江戸川乱歩賞作家、二作目で弾ける――杉江松恋の新鋭作家ハンティング『誰かがこの町で』
杉江松恋の新鋭作家ハンティング

『誰かがこの町で』書評
書評家・杉江松恋が新鋭作家の注目作をピックアップ。
今回は、三つの美点を持つ一冊。
幹の太いプロット、というのはこういうことを言うのだろう。
佐野広実『誰かがこの町で』(講談社)には三つの美点がある。内の一つがそれだ。
ごちゃごちゃしていない、広がりのあるプロット。序盤で示された主題のようなものが中盤で意外な方向に発展していくが音程が外れるようなことがなく終始一定のトーンを保ったままで進んでいく。終盤にはどっと賑やかになる部分もあって、ミステリーとして重視される意外性も示して終わる。すべてを語り終えた後に余韻を残す幕引きの情景がある。娯楽小説としては理想的な形だ。最後に情報が一気に出てくる箇所があり、そこを性急に感じる読者はいるかもしれないが、許容範囲だろう。つまりケチのつけどころがない。
ケチのつけどころ、という意味では現実性を指摘する人は出るかもしれない。物語の主舞台はとある郊外の住宅地だ。住民たちが鳩羽地区と呼んでいるその場所は、周囲から孤立していて独立を保っている。独自の決まりによって運営されていて、住人相互の結束が固いのだ。主人公の真崎雄一は元自動車メーカー社員の調査員で、今は岩田喜久子法律事務所から回される仕事をして糊口をしのいでいる。彼がこの鳩羽地区にやってくるのだ。住民たちが敵意を剥き出しにしてくるために、真崎は不審の念を抱く。どうやら過去に起きた出来事が長く尾を引いているらしい。
この鳩羽地区が、現実にはない場所ではないか、というのが注文のつけどころなのである。読んで驚いてもらったほうがいいから詳しくは書かないが、たしかにかなりデフォルメはきつい。一口で言ってしまえば、鳩羽地区は現代日本の縮図なのである。他人に対して不寛容である。自身の落ち度は忘却、または見て見ぬふりをして他人の非をあげつらう。内に抱え込んだ不安や不満を解消するために、贖罪の羊を見つけて攻撃しようとする。目的のためには手段を選ばず、法をねじまげようとする。こんな人間がひとところに集まって暮らしているような土地はありえない、と言うのはもっともだろう。だからカリカチュアなのである。
もちろん小説を成立させるためのリアリティは確保されており、その上で、どこにもないがどこかにあるかもしれない町が描き出されている。第一章の題名が「それはどこにあるか」なのは示唆的だ。どこにもない。しかし今の日本ならどこにあってもおかしくない。それが問いの正解である。どこにあってもおかしくない町で、いつ起きても不思議ではない事件が起きてしまう。それが『誰かがこの町で』と言う作品だ。そういう形でしか書けない現実のありようを作者はしっかりと小説内で表現した。これが美点のその二である。
第二次世界大戦後のアメリカでは、復員兵のために新興住宅地が整備された。そこでは夢のような生活を送ることができると喧伝されたのである。しかし人工的に理想の町を作るという計画には初めから無理があった。その中で生じた歪み、人間関係の行き詰まりを描くのが郊外(サバービア)小説というジャンルである。犯罪小説家の雄、ヒラリー・ウォーは最晩年に『この町の誰かが』(創元推理文庫)というサバービア・ミステリーの傑作を著した。佐野はこの作品を意識して本作を書いたのではあるまいか。だとすれば見事な本歌取りになっている。
もう一つの美点は人物の造形である。物語は二つの視点で綴られていく。一つの視点は真崎で、調査員が不可解な出来事を調べるという話の成り行きは、一人称私立探偵小説のものである。そこに別の視点が挿入されていく。木本千春と名乗るその人物は鳩羽地区の中に住んでいるらしい。彼女の目から鳩羽地区の移り変わりが描かれることで、外と内の対比が生まれる。実は木本千春の視点にはある趣向が凝らされているのだが、ここでは言うまい。大事なのは、両者による叙述は、それぞれの内奥にある思いと結びつくことによって物語に大きな起伏を産むという点である。真崎と木本は共に深い悔恨を抱えた人である。それを口に出せないために今の彼らがあるのだ。『誰かがこの町で』は、二人が過去の自分と対面するまでの物語でもあり、その瞬間がどこで到来するかが読みどころとなる。キャラクターがプロットと深く結びついたという意味で、やはり理想的な小説の形をしている。
佐野広実のデビュー作は2020年に第66回江戸川乱歩賞を獲得した『わたしが消える』(講談社)である。これが二作目だ。乱歩賞は激戦区ということもあり、行儀のいい作品が受賞する傾向がある。破調ではなかなか通りにくい賞なのだ。逆に言えば勝負どころは二作目ということである。『Tweleve.Y.O.』でデビューして『亡国のイージス』で才能を開花させた福井晴敏などはその好例である。二作目で弾ける乱歩賞作家は将来の出世頭候補というジンクスを提唱してもいい。
佐野広実、弾けたぞ。読むなら今だ。