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試し読み

【新連載試し読み】額賀澪『イシイカナコが笑うなら』

現在配信中の「文芸カドカワ」2018年4月号では、額賀澪さんの新連載『イシイカナコが笑うなら』がスタート!
カドブンではこの新連載の試し読みを公開いたします。

県立星ノ谷高校には、自殺した女子生徒の幽霊が出る。教師として母校に帰ってきた菅野は、屋上から転落する元・同級生の姿を再び目撃し――。

 ガラス破片を擦り合わせるような耳障りな音に、顔を(しか)めた。耳の奥をうごめく不快感に、そうか、帰りのホームルームだったんだ、と我に返った。
 ぎりぎりと椅子の脚で床を擦りながら立ち上がった四十人の高校生が、こちらを見ている。教卓に頰杖を突いていた俺は、慌てて背筋を伸ばした。
 男子は特徴のない真っ黒な詰め襟。女子は最近では珍しい部類になってしまった古風なセーラー服。二年生ともなれば若干着崩している奴や、毛先をちょっと遊ばせていたり、ちょっとパーマをかけていたりする奴もいるけれど、勇んで注意する気にもならなかった。前任校に比べれば可愛いものだ。
 帰りのホームルームなんて、心のスイッチを切っても問題なく進められる。できるようになったのはいつ頃からだろう。三十になった頃は、もう普通にやっていた気がする。勝手に口が動いて、明日の予定を生徒達に伝えたり、適当な世間話ができるくらいに。九年も先生をやっていれば、頭を使わなくても《担任の先生》ができる。
「気をつけ、礼」
 今日のロングホームルームで学級委員になった女子生徒、榎本千歌(えのもとちか)が号令をかける。四十人の生徒達が一斉に俺につむじを見せてお辞儀する。「さよーならー」という、怠そうな、ちょっとべたついた声で挨拶をした。
 ああ、終わった終わった。今日も終わった。このあと職員室に戻っても仕事が山積みなのだけれど、それでも、生徒を相手にする最も《先生らしい時間》は終わった。
「はい、さようなら。気をつけて帰って」
 首をほんのちょっと(かし)げて、口角を上げて、笑う。別に生徒達はほとんどこちらの表情なんて見ていないけれど、それでも一応。部活、予備校、帰宅、遊び。それぞれの目的に向かって鞄を手に教室を出ていく生徒達。近くを通った生徒に適当に「部活頑張って」とか「予備校頑張って」と声をかけた。
菅野(かんの)せんせー、今日の日誌です」
 日直の女子生徒が日誌を持ってやってくる。「お疲れさん」とにこやかに言って受け取り、頭の中で彼女の顔と名前を一致させる。まだ担任になって二日。四月一日に県立星ノ谷(ほしのや)高校に赴任して、十日もたっていない。これから数週間掛けて、生徒の顔と名前をパズルのように覚えていかないといけない。
「ねえ、菅野せんせーって星高(ほしこう)のOBなんでしょ?」
 こちらはお前の名前もまだ覚えていないというのに、ため口を利いてくる。女子高生はどこの学校でもそうだ。図々しくていつでも自分が世界の中心で……地上最強の生き物だ。
「そうだけど」
 昨日、新しい担任として、他校から赴任してきた新顔として、そう自己紹介をした。
「何年卒業?」
「二〇〇五年の三月だけど」
「やっぱりそうなんだ」
 ねえ、やっぱり菅野せんせー、二〇〇五年卒だって。
 何故か、日直の――飯岡愛海(いいおかまなみ)はやけに楽しそうな様子でそう言って、教室の後方から友人を呼び寄せた。高校生の担任なんて四六時中自分のクラスにいるわけではないけれど、それでも何となく存在感のある生徒達のグループは自然と目につく。たった二日でも、充分なくらいに。
 二人、三人と飯岡の友人が教卓に集まってくる。やや遅れて、学級委員の榎本もとことことやってきた。
「じゃあ、菅野せんせー、イシイカナコと同級生だったの?」
 飯岡が、教卓に身を乗り出すようにして聞いてくる。
 イシイカナコ。
 あまりに懐かしくて、苦々しい名前に、息が詰まった。ううっ、と何かがひねり潰されたような声が、喉の奥から絞り出される。
 違うとか、知らないとか、そう言えてしまえば楽なのに。でも、飯岡達はそれを許さない気がした。俺にわざわざ卒業年を聞いてきたということは、それなりに確信があったのだろうし。きっと、言い逃れはできない。何より、女子高生数人を相手に、三十一歳の男に勝ち目があるわけないのだ。彼女達は、地上最強の生き物なのだから。
「同級生、だったけど……」
 俺が言い終えるより先に、飯岡達は互いの顔を見合って「やっぱりぃ」と歓声にも似た声を上げた。その中で一人冷静な榎本だけが、じっと俺の顔を見ていた。
 無性に、その視線から逃れたい気分だった。
「どうして、石井さんのことを知ってるんだ」
 これが他の同級生だったら、聞かずに済んだものを。石井だけは、石井加奈子だけは駄目だ。俺と彼女の間にある因縁というか、確執というか、繫がりというか、それはあまりにも深すぎて、こちらの意志で絶つことができない。
「菅野せんせー、知らないの? 星高に、十三年前に自殺した女の子の幽霊が出るって」
 校舎を徘徊してるって。一人で屋上に行くと突き落とされるって。三年の受験の日に悪いことを起こすんだって。
 飯岡に続くように、次々とそんな怪談話が彼女達の口から飛び出してくる。
 十三年前に自殺した女子生徒――イシイカナコの幽霊の話が。
「そりゃあ、異動してきたばかりだからな」
「でも、星高生の間じゃ、もう何年も前から有名な話なんだよ、校舎を徘徊するイシイカナコって」
「それ、見た奴いるのかよ」
 思わずそう聞いてしまって、しまったと思った。飯岡達の口からは、マシンガンのように「バレー部の先輩が部活帰りに~」「お姉ちゃんが三年のときに~」「何年か前の修学旅行で~」と本当か噓かもわからない目撃談が飛び出す。三人の後ろで榎本が困った顔で笑っていたから、(たま)らず苦笑いを返した。
「怪談は結構だけど、俺、石井さんとはクラスも違ったし、仲良くもなかったから。面白い話は全然してやれないぞ」
 不満そうな飯岡達に、「はい、じゃあ話はこれでおしまい」「また明日」と言って、教室を出た。何だか逃げ出すようだった。これで「菅野せんせーは怖い話が苦手」と言われる分には、別に構わないのだが。
 でも。
「校舎を徘徊する幽霊ね」
 飯岡達に付き合っている間に、廊下は静かになっていた。教室には(まば)らに生徒が残っているようだけれど、ほとんどは部活なり予備校に行くなり、帰宅するなりしてしまったようだ。その静けさにぽろりとこぼした独り言は、酷く大きく聞こえた。
 俺が受け持つ二年五組の教室は四階建ての校舎の三階にある。一階にある職員室まで階段を下りようとして、何故か足が二階にある三年生の教室に向いた。
 十三年前、自分が高校三年生だった頃に使っていた、三年一組の教室へと。
 三年一組には、担任も生徒も誰一人残っていなかった。ゆっくり戸を開けて、中に入る。昔と比べて何が大きく変わった、ということもなかった。掲示物や机の数がちょっと変わっただけで、あとはすべて、俺が高三のときと変わっていない。
 教室を横切り、ベランダのドアの鍵を開ける。どうしようかと思ったけれど、思い切って外に出てみた。
 夕風を頰で受けながら、記憶を頼りにある場所へ立つ。立ってみて、ああ、忘れるわけがないんだと思った。ベランダのその位置から見える景色は、何一つ変わっていないのだから。首都圏とはいえ、しがない地方都市が十三年ほどで大きく姿を変えるわけがない。
 十三年前。二〇〇五年の一月。センター試験二日目の翌日。この、県立星ノ谷高校の屋上から、一人の女子生徒が飛び降り自殺をした。
 その子の名前は、石井加奈子という。
 三年一組、出席番号は、確か二番。大学受験を控えた高三のおよそ一年間を、俺は彼女とこの教室で過ごした。
 彼女が自ら命を絶ったその日、俺は今と同じ場所で外を眺めていた。センター試験で思った通りの点数を叩き出して、これで第一志望の国立大学の二次試験に問題なく進める。二次試験も何も不安はない。そう、この場所でほくそ笑んでいた。
 そんな俺の目の前を、彼女は落ちていった。手を伸ばせば届きそうな距離を、真っ逆さまに。目が合ったのをよく覚えている。あのとき、俺はどんな顔をしていたのだろう。
 彼女は、俺を見てちょっと驚いたような顔をしていた。そんな気がする。死ぬ直前に見たのが俺の顔だったなんて、何だか申し訳なかった。
「……可哀想にな」
 自殺から十三年もたって、後輩達に怪談話として面白おかしく語られているなんて。
「センター試験で失敗したくらいで、何も死ななくてもよかったのに」
 センター試験を上手いことパスして、第一志望の大学に合格して、いい成績を取って卒業して、昔からの目標だった教師になっても、俺はこんなだぞ。教師歴は今年で十年目。三十一歳。積み重ねてきた習慣を体や脳にすり込んで、心のスイッチを切って自動運転で帰りのホームルームをやるような先生だぞ。
 それでもこうやって生きているんだから、別に、十八歳で死ぬこともなかったろうに。
『本当にね』
 背後から聞こえた声に、咄嗟に振り返った。教室に誰かいるのかと思った。誰もいなかった。ベランダにも誰もいない。下を覗いてみても、通りがかる人はいない。
 女の子の声だった。多分、女子生徒の。何だか聞き覚えがあった。誰のものなのかと考えて、やめた。そんなわけがない。
 石井加奈子の声が、するわけがない。
 こめかみに拳をぐりぐりと押しつけ、頭を左右に振る。石井加奈子の名前を久々に聞いたせいだ。こんなところに来たせいだ。くそ、あの小娘ども。
 しかし、星高への異動辞令が出たときはどうしようかと思ったが、担任を受け持つのが三年一組でなくて、本当によかった。
 星高に戻るのでさえうんざりするのに、自分がかつて生活していた三年一組なんて、絶対にごめんだ。二度と戻ることが許されないから、だから、自分から遠ざけていたい。
 足下に置いていた荷物入れ用のカゴを手に取る。大きく深呼吸を一度して、職員室へ戻ることにする。教師の仕事は、生徒が帰ってからも続く。定時など存在せず、当然残業代なんてものもまともに出ず。有り余る愛を子供達へ注いで見返りもゆとりある生活も健康も充分な睡眠時間も給料も求めない。ただ《先生》という神聖な職業を完遂することだけが求められる。そういうことを考える時点で、俺はとことん、教師という職業には向いていないわけだ。
 そんな現実を深呼吸で胸の奥に封じ込めて、ゆっくりと目を開ける。
 ――そのときだった。
 頭上から、まるで空が落ちてくるみたいな圧を感じた。耳元で蜂の羽ばたきのような、ブーンという低い音がする。黒い影が、自分に向かって降ってくる。俺はそれを知っていた。どれもこれも、十三年前に見た。
 目の前を、一人の女子生徒が、落ちていった。
 古風な紺色のセーラー服。青いスカーフがはためいて、スカートが揺れる。
 そうだ、あの日の石井も、こうだった。
 違うのは、彼女が笑っていたことだった。まるで俺に決闘でも挑むみたいに、唇の端を吊り上げて笑っていた。
「石井っ……」
 手を伸ばした。二度と戻れない高三の一月のあの日に、俺はずっと戻りたかったのだろうか。石井加奈子を助けたかったのだろうか。
 そんなこと、わかるはずがなかった。ただ目の前を落ちていく二度目の石井加奈子に向かって、全力で、右手を伸ばしていた。
 体がふわりと浮いた。石井加奈子に、俺の手は届かない。
 それどころか、俺の体は、彼女と一緒に地面に向かって落ちていく。

 
 
(このつづきは、「文芸カドカワ」2018年4月号でお楽しみいただけます。)
 
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