島本理生さんが『 ファースト・ラヴ 』で 第159回直木賞を受賞されました。
これを記念しまして、カドブンでは島本さんの代表作『ナラタージュ』(角川文庫)の試し読みを3日間連続で公開します。
この機会に、島本史上もっとも切ない恋愛小説をお楽しみください。
まだ少し風の冷たい春の夜、仕事の後で合鍵と巻き尺をジャケットに入れ、もうじき結婚する男性と一緒に新居を見に行った。
マンションまでの道は長い川がずっと続いている。川べりの道を二人で並んで歩いた。
流れていく水面に落ちた月明かりは真っ白に輝く糸のようにどこまでも伸びていて、水の行く先を映していた。
靴の先で細かな砂利を蹴りながら、真っ正面から風の吹き抜けてくる、広々とした暗闇の先に目を向けていた。時折、漏れる会話は他愛ないものばかりだった。私たちは仲が良かった。
「ずっと、川のそばに住みたかったの」
私がそう漏らすと、彼は軽く相槌を打った。
「水辺の近くが好きなんだって、たしか前にも聞いたよ」
「水の上にはなにもないから。視界が広くて良いでしょう。高校生のときには近くの川沿いの道が好きで、よく歩いた」
そのとき、彼が私に訊いた。
「君は今でも俺と一緒にいるときに、あの人のことを思い出しているのか」
以前からずっと用意していたのをようやく棚の奥からそっと出してきたような尋ね方だった。
「そんなふうに見える?」
「見えるよ。君に彼の話を聞いた夜から、俺は君を見ていてずっと思っていた」
「それならどうして私と結婚しようと思ったの」
足元でまだ生まれたばかりの雑草がかさかさと揺れている。ふと立ち止まって、風の吹くほうに導かれたように川のほうを見た。水の中から立ち上がってくる匂いは、胃の奥まで突っつかれるような死んで腐った生き物に似た気配を抱いている。軽く息を止めながら顔を上げると、川に切り分けられた遠い対岸では巨大な高速道路の上を、ゆっくりと右から左にテールライトの群れが移動していく。視界が広すぎて、時間の感覚が曖昧になる。過去と未来が混ざる。広い川べりでは記憶がほんの数秒前の現実のように思い起こされる。
じっと立ちすくむように川を見ていると、ふいに、となりで黙っていた彼が口を開いた。
「きっと君は、この先、誰と一緒にいてもその人のことを思い出すだろう。だったら、君といるのが自分でもいいと思ったんだ」
今でも呼吸するように思い出す。季節が変わるたび、一緒に歩いた風景や空気を、すれ違う男性に似た面影を探している。それは未練とは少し違う、むしろ穏やかに彼を遠ざけているための作業だ。記憶の中に留め、それを過去だと意識することで現実から切り離している。
正直なところ、そうでもしないと私は今でも彼に触れた夜を昨日のことのように感じてしまうのだ。
だけど実際は二人がまた顔を合わせることはおそらく一生ないだろう。私と彼の人生は完全に分かれ、ふたたび交差する可能性はおそらくゼロに近い。
大学一年の冬、年が明けてすぐの頃に父の海外転勤が決まった。
父は大学時代にドイツに留学していたこともあり、その経験が買われてベルリンの支社へ転勤の話が出たのだ。
夕食の後でお茶を飲みながら、母は私にそのことを告げた。
「私はお父さんについていこうと思って。あの人、仕事はよくても生活のことなんて、一人だったらなにもできないでしょう」
「いいけど、私は一緒には行けないよ。大学もまだ三年間あるし、ドイツ語なんてさっぱり分からないし」
私は濡れたティーカップの縁を親指で拭いながら答えた。
「だけど、あんた、子供の頃に一度ウィーンに行ったことがあったじゃない。滞在してたホテルの近くにあったチョコレート屋のおばさんに気に入られて『ありがとう』はダンケシェーン、『どういたしまして』はビッテ、なんてくり返し教えられてたの」
「覚えてるよ」
というよりも、それが私の知る唯一のドイツ語だった。
「今から思えば、小さなときにお父さんから教わっていれば良かったのにねえ」
「それだけの問題じゃなくて、今からまったく環境の違う場所では暮らせないよ」
分かったわよ、と母はあらかじめ予想していたように短いため息をついた。
「まあ、泉だったらしっかりしているから、一人でも大丈夫だと思うけど」
母は困ったときに頼れる親戚の名を挙げ連ねて、今度は私のほうがあらかじめ分かっていた答えを追うように何度か相槌を打ったのだった。
春には両親が旅立ってしまうため、それより先にアパートを探して私だけが引っ越すことになった。
日曜日の午前中に引っ越し業者がやってきて、暮らし慣れたマンションからどんどん荷物を運び出してしまった。感傷の入り込む隙もないうちに作業は終わり、トラックは大学から三つほど離れた駅のそばのアパートに向かった。
新しい部屋で母と二人で日が暮れるまで片付けをしてから、夕飯のためにアパートを出て駅前のファミリーレストランに向かった。
駅までの道は幅が広いわりに人通りが少なく、夜になると車の往来だけが目立つ。そのことになんとなく無機質な印象を受ける。夜中に歩くと無人の町のようだ。
明かりの消えた小学校の前を通りかかると桜の樹にはまだ小さな蕾が出来たばかりだった。真っ暗な大きな門の先にさらに大きな校舎がたたずんでいた。
校門の前をゆっくりと通り過ぎながら、
「そういえば高校生のときは泉、いつも楽しそうだったわね。同じ演劇部だった子たちは今どうしてるの?」
ふと母が尋ねた。
「みんな大学に通ってるよ。ほとんど会うことはないけど。志緒とはたまに連絡を取ってる」
「時々、高校のほうに顔を出したりはしてないの」
首の後ろが寒くなってきて私はマフラーをきつく巻き直した。
「最初はしてたけど、後輩のほうが上手いから、とくに指導することもなくて」
本当は一度も顔を出してはいなかった。母は相槌を打ってから、ふいに思い出したように
「顧問の葉山先生も、まだいるの?」
「うん、まだいるよ。しばらく会っていないけど」
「あんたは一時期あの先生の話ばっかりしてたわね。正直、毎日のように聞かされて飽きてたけど、話してるときの泉が楽しそうだったから黙って聞いてたのよ。もう連絡を取ったりはしていないの?」
私は首を横に振った。
「卒業したら、そんなに先生に用事なんてないから」
「私は泉があの先生のことを好きなんだと思ってたわよ。まだ年齢もけっこう若かったし見た目も素敵だったじゃない。それにほら、高校生ぐらいの頃ってとくに年上に憧れるから」
そう言って母はほほ笑んだ。私は母のそういう感覚が好きだ。年齢は関係なく、近くにいるとすっきりと良い香りが立ちのぼってくるような瑞々しさを感じる。
私はじっと夜空を見上げた。真っ暗な中をゆっくりと横切る、赤い光が点滅していた。
「あれに乗って、一週間後はドイツかあ」
思わずしみじみと呟くと
「本当に困ったときには言ってよ、すぐに帰ってくるから」
「大丈夫だよ」
そう言って私は笑った。
それから二週間後、バイトから戻ったときに郵便受けを覗くと、大学の成績表と母からの初めてのエアメールが届いていた。
「ドイツビールを楽しみにしていたのに、寒くてそれどころではありません。お父さんは日々、言葉の壁を乗り越えるのに必死です。そして、たしかにとてもすごい速さで学生時代からのブランクを取り戻しています。今ほどあの人のプライドの高さが功を奏しているときはないかも知れませんね」
彼女自身のことよりも父について多く語られた手紙を、私は机の引き出しにしまった。
次第に暖かくなってきて周辺の景色も徐々に色づき始めた。桜が咲く頃には大学が始まり、キャンパスには新入生をサークルに勧誘する学生の姿が溢れた。風に舞う桜の中で途絶えることのないにぎやかさはお祭りのようだった。
ゴールデンウィークの少し前、ひさしぶりに大学の友達とごはんを食べてからアパートに戻った夜のことだった。
部屋でテーブルに頬杖をついて、テレビを見ていると携帯電話が鳴った。
「ひさしぶり。元気にしていましたか」
電話ごしに彼の声が聞こえてきたとき、昨夜みた夢が現実に飛び込んできたような気がして、私はすぐに返事ができなかった。しばらく言葉を失っていると彼も戸惑ったように黙り込んだ。しばらくして、ようやく口を開き
「こちらこそおひさしぶりです、葉山先生」
(第2回へつづく)
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