島本理生さんが『 ファースト・ラヴ 』で 第159回直木賞を受賞されました。
これを記念しまして、カドブンでは島本さんの代表作『ナラタージュ』(角川文庫)の試し読みを3日間連続で公開します。
この機会に、島本史上もっとも切ない恋愛小説をお楽しみください。
>>第1回から読む
私が椅子を運んでくると、柚子ちゃんがケーキを切り分けてお皿に載せてから、冷たい紅茶を紙コップに注いでくれた。
黒川は適当に空いた机に腰掛けながら
「そもそも、どうして教室で誕生日パーティをやっていて誰も叱りに来ないんだ」
「なに言ってるんですか、黒川先輩。このケーキはもともと朝のうちに買って来て、さっきまで社会科準備室の冷蔵庫に入れておいたんですよ。そのほうが傷まないからって、葉山先生が」
「なんで社会科準備室に冷蔵庫なんて置いてあるんだよ」
「たしか地理の先生が夏場に持ってきたらしいよ。ほとんど飲み物専用の小さいやつだけど。普段は先生たちがお茶やジュースを冷やすのに使ってる」
そう説明した。私もその冷蔵庫の麦茶を飲ませてもらったことがあったので、記憶は鮮明だった。
「ベテランとか、ある程度えらい先生ならともかく、まだ若い葉山先生がそんなに好き勝手していて大丈夫なのか」
「大丈夫じゃないですか。あの人、スキーのインストラクターかなにかの資格も持っているみたいだし、いざとなれば」
「そういうのは大丈夫って言わないんだよ」
伊織君と黒川が言い合っている間、私はケーキを食べていた。トップスのチョコレートケーキはクリームの中にクルミが入っていて、噛むと甘さの中に香ばしさが広がってとても美味しかった。
ふと気付くと、柚子ちゃんがケーキにまったく手をつけていなかったので
「柚子ちゃんは食べないの」
ちょっと食欲がないのだと彼女は言った。
「大丈夫?」
そういえば最後に彼女に会ったのは一年ぐらい前だったが、そのときからだいぶ痩せたように感じた。もともと少しふっくらした頬や手足から愛嬌のある可愛らしい雰囲気を滲ませていたのだが、今は着ている白のカーディガンの肩や袖のところがかすかに余っていてその体形の変化は歴然だった。
「柚子ちゃん、なんだか痩せたよね。もしかしたらすごく体調が悪いんじゃないの」
「ちょっとダイエットしていたんです。だけど今は風邪気味なだけですから」
と答えた彼女の笑顔が以前と変わらないものだったので、私は少しほっとした。
「それよりも、そろそろ本題に入りましょう」
そう言って柚子ちゃんは黒川のほうを見た。
「とりあえずメンバーは在校生三人と、俺、工藤、山田志緒の卒業生の三人。俺たちが平日に来るのは難しいから、土曜日だけが全員でそろう日になると思う。だから早めに台本を決めて稽古に入ります。台本をどうするかは後で葉山先生とも相談してみる」
「そういえば志緒は?」
思い出して尋ねると、黒川は首を横に振った。
「大学のほうで用があるから今日は無理だって。あいつ、今、声楽のサークルに入ってるから、けっこう忙しいみたいなんだよ」
「そういえば、そうだったね。てっきり大学内の劇団に入るかと思ったのに」
「俺もそう思ってたけど、もともと本人は前から歌がやりたいって言ってたから。そんなことよりも俺はおまえのほうが心配だよ。一年以上、ろくに発声もせずにすっかり体がなまってるだろう。さっき廊下で後ろ姿を見たら姿勢が悪かったぞ」
「私だって一応、大学の劇団には見学に行ったんだよ。だけど激しい体育会系の雰囲気に溶け込めなくて。高校のときは葉山先生の影響で、なんとなくみんなゆるい感じだったでしょう。黒川だけがまるで生徒指導の先生みたいにきびしかったけど」
「当たり前だろう。だいたい、あの先生は好き勝手にアイデアを出しておいて、細かいところはこっち任せなんだから。一度ボールを投げたら、投げっぱなしのあの人にすべてを任せていたら本番までたどりつけるか」
そう一刀両断した後、黒川は話をまとめるように
「それじゃあ、次回のミーティングはゴールデンウィーク明けの土曜日に。本日はこれで解散」
伊織君がもごもごとケーキの入った口を動かしながら、はい、と相槌を打ったので、また黒川の機嫌が少し悪くなった。そんな黒川を連れて私は伊織君と柚子ちゃんに別れを告げ、教室を出た。
日が落ちかけた階段を下りていると来客用のスリッパがぺたぺたと音をたてて鳴った。高校生のとき、この音を聞いていつも部外者の音だと感じていたことを思い出した。
黒川は少し前を歩いていたが、昇降口の近くまで来ると振り返って
「そういえばおまえはどうして、また部活に来ることにしたの」
唐突にそんなことを言われて私が黙っていると
「まあ、工藤は見るからに暇そうだもんな」
「うるさいな。葉山先生に頼まれたから来ただけだよ」
「やっぱり。おまえは本当にあの先生に弱いなあ」
「弱いというのがどういう意味か分からないよ」
「二人で話しているところを見ると、なんとなくいつも工藤が上手く言いくるめられてる印象がある」
「言いくるめられてるって、あんまり良い言葉じゃないね」
私はため息をついた。
「まあ、上手いことコントロールされてるっていうか、ある意味では意思の疎通が誰よりもスムーズに出来てるとも言えるよ。だからあの人の指導が入るとじつは工藤が一番伸びるんだよな。俺がガンガン突っ込んでも、困っておどおどしてるだけのくせに」
私は曖昧に相槌を打ったが、本当はたしかにそういう関係かも知れないと心の中では思っていた。
それにしてもひさしぶりに会った黒川は以前となに一つ変わっていないので感動してしまう。日常から早口言葉の練習でもしているような喋り方もあいかわらずで、それだけで高校のときに戻ったような、懐かしい気持ちにならずにはいられなかった。
昇降口で靴を履き替えて外へ出ると、長い帯状の夕焼けが遠くのほうまで広がっていた。
「黒川は志緒とあいかわらずなんでしょう」
「まあな。最近は向こうが忙しくて、あんまり会ってないけど」
「そういえば黒川はどうして大学で演劇を続けなかったの」
学校から駅までは長い上り坂が続いている。歩いていると少し息が上がってきた。
「俺、今年の秋に留学するんだ」
驚いて聞き返すと、アメリカに行くのだとはっきりした口調で彼は告げた。
「それって志緒は知ってるの?」
尋ねたら黒川は眉をひそめて
「当たり前だろう。なんで俺がそんなに大事なことを志緒よりも先におまえに話すんだよ」
「まあ、それもそうか」
私にはとても感じの悪い彼だったが、高校のときから付き合っている志緒にはいつも優しかった。そんな二人を見ているのが好きだった。
「だけど黒川がいなくなったら志緒も淋しいだろうね」
「どうだろうな。前から決めていたことだったし、反対されたことも一度もないから」
いつの間にか透明な月が夜空に浮かんでいた。踏切の鳴る音が近づいてきた。
駅で黒川と別れ、ホームで電車が来るのを待ちながら、明日の日曜日はひさしぶりに昔使った台本を引っ張り出して少し声を出してみようと思った。
深夜、暗闇の中で目覚めた。背中や肩の節々がひどく痛かった。どうやら毛布だけを掛けて古い台本を読み返しているうちに眠ってしまったらしい。
このままベッドに行こうか迷ったが、なんとなく目が覚めてしまったので、机に向かって電気スタンドを点けると手元だけが明るく照らされた。引き出しから便せんを取り出し、ボールペンを手に取った。
母への手紙には、大学のサークルの勧誘で新入生に間違えられたことや、駅前に新しく出来た本屋でバイトを始めたこと。そして高校の演劇部に顔を出し始めたことなど、できるだけ明るい出来事にばかり焦点を当てて書いた。そうしているうちに、本当に自分の日常には良いことばかり起きている気がしてきた。
母がこの手紙を読んで安心すればいいなと思いながら封をした後、出し忘れないように机の下に置いたカバンから手帳を取り出して、その間に挟んだ。
手帳に手紙を挟むのは私の癖で、そこには母へのエアメールよりも先に、もうずっと前から、葉山先生に宛てた手紙が挟んである。書いたときには青くてきれいだった封筒の表面にはだいぶ皺が寄ったり汚れたりしていた。
最初に廊下ですれ違ったときから、私はおそらく葉山先生のことが好きだったのだろう。
今になって振り返るとよく分かる。教壇に立つ彼の細かな仕草の一つ一つまで見落とすまいと必死になっていた。そのくせ視線が合うことは気恥ずかしくて、彼がこちらを見たときにはかならず黒板を見ているふりをして目線をそらした。
それまで演劇部の顧問だった先生が違う高校へ異動になったため、赴任してすぐに葉山先生が演劇部の新しい顧問になった。
一度、部活で遅くなった帰りに定期を出そうとして財布がないことに気付いた。青ざめて学校に戻ると、ちょうどまだ残っていた葉山先生と廊下でばったり会った。どうしたのかと訊かれて相談をしたら、彼がすぐに校内中を捜そうと言い出したのだ。
それまで葉山先生と私は、部活に所属しているほかの生徒たちと複数でいるときにちらほらと言葉を交わす程度だったが、彼は夜の校内を一緒に一時間以上も捜してくれた。結局、財布は見つからなかったけれど、歩き回っていた間にかなり長い会話をした。
葉山先生が自分の若い頃の恋愛まであまりにためらいなく話すので、学校の先生からそんな話をされたのは初めてだと少し驚いて言ったら、僕も生徒にこんなことを話すのは初めてだと返された。そう言ったときの彼は、自分自身に対してとても不思議そうな顔をしていた。
それから私が新しいクラスでの人間関係に悩んでいたときにも、葉山先生は担任よりもずっと親身になって相談に乗ってくれた。その合間にはよく趣味の話もした。お互いの趣味が合うことが分かると、自分の好きな本や映画のビデオを貸してくれるようになった。
それらはいつも新しい紙袋に入れられて手元に届いて、湿気でページが縒れたりビデオが巻き戻っていなかったことはなかった。私は返すときにいつも感想の手紙を書いて一緒に入れておいた。その手紙に対しての返事が来たことはなかったけれど、一度だけ手紙を付け忘れたときに、僕は工藤からの感想をけっこう楽しみにしているのだと漏らしていた。
最後に貸してもらった『エル・スール』のDVDは今でも私の手元にある。彼はビクトル・エリセが好きで、あの監督の静けさに触れたときだけは日常の雑事や悩みが遠ざかって違う場所へ運ばれていくのだと話していた。
告白するつもりだった。今も手帳に挟んである手紙を持って、卒業式の少し前、社会科準備室へ行った。そして、葉山先生には恋人がいますか、と質問した。準備室の中は閉め切っているはずの窓から隙間風が吹き込んで、とても寒かった。
葉山先生は私の質問にいつまでも黙っていた。あんまり長いこと黙っていたのでこちらが不安になって、自分の足元を見たりスカートのポケットに手を出したり入れたりしていると、やがて彼はすっと顔を上げた。そして、僕は誰よりも君を信用している、と静かに告げた。だから本当のことを言う。その代わりにこのことは誰にも言わないでほしい、と。
(このつづきは本編でお楽しみください)
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