島本理生さんが『 ファースト・ラヴ 』で 第159回直木賞を受賞されました。
これを記念しまして、カドブンでは島本さんの代表作『ナラタージュ』(角川文庫)の試し読みを3日間連続で公開します。
この機会に、島本史上もっとも切ない恋愛小説をお楽しみください。
>>第1回から読む
相手の名前を口にした瞬間、自分の心拍数が上がったような気がした。
「良かった、返事がないから間違えてかけたのかと思ったよ」
「あんまり突然だったので、びっくりしたんです。どうしたんですか、急に」
うん、と彼は相槌を打った。
「じつは演劇部のことで相談があるんだ」
葉山先生は私が所属していた演劇部の顧問だった。彼の話によると、三年生がこの春に卒業して部員がわずか三人になってしまったという。
全員で勧誘に励んでみたものの、大した成果は上がらなかったらしい。
「工藤の一つ下の代のときには、人数も多くて大作にも挑戦できたけど、その子たちが今年一気に卒業して急に淋しくなったよ。三人でも芝居はできるけど、彼らももう三年で引退の年だし、もう少しにぎやかにやりたいと思って」
「そうなんですか」
彼の言わんとしていることが分からずに、私はとりあえず相槌を打った。
「それで、私に相談っていうのは」
「うん。だから君さえ良かったら、週一回ぐらい、時間のあるときに様子を見に来てくれないかな。……と遠慮がちに言いたいところだけど、本当は練習に参加してほしいんだ。夏休み明けの始業式の後、吹奏楽部と合同で小体育館を使わせてもらえることになったから、そのときに発表する芝居を作りたいんだ」
「発表って、文化祭じゃないんですか?」
「うちの高校はほかの高校よりも文化祭の時期が遅いだろう。それまで部活をさせるのだけはやめてほしいって、部員の親御さんたちから言われているから、こっちを最後にしようと思って」
彼の提案に私は複雑な気持ちで答えた。
「それはいいですけど。私は入部したのも二年の半ばからで、しかも初心者だったから同級生の中でもダントツで下手だったじゃないですか。それでもいいんですか」
「そんなことはないよ。それに工藤はもともとの声の質がいいじゃないか。遠くまでよく通るし、舞台に立つと妙に目立つところがあるから」
「そんなこと」
「それにほら、自宅が高校から近い子じゃないと来てもらうのも大変だろう。だからなるべくそういう子にだけ声をかけているんだけど、みんなサークルだ、勉強だって忙しそうなんだ。黒川が、工藤ならサークルにも入っていないし用事はバイトだけだから暇に違いないって断言するから」
そんなことだろうと私は少しがっかりした。
「葉山先生、黒川の言うことなんか信じないでください」
そう訴えると彼は低い声で笑った。
「そういえば、うちの両親が今、転勤でドイツに行っているんです。だから大学の近くで一人暮らしをしていて」
「そうか。だけど、それなら高校までは少し遠いかな」
「そんなには違いはないですけどね」
「うん。だったら黒川と山田も参加してくれるって約束してくれたし、どうかな。本当に考えてみてくれないかな」
「葉山先生」
私は少し迷ってから、言った。
「本当にそれだけの理由ですか」
そう尋ねると、次の言葉まで間があった。電話の向こうで言葉を選んでいる気配が伝わってくる。
いや、と彼は呟いた。
「ひさしぶりに君とゆっくり話がしたいと思ったんだ」
なぜか、こんなふうに電話がかかってくることが分かっていたような気持ちになった。
「そうですね。私もひさしぶりに話したいです」
一年前には四六時中ずっと胸の中を浸していた甘い気持ちがよみがえりそうになったので、すぐに感傷だと思い直し、次の土曜日に行くという約束をして電話を切った。
携帯電話を頬から離すと、右耳がぼんやりと熱くなっていた。
私が高校三年生のときに、葉山先生は世界史の教師として赴任してきた。
三年生の新学期が始まる前日の日曜、私は部活の練習のために午後から学校へ来ていた。
集合時間が迫っていたので、できるだけ速足で廊下を歩いていた。朝から雨が降っていて窓ガラスの上を絶え間なく水滴が流れていた。明かりのついていない校内は昼間とはいえ、とても薄暗かった。
そのとき廊下の反対側から先生らしき人影がやって来るのが見えた。私は歩く速度を緩めて、軽く会釈をした。相手も一瞬だけこちらを見て会釈を返した。
よく見ると見覚えのない先生だった。グレーのスーツの下には薄い水色のワイシャツを着ていた。ネクタイは結んでいなかった。
いったん視線を外した後でふたたび気になって顔を上げると、今度ははっきりと視線があった。背の高い人だと思い、ふと床のほうを見ると彼の長い影が伸びていて、もう一度、やっぱり背の高い人だと感じた。当然だが、お互いに交わす言葉もないのでそのまますれ違った。
教室に着くとすぐに部長の黒川から遅いという怒声が飛んだ。散々謝ってなんとか許してもらった後、台本を鞄から出しながら、さきほどの先生らしき男性のことを思い出していた。
翌日の始業式で、新しく世界史を担当する葉山先生だという紹介があった。最初の授業が終わった後で彼は数人の生徒から話しかけられていた。その群れには混ざらずに遠くのほうからじっと彼を見ていたら、一瞬だけ不思議そうにこちらを向いたものの、すぐに違うことに気を取られたような顔で教室を出て行った。
だいぶ後になって尋ねたら、彼は私と廊下ですれ違ったことを覚えていなかった。
私のほうだけが彼のことを覚えていた。
約束の土曜日、自宅で遅めの昼食をすませてから高校へ向かった。
ひさしぶりに訪れた高校は少し雰囲気が変わっていた。建物のところどころに黄色いシートが被せられ、数台のトラックが校庭に駐まっている。もともと古い校舎がなんだかよけいに雑然として見えた。ごちゃごちゃしているのにどこか殺風景な印象があるのは、長い時間を経て白から灰色に変色した壁のせいだろう。創立してから何十年もの時が流れているこの高校は、校舎全体がくすんだ色をしている。にわかに華やぐのは桜の季節だけで、その時期もすでに終わっている。花をすべて散り落とした校庭の桜の枝には代わりに新緑が生まれ、青空の下で瑞々しい光を揺らせていた。
来客用の出入り口でスリッパを借りて葉山先生のところへあいさつに行った。職員室の扉を開けると彼はプリントや教科書の積み重なった机で書き物をしていた。
「ひさしぶり、本当に来たね」
本当に来ました、と私は答えた。
以前はもっと短かった前髪が眉にかかるぐらいの長さになっていた。彼を実際の年齢よりも若く見せている、はっきりとした目元の感じも変わっていない。以前は細い銀縁だったメガネが、茶色いべっ甲の物に変わっていて、そのメガネの色と、一年前よりも顔立ちに少し年齢を重ねたことで、よけいに彼の顔の中でその目の強い印象が際立ってきたように思えた。
懐かしく思えてじっと見つめていたら、それよりもさらにじっと見られたため、先に目線をそらしてしまった。この人はまったくためらうことなく他人と視線を重ね合わせるので、こちらが照れてしまう。
後輩は三階の空き教室で待っていると告げられ、私はほかの先生たちにも軽くあいさつをしてから職員室を出た。
いろんなことを思い出しながら廊下を歩いていたら、ふと背後から足音が近づいてきた。
「あいかわらずぼうっと歩いてるな、工藤は」
振り返ると、あきれたような顔で黒川博文が立っていた。
「後ろから来たのに、私がぼうっと歩いていたかなんて分からないでしょう。後ろ姿にまで文句をつけられても困るよ」
そう反論すると、黒川はとなりに並びながら
「いいや。おまえは絶対にぼうっとして歩いてた。もう見るからに、背中がそういう雰囲気を出してた」
「そんなむちゃくちゃな」
彼は紺色のシャツを着て、ベージュとグレーのストライプジーンズを穿いていた。顔の輪郭から首にかけてのラインが以前よりも若干大人びてシャープな印象になっている。
「まだ日焼けするには早いよね」
横顔を眺めながら呟くと、彼は右目のまぶたの上を軽く掻きながら
「おとといまで家族で沖縄に行ってたんだよ」
「おととい? けど、まだゴールデンウィーク前だったでしょう」
「当たり前だろう。旅費が高いからわざとこの時期を外したんだよ。そうしたらちょうど出発前夜に葉山先生から電話があってびっくりした。一体どういう勘をしてるんだ、あの人は」
「それはタイミングが良いんだか悪いんだか」
「本当だよ。俺は卒業してまで工藤の粗野な顔なんて見たくないよ」
あいかわらず失礼な男だと思いつつ、もう反論する気も起きなかった。二人で適当なことを喋りながら空き教室のドアを開けると、なぜかバースデーソングの合唱が聞こえてきた。
長方形のケーキを机に載せて、二人の後輩が椅子に座っていた。グレーの長いプリーツスカートから細い足首を覗かせながら柚子ちゃんがこちらを見て驚いたように立ち上がり、おひさしぶりです、と素早く会釈をした。
「誰かの誕生日なの?」
「はい。正確には昨日だったんですけど。新堂君の十八歳のお祝いです」
柚子ちゃんはぽってりと厚くて小さな唇をきゅっと横に引き、笑顔を見せた。
「そうなんだ。それで、肝心の新堂君は」
「体調が悪くて午前中に早退しちゃいました。だけどこのケーキ、明日まで学校に置いておけないので」
柚子ちゃんは笑顔のままそう答えた。
「葬式じゃないんだから本人不在で誕生日パーティをするなよ。それよりおまえら、ちゃんと練習してるの?」
黒川が尋ねた。
「いやあ。正直、全然していません」
即答したのは伊織君だった。彼はとても体が大きく、毎朝剃らないと追いつかないほど濃い口元のヒゲのせいか、高校生らしからぬ風貌をしている。しかし中身はいたって無邪気で、いつもおそろしいことを平気な顔で言う。
そんなことを威張るなとさっそく黒川に叱られた彼は、すみません、とまったく反省の色がない調子で謝っていた。
(第3回へつづく)
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