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試し読み

【試し読み】佐藤正午『5』

佐藤正午さんが『月の満ち欠け』で第157回直木賞を受賞されました。
直木賞受賞を記念しまして、カドブンでは佐藤正午さんの角川文庫作品の試し読みを3週連続で公開いたします。
本日8月22日(火)は『5』を公開いたします。
この機会に「新感覚の大人の恋愛小説」をぜひお楽しみください。

 第一章 奇跡のはじまり

 彼は成田空港の出発ロビーでその女をはじめて見た。
 一昨年の秋、十月第一週の火曜日のことだ。
 正確に言えばセキュリティチェックを受ける前にいちど、彼は若い女たちのグループに目をとめている。そしていちどそのことを忘れさり、出国審査を終えたあとで、あらためて、そこに同じグループがいることに気づいて目を向けた。成田空港第2ターミナル、本館3階、B73搭乗ゲート前。
 そのときふたりのあいだには十メートルほどの距離があった。彼女は若い女たちの輪にまじり、彼は喫煙所のテーブルのそばにひとりで立っていた。
 彼らはともに午前十一時発の便の乗客だった。出発は定刻よりやや遅れる模様だったが、時刻は十時半をまわっている。搭乗開始はまもなくである。アナウンスを待ちかねて搭乗ゲートの前にすでに並んでいる旅行者もいる。そちらへ目をやるふりをして、彼はときおり見え隠れする女の横顔を眺めていた。
 そのうちに女が仲間の輪から外へ出て、うつむいて、肩かけの鞄の中をさぐり、手帳のようなものをめくり始めた。彼が油断して見守っていると女はふいに顔をあげた。
 十メートルほどの距離を置いてその女はまっすぐ彼を見た。
 最初はちらっと見て、すぐに搭乗ゲートのほうを振り返り、また向き直って化粧室の入口を見やり、隣の売店を経由して、喫煙所の彼のところまで視線を戻した。ふたりは都合二回、顔を見合わせたことになる。二回目は二秒か三秒の時間が流れた。目と目を合わせるには長い時間だろう。ところが不思議なことに、彼は女の目が自分を見ているのかどうか確信が持てなかった。二秒か三秒ののち、女は表情ひとつ変えず手帳に目を落とした。
 彼はかすかに眉をひそめ、左手に持っていたタバコを消しながらこう思った。あの女は俺の顔ではなくこの手、またはタバコをじっと見ていたのかもしれない。立ちのぼる煙を目で追っていただけなのかもしれない。
 見おぼえのある顔ではなかった。人目をひく女でもなかった。つまり目をみはるほど美しくもなく、その反対でもない。この女と寝たい、と彼が強く願う対象からもはずれていた。顔だちにも、服装にも、背の高さにも、特に目立った点はなかった。第一印象で記憶にとどめるべき特徴はひとつもなかった。地味、というよりも、普通、という言葉のほうがふさわしかったが、ただ彼女のそばに立っている女たちの様子があまりにも華やかなので、その一団の中では群を抜いて地味にうつった。
 最初から言えば、搭乗案内を待っている乗客のうち、まず華やかな女たちのグループが彼の目をひき、次に、グループのなかできわだって地味であることで、その女は彼の目をひいた。そういう順番になる。小さな円陣を組んで立っている女たちは、顔だちから見ても、服装から見ても、背の高さから見ても、雑誌やテレビで仕事をしているモデルに違いなかった。雑誌のグラビアかCMの撮影だな、と彼は見当をつけた。そう思って見渡すと、B73ゲート前にはいかにもその業界の人間だという雰囲気の男女が多数目についた。
 彼はもういちど地味な女に注意を向け、足もとまで視線を下げた。ジーンズに底のぺたっとした白い靴を履いている。そのせいなのか、まわりの女たちの身長を一七五センチ平均とすると、彼女はそれより十センチは低く見える。髪は短めだが、ショートヘアだともそうでないとも主張しきれない曖昧な短さで、漆黒だった。モデルたちのマネージャーという立場なのだろうか。でも一六五センチの身長は決して低いとは言えないだろう。あるいは彼女自身もモデルなのかもしれない。Tシャツにデニムのジャケットをはおるというごくありふれた恰好ではあるけれど、ごくありふれた服を着こなしてみせるモデルもなかには必要なのかもしれない。そのとき、視線の上げ下げをしている途中で、彼は女が両手に手袋をはめていることに気づいた。
「きれいな人たちね」と中真智子が言った。
 中真智子というのは彼の妻の名前である。女の手もとに注目しているあいだに化粧室から戻って来たのだ。
 このとき彼は返事をしなかった。第一に、自分はいまきれいな人たちのそばにいる地味な女を見ていただけで、きれいな人たちをまとめて眺めていたわけではない。第二に、きれいな人たちね、という妻の発言に特別の意味はない。そうだね、とだけでも答えることを期待されているのかもしれないが、答えたところで、意味のない発言に意味のない発言を重ねるだけだ。
 意味のない発言のやりとりにこそ意味のあった時代は、はるか昔に過ぎ去っていた。それはぎりぎり新婚時代までの話で、いまはもう八年目に入っている。
 中真智子のほうは、日ごろから夫の無口には慣れていたので、別に何とも思わなかった。返事を強いるようなまねはもちろんしない。中真智子に言わせれば、夫の無口に慣れるということは、独りごとを言う自分に慣れることと同じだった。
 搭乗案内がアナウンスされた。
 ゲート前の乗客の列はもう十分に長くなっている。手袋? と彼はそちらへ歩き出しながら思った。どうしてあの女は手袋なんかはめているのだろう? 中真智子がバッグの中から二人分の搭乗券を取り出してそのあとを追う。
 定刻より十分遅れて、午前十一時十分に成田を発つ便の行先はインドネシアのバリ島だった。

 午後五時半にデンパサール空港に着いた。
 そこで彼は再びその女を、今度はまぢかで見ることになった。
 機内では客室が別だったので顔を合わせるチャンスはなかったし、時差を計算に入れれば七時間にもわたるフライトのあいだに、彼はほとんど地味な女のことなど忘れかけていた。
 中夫婦の客室はビジネスクラスで、そこにモデルたちと撮影隊の姿はなかった。ひょっとしたら撮影隊の関係者かもしれないと想像されるスーツ姿の男たちがちらほら見えるくらいだった。ちなみに言えば、夫婦ふたり分のチケットは中真智子の姉からの贈り物だった。もっと細かいことを言えば、中真智子の姉はその旅行クーポンを懸賞で手に入れた。お中元に届いたマンゴージュースを飲んで、紙パックに付いている応募シールを三枚だか五枚だか葉書に貼って、あんたたちの名前を書いて送ったら当たってしまったの、ということだった。それを妹夫婦への、電気器具婚式の御祝いにしたのである。で、この日のビジネスクラスにはもう二組、懸賞に当たった夫婦が乗っていた。そのうちの同年代の夫婦のほうと、中真智子はすぐに打ち解けて話した。もう一組は、あと何年かで金婚式を迎えるといった感じの年配の夫婦である。義姉に教えられるまで彼は知らなかったのだが、電気器具婚式というのは、結婚八年目の記念の呼び名のことだった。一般に結婚五十年目は金婚式、二十五年目は銀婚式、そして八年目は電気器具婚式と呼ばれる。
 彼は疲れていた。もともと自分から望んだ旅行ではなかったので、南の島の空港に着いても浮き立つ気分からはほど遠かった。とにかく早いとこホテルにたどり着いて、晩飯を食い、それから風呂に入って眠りたかった。彼にとってこの旅行は、気が乗らないという点では義務的に参加する社員旅行と変わらなかった。バリ島だろうが伊香保温泉だろうが気分は同じだった。
 一方、中真智子は自分の夫を理解していたので、打ち解けた同世代の夫婦を飛行機を降りたあとのおもな会話の相手に選んだ。イミグレーションを通過してもまだ喋り続けていた。妻どうし、バリでのショッピングや、食事や、マリンスポーツや、ホテル内とホテル外にあるスパ施設についての情報が交換されている模様だった。夫がときどきその話題に割って入る。彼は三人の話を聞き流して、ターンテーブルの前に立ち、機内預けの荷物が出てくるのを待った。左隣には年配の夫婦がいて、彼はふたりと目で軽い挨拶をかわした。右側には残りの三人が立っていた。喋り声が聞こえるのでそのはずだった。
 ターンテーブルに載った荷物が左手から流れてきた。幾つかの旅行鞄が通り過ぎたあとで、左隣の婦人が、あっ、と短い声をあげた。自分の荷物を取りそこねたのだろう。焦茶色の革のボストンが目の前を流れているので彼はそう判断し、とっさに、その持ち手をつかもうとした。そして右へ流れ去る直前に利き手でそれをつかむことに成功した。
 だがそのとき彼がつかんだのは鞄の持ち手だけではなかった。彼の左手は誰か別の人間の手も同時につかんでいた。若い女の右手、手袋をはめた右手である。顔を見合わせる暇もなく、ふたりの手によってターンテーブルから持ちあげられた鞄が床に降ろされた。降ろされたというよりも落とされたといったほうが正確かもしれない。途中で彼の左手が、次に女の右手も鞄からはなれたからだ。床に落ちた鞄が横倒しになった。焦茶色の革のボストンと見えたのはショルダーベルト付きの鞄だった。このとき彼は左のてのひらに摩擦でおきたような熱を感じている。気にして開いてみたところ別にこすれた跡はなかった。
 機内でデニムのジャケットは脱いだらしく女は半袖のTシャツ姿だった。ただ手袋はあいかわらず両手にはめている。Tシャツに手袋。もちろん防寒用ではないのだろう。薄手のベージュの手袋だった。ベージュというよりも濃いめのパンティストッキングを連想させるような色合いのものだった。
 何事もなかったように女が鞄を拾いあげた。ベルトを肩にかけ、痩せぎみの身体をひと揺すりしてみせた。細い肩にかけるにしてはベルトの幅の広い重たげなバッグである。反対側の肩にはもうひとつ、成田で見た小型のバッグを提げている。年配の夫婦のほうへ目をやると、キャスター付きのスーツケースを転がして出口のほうへ向かうところだ。彼は自分のまちがいを認め、女と顔を見合わせた。謝らなければならない。そのとき正面から向かい合って初めて、女の顔がほのかに赤らんでいることに気づいた。
「ごめんなさい」と女が先に謝る必要のないことを謝った。「これはあたしの鞄です」
「ええ。こちらこそ、失礼しました」と彼は言い、うつむいて、また左のてのひらを気にした。「ちょっと勘違いをして」
 顔をあげると、女が正面から彼の目をとらえ、いちどまばたきをした。彼が儀礼的な笑顔をみせると女は額のあたりに視線を据えてもういちどまばたきをした。彼が眉をひそめると三たびまばたきをした。それが終わると彼の左手に視線を固定して四度目のまばたきをした。四度ともゆっくり、実にゆっくり念を入れたまばたきだった。記憶されている。俺は彼女の目で撮影されている、彼女の目が閉じて開くたびにシャッターが切れる、そんな錯覚をこのとき彼はおぼえている。
 連れの誰かが女の名前を呼んだ。あの背の高い女たちのうちの誰かが、エリ、または、ユリ、と呼びかけたように聞こえた。「り」という音だけ明瞭に聞き取れたのでどちらとも区別はつかなかった。彼女は声のしたほうを振り返り、うなずいて見せた。それから彼のそばを離れる前にひかえめな笑顔をつくるとこう言った。
「じゃあ、また」
「ねえ、どうしたの」
 と別の声が訊ね、気がつくと、キャスター付きのスーツケースを二つ手にした中真智子が後ろに立っていた。
「どうもしないよ」と彼は大きいほうのスーツケースを受け取って答えた。
「きれいな人たちね」
「そうだね。でも手袋をした女がいる」
「え?」
「どうしてこの暑いのに手袋なんかしてるんだろう」
「日に焼けないためよ」中真智子が少し考えて答えた。「きっとUVカットの手袋よ。普段から気をつけてるのよ、ああいう人たちは」
 しかしバリはすでに夕暮れを迎えている。ターミナルの外に出てみると、紫外線など気にする必要のないことは一目瞭然だった。
 懸賞に当たった三組の夫婦を現地の中年女性ガイドが待ち受けていて、駐車場のくたびれたワゴン車まで案内した。それに全員で乗って二十分か三十分走るのだという。目的地はバリ島南部、ヌサドゥアという地区にある航空会社系列のリゾートホテルである。もちろん彼を除く全員がそのことを承知していた。承知していたので、日本語の堪能なガイドに対する五人の細かい質問は的を射ていた。おかげで道中は(日本語を解さない運転手もまじえて)おおいに会話がはずんだ。

 ひょっとしたら、と彼は暮れてゆく車窓の風景を見ながら思った。あの女には手袋をする理由がほかにあるのかもしれない。
 だいいち日に焼けないためというのなら半袖のTシャツ姿になったりはしないだろう。手そのものを他人に見せたくない、個人的な理由が何かあるのかもしれない。たとえば傷や、あざ。変形した指のかたちを隠すため。あるいは彼女の手は無傷で、無傷だとすれば無傷だからこその問題を抱えているのかもしれない。いかにも女らしい白い華奢な手をしていて、その手に男の視線が集まるのを嫌がっているのかもしれない。つまり女性一般の羞恥心が手袋をする理由の核心なのかもしれない。女性一般の羞恥心などというものがあると仮定して。自分の脚をじかに人目にさらしたくなければ、ジーンズやパンストを穿いて隠すしかない。同じようになまの手を見せたくないから人前では手袋をする、そんな理由かもしれない。そんな奥ゆかしい理由がこの世に存在するとして。
 窮屈な車内での、にぎやかで友好的で退屈な会話は途切れることがない。ホテルに着くまでのあいだ、彼は「羞恥心」という思いつきの言葉をキーワードにして、中真智子と名前も知らない手袋の女とを比較せざるを得なかった。彼に言わせれば、前者にまったく欠けているものは家庭内での夫に対する羞恥心だった。中真智子はなまの手どころか風呂あがりのなまの身体を平気で彼の目にさらした。もちろん手袋などしないし、パンストも穿かないし家ではブラジャーもろくに身につけない。恥ずかしいから隠すという身ぶりがいっさいない。それがないから夫婦関係が、義姉の口癖である夫婦関係がもはや成立しないのだと彼は考えた。義姉は彼の顔を見るたびに、夫婦関係を大切に、と言う。もっと真智子に優しく、とも言う。要するにふたりでSEXして子供を作りなさいという意味をこめて責めるのだが、すっぴんの腫れぼったい瞼、尻がよれよれになったスエットパンツ姿、マニキュアのはげた爪、洗濯機の中の汚れた下着、食後のげっぷ、膝を立てて寝る癖、それらを恥ずかしがらない女と暮らしながら優しくするきっかけを作れというほうが無理だ。
 これからホテルで迎える夜のことを思うと彼は気が重くなった。実はゆうべ寝る前にも、その朝大森の家を出るときにも、成田でも、デンパサール行きの機内でも、ヌサドゥアのホテルへ向かうワゴン車の中でもずっとそのことを気に病んでいた。あたり前だがその日の中真智子はすっぴんのスエット姿ではなかった。旅行用に買い揃えたノースリーブのワンピースの肩に、しおらしくケープをはおっていた。マニキュアも入念に塗られていた。おそらく今夜、妻はSEXを期待しているだろう。義姉も大森の自宅でふたりのSEXを期待し想像しているだろう。そのために旅行クーポンを贈ったのだから。でもいまさらなのだ。
 いちど女が羞恥心を手放すともう取り返しはつかないのだ。たとえいまここで、このぎゅうぎゅう詰めの車内で妻がケープを取り去りむきだしの肩を見せたとしても、それは毎日見慣れているむきだしの肩にすぎない。ケープだろうが、ショールだろうが、いまさらどこをどう隠しても遅い。
 でもあの女の手はそれとは違う。
 車がホテルに到着したとき、彼は手袋で隠された女の手のことを前より真剣に考えていた。彼女の手には人に見られたくない傷やあざがあるのだろうか。それとも素手を他人の目にさらしたくないという奥ゆかしい理由から隠しているのだろうか。いずれにしても、彼は女の手に対する強い好奇心をおぼえた。それはいくらか性的な意味合いを含んだ好奇心でもあった。だがいずれにしても、考えるだけ無駄のようだった。
 手袋をはめる理由が何であっても、今後、それを知る機会は得られないだろう。「じゃあ、また」と彼女は言った。言ったように聞こえた。でもあれは単に、よその国の空港ですれ違った日本人どうしの挨拶の言葉だ。自分はいまヌサドゥアとかいう見知らぬ土地に立っている。彼女は彼女でまた別の、写真やCM撮りにふさわしい場所へ向かっているはずだ。バリ島は広い。たぶん二度と会うことはないだろう。五泊六日の懸賞旅行の日程と、CM撮影のスケジュールとがぴったり重なるわけはないし、帰国の便がまた偶然同じになることなどあり得ないだろう。
 確かにその通りだった。
 この日、彼と彼女はバリ島の玄関口、デンパサールでいったん別れ別れになった。これが逆向きの旅行であれば、つまりふたりが成田で別れ別れになったのなら、もう二度と会うことはなかったかもしれない。東京は広い。でもバリは、特に日本人観光客むけのバリは、それほど広くない。

(このつづきは、本編でお楽しみ下さい)
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