元「ベイビーレイズJAPAN」の渡邊璃生さん初の小説集『愛の言い換え』が5月2日に発売。その中から選りすぐりの傑作書き下ろし3篇を30日間連続で全文特別公開します。
>>前話を読む
◆ ◆ ◆
暗闇の中で、聞き慣れた声が自身の名を呼ぶ。何度も、何度も。新は応えるように、ゆっくりとソファーの上で意識を取り戻した。それに気づいたらしい蒼介が、安堵のため息を漏らす。
「あ、新ちゃん……! よかった〜……っ。」
「……蒼介?」
「新ちゃん、玄関で倒れてたんだよ。大丈夫?」
「……え? でも俺……、いって!」
新は反射的に耳を手で覆った。鋭い痛みは耳を通り抜け脳を刺す。そのせいか、玄関前で見たはずの「なにか」を思い出せない。
「どうしたの?」
「いや、耳が痛くて……。俺、玄関でなにか見たと、思うんだけど……。」
「新ちゃん。」
言い聞かせるように、蒼介は新の目を真っ直ぐ見た。
「疲れてたんだよ。だから変な夢を見たんだよ。」
「……夢?」
「耳は気圧の変化かなにかじゃない? 台風来てるし。」
「……そっか、」
その言葉で、新は思い出した。しかしそれは玄関前の出来事ではなく、少し前に交わした蒼介との会話だった。
「そうだ、台風じゃん。避難の準備するんだった。蒼介、手伝え。」
体を起こす新に、蒼介は「もう少し寝てたら?」と不安げな表情で口にした。
「馬鹿、そんなことしてるうちに警報出たらどうすんだよ。」
「……うん、そうだね。」
新はふたり分のリュックを、蒼介は水や食料をキッチンからリビングに集めた。しかし量は心許なく、避難生活を送れるほどではないだろう。テレビ台から見つけた懐中電灯は予備の電池が二本しかなく、停電に備えられる気がしない。
「急だったからろくなもんがないな。あーあ、こういうのちゃんと準備しとけばよかった。」
「はい、大きいタオルね。」
「ん、さんきゅ。」
リビングに戻った蒼介から受け取るが、彼は手に込めた力を抜かない。新が彼の顔を見ると、視線がぶつかった。
「……なに?」
「……新ちゃん。」
「? ……なんだよ、はっきりしろよ。」
「……僕が、」
彼はうっすらと口を開いた。
「僕が死んだらどうする?」
蒼介が死んだら。
考えたこともなかった。
だが、考えたところでなんだと言うのだろうか。それに、生死に関わる状況に陥った今、そのようなたとえ話は不安しか生まないではないか。
「……なんだよ、こんなときに縁起でもない。悪いけどそんな場合じゃ……。」
言葉を遮るように、スマートフォンから警報が鳴り響く。ロックを解除すると、避難区域に銀星街が含まれていることを知った。避難場所は「柳原小学校」。自宅から徒歩で十分ほどの場所だった。
「ヤバ。行くぞ、蒼介。」
「う、うん。」
蒼介からタオルを受け取り、他の荷物と共にリュックに詰めると、彼の手を引いて外に出た。一歩出ればそこは横殴りの雨。アパートの雨どいからは水が滝のように流れている。
「やっぱ傘は無理だな。走るぞ。」
彼らの家に雨がっぱなどは用意されていなかった。頭にバスタオルを被り、防水ケースに入れたスマートフォンの地図アプリを見ながら走る。周囲は白み、見知った道でもGPSがなければ確実に迷っていただろう。
(つづく)
▼渡邊璃生『愛の言い換え』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/321904000345/