつぶやいてみた。でも、自分がこれから向かう島がどれかわからなかった。それどころか、島なのかもよくわからなかった。島も陸も同じに見えた。向こう側に見えるものが違う国だと言われれば信じてしまいそうだった。向こうから見れば、こちらも同じように見えるだろう。海をへだてて、幾人もの自分が見つめ合っている気がした。
 その間もどんどん海は近くなり、窓ガラスの下半分を埋めていった。
 青緑色の海は底が見えなかった。太陽の光をたたえながら、うねるように動いていた。お風呂やプールの水とはまったく違うものだと知った。
 ――あんな穏やかな海はない。
 母の言葉を思いだす。とてもそうは見えない。
 これから私は、母の生まれ育った島で祖父母と暮らさねばならなかった。小学校最後の年を知らない土地で過ごすことになるとは想像もしていなくて、数ヶ月だからと言われても頭がついていかなかった。まっさきに浮かんだのは、クラスで盛りあがっていたノストラダムスの大予言だった。七月に恐怖の大王がやってくるという噂は、私にとってはテレビの話と一緒で信じるか信じないかではなく、仲間はずれにされないために知っているかどうかだけが大事だったのに、すぐに思いだしたのは不思議だった。私は怖がっているふりをして、七月までに、絶対に三ヶ月で迎えにきて、と母にお願いした。まだ子供なのだとアピールしたかったのかもしれない。母は予想通り、困った顔をして笑って、夏までにはと約束してくれた。
 そんなやりとりがずいぶん遠いものに感じられた。自分はいま、どんな顔も作らなくていいのだと思った。そのことに対するうしろめたさも寂しさも、これからの不安も、すべてが遠く、青緑色の海を前にして私の心は奇妙なくらい凪いでいた。
 夢であそこにいた気がした。いや、私はあの海の一部だったのかもしれない。
 喉がきゅっと苦しくなった。感じたことのない気持ちでいっぱいになりながら窓の外を見つめた。海はとぎれることなく続いた。
 それが、初めて一人で海を見た記憶。

   *

 電車を降りると、ホームの端で帽子をかぶったおばあさんがベンチから立ちあがった。がに股で近寄ってくる。祖母に見えるが、違うような気もした。小学校の入学式に来てくれたときに会ったのが最後だった。
 ぎこちなく挨拶をしながら、鼻の下にあったはずの大きな黒子を探すが、深くかぶった帽子のつばが影をつくっていてよく見えない。帽子についた紐が顎に食い込んで窮屈そうだ。
ようちゃん」
 しわがれた声が私の名を呼び、「ようきた、ようきた」と肩から腕を撫でまわされる。「おおきなったのう」「洋子ひろこによう似てきた」と目をしわしわにしている。もじもじしているうちに祖母は私のスポーツバッグを担いで歩きだした。
「洋子が心配しとった」
「え」とポケットから携帯電話をだす。画面には時間しかでていない。
「なんじゃあ」
 祖母はちょっと立ち止まってのぞき込むと「こりゃあ、わしにはいたしいで」とざらざらした声で笑った。「え、なんですか」と聞き返したが、わしわしと歩いていく。言葉がよくわからない。それに、耳も遠いのかもしれない。
 不安な気持ちで後ろについていく。駅前はがらんとして、道路はなんとなく赤茶けていた。信号を渡ると急にひらけて、あちこちに桟橋が見えた。大きなフェリーが泊まっていて、車が吸い込まれていく。
 祖母は桟橋のそばの四角いプレハブの建物に入った。看板は縁がぼろぼろで、字がかすれていて読めない。かろうじて青い船のイラストだけわかる。中はベンチと自動販売機の並ぶ待合所になっていた。
 祖母は私に切符を買い、自分は定期のようなものを見せて、フェリーとは違う桟橋へ向かった。私が立ち止まると、すぐにふり返り「そっちの客船じゃのうて、こっちの高速船じゃ」と大声をあげて手招きしてきた。フェリーに乗りたかったわけではなく、自動販売機で飲み物を買いたかったのだけど、恥ずかしくなって言いだせなかった。
 桟橋は道路よりもっと赤茶けていて、ところどころ濡れていた。あちこちから突きでたずんぐりした杭のようなものは、巻きついた太い鎖ごとペンキをかぶったように錆びていて気味が悪かった。
 桟橋にくっつくようにしてバスくらいの大きさの船があった。船は平らで背が低かった。海面ぎりぎりの客室にもぐり込むようにして人が乗っていく。祖母と変わらないような老人がほとんどだった。船が揺れるたび、きいきいと擦れるような高い音が鳴る。大きな動物が吠えるような音が響いて、フェリーがゆっくりと動きだした。青緑の水がフェリーのまわりで白い波になる。海をすべる光がぎらぎらと目をさす。
「葉ちゃん、どしたの」
 祖母が私をのぞき込んだ。
「……水がいっぱいで、まぶしくて」
 つぶやいて、ぽかんとした祖母の顔で我にかえった。海なんだから水がいっぱいあるのは当たり前だ。かっと顔が熱くなる。
 祖母は口をあけて笑った。
「東京の子は――」
 その後の言葉はうまく聞き取れなかった。けれど、変なことを言う、と笑われたのだとわかった。そういう笑い顔を見たことがあった。祖母の口の中は歯がばらばらで、父がよく飲んでいる胃薬の匂いがした。私は黙って、木の板を踏んで船に乗った。
 船の中はビニールのシートがずらっと並んでいた。空気はぬるくて、甘ったるい匂いがした。祖母が「食べ」とみかんを手渡してくる。見覚えのある小さなみかんだった。冬に段ボールに入ってやってくるたび、赤ちゃんみかん、と呼んで母に剥いてもらっていたみかん。祖父が島で育てていると聞いたことを思いだす。
 船が身震いするように揺れて、桟橋を離れていくのが低い窓から見えた。しばらくして、尻が一瞬浮いた感じがした。スピードがあがったのだとわかった。どっどっどっと揺れる。
「おばあちゃん、どれくらいかかるの?」
 聞くと、祖母は耳に手をあてて顔を近づけてきた。あの胃薬みたいな匂いを嗅いだら気持ちが悪くなりそうだったので、みかんと携帯電話を手に立ちあがった。
 船室の段をあがってドアを開けると、船の後ろがひらけていた。ロープやボールみたいなものが転がっていて、両側に二人がけのベンチのようなものと手すりがある。
 出るなり湿った重い風が吹きつけてきた。船のエンジン音が体に響くほど大きい。揺れで足元がぐにゃぐにゃした。よろめきながら一歩踏みだすと携帯電話が落ちて、拾おうとした拍子にしりもちをついた。短く悲鳴をあげる。
 誰もいないと思っていたのに、ぱっとふり返った人がいた。
 長い黒髪が風に躍っていた。大きすぎる地味な色のウィンドブレーカーに、細い脚。少しもぐらつくことなくやってくると、手を差しだしてきた。目が合った。
 黒い目だった。書道の筆でしゅっと書いたような眉。つかんだ手は冷たかったけれど、私と同じくらいの大きさだった。
 その子はちらっと床を見て「香姫こうひめ」とつぶやき、みかんを拾った。そういえば、そういう名前のみかんだった。風と船の音で声はほとんど聞こえなかったのに、言葉が頭に伝わった。まっすぐこちらを見てくるからだろうか。
 でも、ちっとも笑わない。私の手にみかんをのせると、きびすを返して船の縁に腕をかけた。長い髪がばさばさと流れる。横顔はもう私を見ていなかった。
 彼女の背後に工場群が見えた。クレーンや倉庫が離れていく。鯨みたいに巨大な船もあった。港や桟橋はもう見えない。空がのしかかってくるように大きい。低い雲とぬめる海の間には島があって、小さな森のようだったり、険しい山のように尖っていたりと、いろいろなかたちがあった。船はどるどると音をたてながら、風と海を裂いて走っていく。揺れるたび、細かい水滴が飛んでくる。
 携帯電話をコートのポケットにしまって、女の子から少し離れて並んだ。スカートがふくらみ、おでこが全開になる。全身で重い風を受けていると、自分が海の上を駆けているような気分になった。立ったまま、体ひとつで、こんなスピードを感じたことがない。雲が流れて、太陽がさし、海の色がますます緑に輝く。ちらっと女の子を見る。風にたなびく髪が羽のようだった。目は海面を見つめたまま動かない。海を渡る黒い鳥みたいだと思った。
 なにも話しかけてくれないので、また海を見つめる。
 船が白い水しぶきをたてている。しぶきは風にまかれて細かく散って飛んでいく。その中でなにかがゆらめいた。眉の間にぎゅっと力をこめて目をこらす。
 透明な色の重なりがうっすら見えた。しぶきをまたいで浮かんでいる。「あ」と声がでた。
 女の子がこちらを見た。「にじ!」と私は叫んだ。自分でもびっくりするくらいの大きな声だった。女の子がかすかに目を細める。笑ったのか。船が揺れて視界がぶれた。しぶきの中の虹は消えかけては、またあらわれる。
「すごい」と言うと、女の子はちいさくうなずいて海に身を乗りだした。髪がぶわっと舞いあがる。
 ふたつに結んだ自分の髪もほどきたくなった。お気に入りのヘアゴムを外そうとすると、船が急に曲がった。よろけた私の体を女の子が支えてくれる。
 船はスピードを落とすと、島のひとつに向かっていった。海に低いコンクリートの壁のようなものが突きでている。そこをまわり込み、黄色っぽい土の浜に近づいていく。浜には網を積んだ小さな船や茶色い壺があったが、人はいなかった。
 木の桟橋に船が泊まる。板が渡され、腰の曲がったおじいさんが船から下りていく。祖母が船室からでてきて「なにしよん? 寒いじゃろう」と手をひいた。私の行く島はここではないようだ。
 祖母の手は温かかった。自分の体が冷えていることに気づく。肌も服もべたべたとしていて、手の甲を舐めるとしょっぱかった。
 女の子はいつのまにか船の一番後ろに移動して、私たちに背を向けていた。じっと動かず、ふり返ってくれそうもない。
 音をたてて板が外され、船が動きだした。私は仕方なく、船室に降りると祖母の横に座った。目の裏で、さっき見た小さな虹が光っていた。陽に焼けたのか、頬がかすかにひりひりする。風が頭の中を洗ってしまったようでなにも考えられず、揺られているうちに眠ってしまった。
 どるん、と大きな音がして、まわりの人が立ちあがる気配がした。いつの間にか、船が泊まっていた。祖母にうながされ、立ちあがる。
 船を下りてふり返ると、対岸に木々におおわれた丸い島が見えた。こんもりとした緑の端に、赤い鳥居が立っている。こっちの島とは、車も渡れそうな大きな橋でつながっていた。橋は祖母がくれたみかんと同じ色をしていた。幼稚園の遊具のようなつるりとした橋は、景色からちょっと浮いていた。
 橋の方へ、小さな人影が走っていく。大きすぎる上着で、さっき一緒に虹を見た子だとわかった。目で追っていると、祖母が「桐生きりゅうさんとこの」と言った。
「あっちの島の子?」
「ほうよ」
 心なしか残念に感じた。ちょっとそっけない子だったけれど、友達になれるかもしれなかったのに。
 足が速い。島と島のあいだの橋を、女の子は走っていく。海を見つめていた横顔を思いだす。
「なにしてたのかな」
「わからんね」と祖母は歩きだした。「いなげな子じゃけえ」
 あ、と思った。さっき船に乗る前に祖母に言われた言葉と同じだった。あんまりいい感じはしなかった。母がよく祖母のことを「ホシュテキ」だと文句を言っていた。母は祖母に「いなげな子」と言われて育ったのかもしれない。
 もう暮れる、というようなことを祖母が早口で言った。夜に「ヨリアイ」があるらしく急いでいるようだった。
 海を見ると、さきほどまでのまぶしさがなくなっていた。乗ってきた船は桟橋になく、遠くで掌くらいの大きさになっている。向かいの島は黒々とした重い緑色に変わりはじめ、もう橋に女の子の姿はなかった。

▶このつづきは小説 野性時代 2019年11月号でお楽しみください!


小説 野性時代 第192号 2019年11月号

小説 野性時代 第192号 2019年11月号


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