【新連載】夢と現実の才能の狭間でもがく、〝こんなはずじゃなかった〟私たちの人生。こざわたまこ「夢のいる場所」#1-1
こざわたまこ「夢のいる場所」
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隣の席の男が、うつらうつらと舟を
男はついに私の右肩に体をもたれて、ぐうぐうと盛大に
カラーレンズの黒縁メガネにハンチング帽、ジャケットにTシャツといういかにも業界人風のファッションに身を包んだその男は、開演前ギリギリ、諸注意のアナウンスが終わったタイミングで会場にやって来た。当然スマホの電源なんて切るはずもない。この時点で、嫌な予感はしていたのだ。
しばらくすると、男のポケットからエレクトリカルパレードの曲にも似た間抜けなメロディが流れ始めた。よほど急ぎの用件なのか、着信が切れる気配はない。しかし当の本人は、いつの間に目を覚ましたのか、さも「劇に集中してますよ」という顔で正面を向いている。着信音は、三回目のリピートを経てやっと止まった。
ようやく会場が落ち着きを取り戻したかに見えたその時、さっきまで
こんな風に、客席のトラブルが唐突に役者の集中力を絶ってしまうことがある。周りのアドリブでなんとかそのシーンは立て直したものの、一人の役者の不調をきっかけに、今度は芝居全体のリズムが崩れてしまった。物語自体はクライマックスに差し掛かっているにもかかわらず、芝居のノリが悪い。客席にも散漫な空気が流れ始めている。
役者の一人が巻き返しを図るように、感情に任せて舞台装置のテーブルに拳を
カーテンコールが終わり、アンケート用紙から顔を上げると、すでにほとんどの客が席を立っていた。会場には物好きなファンが数人残っているだけだ。舞台上には、使い終わった小道具や紙吹雪の残骸が散らばっている。ついさっきまで、ここで行われていたことが
劇場の扉をくぐると、狭いロビーにかなりの数の人がひしめき合っていた。混雑でちょっとした身動きをとるのも一苦労だ。劇団の制作スタッフらしき男性が、繰り返し注意を呼びかけている。近隣の方の迷惑になるので、劇場の外での歓談はご遠慮ください。
ごった返す中には、ついさっきまで舞台に上がっていた役者もいた。芝居を終えたばかりという解放感も手伝ってか、皆一様に
「
その中でもひときわ大きな、よく通る声。彼女が姿を現した瞬間、ロビー内の空気がにわかに色めき立つのがわかった。トレードマークの赤いワンピースが目に
「やあ、
呼びかけに答えた男の顔がそこで初めて視界に入り、目を疑った。飯塚と呼ばれたその男は、ついさっきまで私の隣に座っていた居眠りスマホ野郎だった。飯塚は、観劇中一度たりとも外すことのなかったハンチング帽を
「お疲れ様。なかなかよかったよ。ハプニングも上手いこと処理してたし」
白々しいにも程がある。そのハプニングは誰が引き起こしたと思っているのか。少なくとも、公演時間のほとんどを眠って過ごし、スタッフの注意を破って延々スマホを鳴らし続けた男が
「今回、気合い入ってたんじゃないの。お父さん、もう
「いえ、父はまだ。自分で言うのも何なんですけど、新境地なんです。父にも楽しんでもらえるかなって。飯塚さんはどうでした?」
男がそれになんと答えたのかまでは、聞こえなかった。どうせ聞こえたとしても、大したことは言っていない。こんな
正直、舞台は最悪だった。主演の男はぎゃーぎゃーうるさいだけで何を言ってるのか全然聞こえないし(その上台詞を飛ばした)、客演の女優はここぞという時だけやけにエモーショナルな芝居を披露してくるし、複数回公演を観に来ているであろう固定ファンが序盤のなんでもない台詞でゲラゲラ笑ってるし、小劇場の悪いところをかき集めて全部のせでお送りしてます、みたいな最低の芝居。昔の彼女なら、いのいちばんにつまらないと切り捨てていそうな内容だと思った。
「すみません、ちょっと」
その時だった。彼女がぐるりと首を回し、ロビーを見渡した。慌てて顔を背ける。一瞬だけ、目が合った、ような気がした。
「あ、
続けて彼女の口から飛び出した言葉に、ほっと胸を
「あれ、
安心したのもつかの間、心臓が凍りついた。
「おい、夢だよな? おーい。あの、ちょっとすみません、通ります。なあ、俺だよ、俺」
よりによって、こんなところで知り合いに出くわすなんて。一刻も早くこんな所からはおさらばしたいのに、人混みが邪魔をしてなかなか前に進めない。声の主はこっちの事情なんか御構い無しに、ずんずん近づいてくる。
無理に抜け出そうとしたら、思い切り他人の足を踏んでしまった。ロビーでグッズ販売の列に並んでいたらしい女性が、痛っ、と悲鳴を上げる。すみません、と頭を下げると、その列の先で過去公演のシナリオブックやDVDの他、オリジナル商品として劇団員のサイン入りTシャツが並べられているのが目に入った。プリントされているのは主宰自らデザインしたキャラクターらしいけど、正直素人臭くて目も当てられない。何が劇団公式キャラだ。何がサイン入りTシャツだ。アイドル商法もいいところじゃないか。
「なあ、夢ってば」
はっとして我に返ると、ついに後ろから肩を叩かれた。観念して、振り返る。続けて目に飛び込んできた彼の姿に、あ、と声が漏れた。
学生時代、頻繁に脱色剤をあてがわれていた髪の毛はすっかり地毛の色を取り戻し、短く切りそろえられている。上下のスーツと、くたびれた通勤
「……
「だから、そうだって言ってんじゃん。なんで無視するかな」
数年ぶりに再会したかつての友人は、そう言って
▶#1-2へつづく
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