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連載

冲方丁「骨灰」 vol.20

水を求め続ける娘の様子がおかしい――。 冲方丁「骨灰」#3-4

冲方丁「骨灰」

※本記事は連載小説です。

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 光弘は足早にシンクに近づき、手の平を叩きつけるようにして乱暴に水栓を閉じた。水の音が、気づけば経験したことがないほど不快で苛立たしいものに思えていた。声をかけ続ける美世子のことも。返事をしない咲恵のことも。
 だがそのせいで、美世子をびくっとさせてしまった。光弘は大きく息をつき、可能な限り声を落ち着かせて言った。
「お水、飲み過ぎだよ、咲恵ちゃん」
 ふと、いつだったか、ピクニックで水筒の中身を勢いよく飲む咲恵の姿が思い出された。そのときは、ひどく喉が渇いたというより、親に見てほしくてそうしていたのだ。当然、光弘も美世子も、がぶ飲みする咲恵を止めたが、そのときはただ微笑ましいだけだった。
 今のこれとは、まったく違う。
 咲恵の濡れそぼったうつろな顔を正面から見て、光弘は悲痛さすら覚えた。咲恵の髪からぽたぽた落ちるしずくが、パジャマの襟や肩の辺りに染みを作っている。
「本当にどうしちゃったのよ、咲恵ちゃん。ねえ、咲恵ちゃんってば」
 美世子が棚のハンドルにかけていたハンドタオルを取り、咲恵の額や髪を拭いた。一刻も早く娘を正常な状態に戻したいという焦りが手つきにあらわれていた。
 咲恵が水栓へ手を伸ばした。まだ水が飲みたいというのか。光弘は目をみはって、その手をつかんで止めた。
「駄目だよ、そんなに飲んじゃ」
「あついの」
 咲恵が言った。その額に汗がにじんでいた。美世子がそこへ手を当てた。
「熱があるみたい」
 光弘も咲恵の手に熱を感じてうなずいたが、そこでひどく奇妙なものを見た。濡れていた咲恵のパジャマの染みが消えていくのだ。いつの間にか髪から雫が落ちなくなっていた。そのことに美世子も気づいたらしく、咲恵の髪を手ですくうようにした。さらさらと髪が美世子の手から落ちた。髪はもう濡れていなかった。パジャマも、すっかり乾いていた。
「あついの」
 咲恵がまた言った。
「お熱が出たのよ。冷えピタ貼ってあげるからね」
 美世子が急いで咲恵の髪から手を離し、薬棚のほうを見やった。
「お客さんのせい」
 咲恵が呟いた。
「え?」
 光弘が咲恵の手を握ったまま訊き返した。
「見えないお客さんのせいで、あついの」
 美世子がぎくりとなって、咲恵を振り返った。
 そしてそれが来た。

 

 息を吞む光弘に、美世子がすくみ上がってしがみついた。
「ねえ、なんでまた鳴るの? 直ったんじゃなかったの? ずっと鳴りっぱなしじゃない」
 光弘のほうこそ同じことを言いたかったが、黙って咲恵の手を放し、美世子の肩を叩いて離れるよう促した。
 光弘は、二人を安心させるために、うなずきかけながら、後ずさってインターホンのモニターが見える位置に来た。
 やはり誰もいないエントランスが見えたが、やけに霞がかったような映像だった。いよいよカメラまで壊れ始めたかと思った。どうやら白っぽいものがエントランスのカメラに付着しているらしいのがわかった。白い、粉塵のようなもの──
「あついよ!」
 咲恵が悲鳴を上げた。
 はっと光弘がそちらを見た瞬間、強烈な光が目を打った。
 咲恵のパジャマの肩や腹の辺りで、ぼっ、ぼっ、と音を立てて火がついた。
 美世子が言葉にならない金切り声を上げ、叩いて火を消そうとした。だが火は消えず、暴れもがく咲恵の全身へ、そして髪へとまたたく間に広がっていった。
「咲恵!」
 光弘も、娘が炎に吞み込まれるという想像したこともない恐怖で絶叫を上げた。燃え上がる咲恵の体をつかみ、先ほどまで引き離そうとしていたシンクに押し込み、水栓を開けるだけ開いて水を浴びせた。美世子も冷蔵庫からペットボトルを引っ張り出し、震える手で蓋を開いて、めちゃくちゃにもがいて悲鳴を上げる咲恵に浴びせかけた。
 光弘は必死に火を消そうとしながら、地下のあれは放火じゃなかったのかもしれない、やっぱりあの地下に満ちるものが火を生じさせたのかもしれない、そのことをもっと深く考えるべきだった、という後悔の念に襲われていた。
 光弘と美世子は、水を浴びせ、なんとか燃えるパジャマを脱がそうと懸命に試みたが、火の勢いは衰えるどころか、いよいよ激しく娘の体を焼いていった。
 髪の毛が燃え、皮膚が焼けるときの、すさまじい異臭が、光弘と美世子の息を詰まらせ、目を刺激して涙を溢れさせた。
 三人とも狂乱状態で、声の限りに叫んでいた。光弘も美世子も自分が火傷を負うのも構わず火を消そうとしたが駄目だった。
 目の前で、娘が娘ではなくなっていった。火によって人間の肉や内臓が膨張し、皮膚が裂けて血がしぶき出す音と、その血が真っ黒に焦げるひどい臭いしか感じることができなかった──

▶#3-5へつづく


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