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連載

月村了衛「白日」 vol.1

第10回山田風太郎賞受賞の著者、最新作! 出版社教育部門の課長のもとに入った衝撃的な情報とは……。「白日」#1-1

月村了衛「白日」


   1

 皮膚の奥からとめどなく湧出してくるような汗を拭いながら、会社までの慣れた道を急いでいたあきよしこうすけは、前方の異物に気づいて足を止めた。
 小鳥のがいであった。まだひなと言っていいくらいの小ささで、白く熱せられた路面に転がっている。反射的に頭上を見上げた。建ち並ぶビルの窓辺、あるいはエアコンの室外機の下かどこかに巣があるのかもしれないと思ったからだ。巣から押し出された雛が、真夏の暑さに息絶える。それはどんなにか絶望に満ちた死であったろう。
 太陽がほぼ真上にあるせいか、周囲は逆光の陰に塗り込められ、鳥の巣らしきものは見つけられなかった。
 小鳥の死骸を避けて再び歩き出した秋吉は、『せんにち出版』の真新しい本社ビルに戻った。社屋内の空調は完璧で、汗がたちまちに引いていく。その感覚が好きだった。
 夏の暑さは年々厳しくなる一方だ。無慈悲な太陽は全身から気力を蒸発させる。しかし秋吉は、体の疲れをむしろ心地いものと感じ、エレベーターのボタンを押した。仕事の成果は着実に上がっている。四十を目前に控えて体力の衰えを痛感することが多くなったが、念願のプロジェクトがいよいよ始動するかと思うと、気力はたちまちに充塡される。
 教育事業局の入っている六階で降りた。まっすぐに教育事業推進部第一課のフロアへと向かう。
 プロジェクト・パートナーである『てんのうゼミナール』本部で行なわれた打ち合わせはことのほかうまくいった。いよいよ最終段階だ。
 早く部下達に結果を教えてやりたい──
 はやる気持ちを抑えつつ自席に戻った秋吉は、しかし予想とは異なる空気にとまどいを覚えた。一見すると常と変わらぬオフィスの光景であるが、どうにも落ち着かぬ様子で誰もがうつむいている。隣席の同僚と何事かささやき交わしている者達もいた。
「課長」
 課長代理のさわもとひとが強張った表情で近寄ってきた。その背後には課長補佐のまえじま寿も従っている。
この部長がお呼びです。戻り次第、A会議室に来るようにと。私と前島君も一緒に来るよう言われています」
「どうした、何があった」
「それが、私もはっきりとは……」
 言葉を濁した沢本の後ろから、亜寿香が促すように発した。
「部長から説明があると思います。参りましょう」
「分かった」
 秋吉は座ったばかりの椅子から立ち上がって、もと来た通路を引き返した。
 六階にいくつかある教育事業推進部の会議室のうち、A会議室を小此木は半ば自室のように多用していた。
「失礼します」
 ノックしてから中に入ると、テーブルで執務中だった小此木が顔を上げた。
「おっ、すまんねどうも。まあ、適当に座って」
「はい」
 秋吉達は小此木の対面に並んで腰を下ろす。
 心持ち居住まいを正した部長は、一切の前置きを抜きにして切り出した。
「すでにうわさが流れているらしいが、かじわら局長のご子息が亡くなられた」
「えっ」
 あまりに唐突であったので、秋吉は驚きの声を漏らしてしまった。
「局長のご子息って……みき君がですか」
 梶原家を何度か訪れたことのある秋吉は、幹夫についてもよく知っていた。今どき珍しいくらいまっすぐで素直な少年で、父親のくんとうたまものであろうと梶原に対する畏敬の念を深めたものだ。中学三年生だから、中学生活最後の夏休みを有意義に送っているとばかり思っていた。
「そうだ」
 小此木はしゆくぜんとした面持ちでうなずいた。
「ご自宅近くのビルから転落したらしい。今朝になって発見されたそうだ」
「転落って……事故ですか」
「そう聞いている。詳しい事情はまだ分からない」
「今朝になって発見されたってことは、夕べから行方不明だったってことでは」
「分からん。今警察が調べてるって」
「警察が?」
 今度は沢本が声を上げた。
「部長、もしかしたら……」
「滅多なことは口にするもんじゃないよ、沢本君」
「は、申しわけありません」
 小此木にたしなめられ、沢本がうなだれる。
「ともかく、私どもはすぐに行って参ります」
 立ち上がろうとした秋吉を押しとどめ、小此木は荘重に告げた。
「いや、梶原家にはすでにくら常務らが行っている。君達は社にとどまって課内が動揺しないよう抑えてもらいたい」
 小此木の指示はもっともなものと言えた。まだ混乱しているであろう梶原家に必要以上の人数で押しかけても迷惑となるだけである。
「それから、例のプロジェクトは一時中止とする」
 衝撃がよほど顔に出てしまったのだろう、小此木がとがめるような視線を向けてきた。
「当然だろう。あれを統括しているのは梶原局長だ。さっき連絡があってな、梶原さんはしばらく休まれるそうだ。もしかしたら休職になるかもしれん」
 言葉もない。他人である秋吉から見ても、幹夫はまばゆいばかりにはつらつとした存在だった。そんな息子を失った父親の胸中がいかなるものであるか。想像するだけでも耐え難かった。
 重い空気を打ち破るように、それまで黙っていた亜寿香がおずおずと告げた。
「局長とご家族には大変お悲しみのこととお察しします。ですが、現場は私達で動かすことも可能です。プロジェクト自体を少しでも前に進めておいた方が、局長にとっても──」
「前島君」
「はい」
「そういうのをね、差し出がましいとか、さかしげな、とか言うんだよ。前にウチで『新紀元日本語大全』を出したとき、君はまだ入社してなかったっけ」
 実に嫌味な言い方で、つまた実に小此木らしい。
「申しわけありませんでした」
 亜寿香は即座にびる。
「何もわきまえておらず、お恥ずかしい限りです。勉強させていただきました」
 あからさまな迎合ぶりだった。
 秋吉よりも二歳下の沢本に対し、亜寿香は二十九とまだ若い。本人はアラサーだと自嘲しているが、その歳で課長補佐にばつてきされただけあって、何事にも嫌味なまでに抜け目がなかった。
 秋吉には、亜寿香の言にも一理あると思えたのだが、本人がここまでのリアクションを取っている以上、かえってその意見への同意は妨げられた。
「僕だってね、一時的なものとは言え、あれだけのプロジェクトをここで止めるのは断腸の思いだよ。しかし、たちばな専務が決められたことだ。社長も納得しておられるそうだし、こうなったらもうどうにもならんよ」
 妙に言いわけがましい口調が気になったが、上層部の判断であるならば、これ以上小此木に反論しても意味はない。
「分かりました。ご葬儀のお手伝いとかはどうしましょう」
 すると小此木は「それなんだがね」とさすがに声をひそめるようにして、
「局長ご本人の希望で、ご葬儀はお身内だけで済ませたいそうだ。これもまあ、他人がどうこう言える話ではないだろう」
 確かに他人が口を出せる問題ではない。沢本も亜寿香も黙っている。
「秋吉君、一課には参考書の新シリーズを全国的に展開する企画もあったよね。あの、左ページが全部マンガになってるってやつ」
「あ、『コミック学参シリーズ』ですか」
「そうそう、それ。例のプロジェクトで後回しにしてたけど、一課は当面あれの資料をまとめてほしい。それからね、変な噂が立ってご遺族に迷惑がかかったらそれこそ取り返しがつかん。念のため、全員に注意を喚起しておいてくれ」
 そこで小此木は両ひざをパンと叩いて立ち上がった。
「以上だ。じゃ、くれぐれもよろしくね」
 やむなく秋吉達も立ち上がり、一礼して退室した。
 第一課に戻る途中、D会議室が空いているのが目に入った。
「ちょっといいか」
 二人の部下に目配せし、先に立ってD会議室に入る。
 最後に入った亜寿香が、抜け目なく表示を「使用中」に変えてドアを閉める。
「みんなにはこれから改めて話すが、俺が戻ってきたとき、課の雰囲気がなんだかおかしかったのはこのせいだな」
「はい」
 沢本と亜寿香が同時に返答する。
「部長も『噂が流れている』とか言ってたが、どういうことなんだ」
「さあ、私が出社したときにはすでに課内がざわめいていて、梶原局長にご不幸があったとだけ……前島君、君は僕より先に来てたよね」
 沢本は助けを求めるように亜寿香を見た。
「第一報を受けて、総務がすぐに動こうとしたようです。けいちよう金のこととかいろいろありますから」
 亜寿香の回答はいつもながら的確であった。
「そしたら上の方から『ちょっと待て』と。雑誌か書籍部の社員がたまたまその場に居合わせたらしくて、それで噂だけが先行したみたいです」
「噂? どんな」
「亡くなった状況のことだと思います。おそらく……」
 いつもは率直な亜寿香が、警戒するように言葉を切った。
「ここには俺達しかいない。続けてくれ」
「単なる事故じゃないんじゃないかと」
「だったら大変じゃないか」
 冷房が効きすぎているのか、胸のあたりが急激に冷えたように感じられた。
「事件性があるのか。それで警察が調べてるってのか」
「そこまでは分かりません。でも、皆が動揺してるのは……」
 今度こそ亜寿香は自らの言葉を完全にみ込んだ。かつに口にすると不謹慎のそしりを免れないからだ。
 事故ではなく、自殺。もしかしたら、他殺の線もあるのかもしれない。
「そうか……」
 秋吉はうめいた。
 千日出版は大手と言われる老舗しにせ出版社であるが、秋吉の所属する教育事業推進部は、社内において言わば傍流であって決して主流ではない。そんな部署が、社運を左右すると言っても過言ではないほど、かつてない規模のプロジェクトを進めようとしていたその矢先に──
「分かった。すぐに戻ろう」
 率先して第一課のフロアへと向かう。雑誌やコミックは各階でそれぞれりの大フロアにまとめられているが、教育事業局は課ごとに分けられている。全体的にモダンな新社屋内にありながら、よく言えば伝統的、悪く言えば古めかしいその間取りが、かえって自分達の部署にはふさわしい気がして、秋吉は密かに愛着を感じていた。
 ドアを開けて中に入ると、部下達が一斉に振り返った。全員が自分達の帰りを待ちわびていたようである。
「みんな、ちょっと集まってくれ」

#1-2へつづく
◎第 1 回全文は「カドブンノベル」2020年1月号でお楽しみいただけます!


「カドブンノベル」2019年1月号


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