【連載小説】東京に行きさえすれば。実際そう上手くはいかなかった彼女のしんどさを、話を聞いた女たちも身に染みていた。王谷 晶「食う寝る処にファンダンゴ」#9-1
王谷 晶「食う寝る処にファンダンゴ」
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※本記事は連載小説です。
前回までのあらすじ
「穀潰し」として実家で暮らしてきた姫香。派遣切りで自室三畳半のシェアハウスの家賃に困る芽衣子。妊娠中の身で居候先の彼氏に逃げられたヨーコ。家出をした姫香は老女・岸ユキ江と出会い、古い大屋敷で住み込みのお手伝いとなることに。職も家も失った芽衣子はネットカフェへ。姫香とユキ江はヨーコに出会い、ユキ江は身寄りのない彼女を家に誘う。その岸邸に、家庭用給水器の訪問販売員としてやってきた芽衣子は、現状の生き辛さを切々と訴えた。
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ある日テレビで見た、細い靴の
芽衣子の家の周りにあるのは砂利と土とひび割れたアスファルトで、自分の家どころか近所中誰も踵の細い靴を履いている人はいなかった。一年の大半、空がどんよりと曇っていて、空気は冷たく湿気ていて、大人はみんな怖い顔をしている。
姉のおさがりのズック靴を履いた自分の足を見つめながら、芽衣子は頭の中で自分の未来を夢想した。そしてまだほんの子供だったから、夢を周りの人間に語ってしまった。
芽衣子の夢は誰からも馬鹿にされた。この町で女が見ていい夢は結婚と出産のことだけ。その見えないルールに気づくころには、はっきりと、絶対にここを出ていくという意思を自分の中に育てていた。ここは私がいるべき場所じゃない。ここじゃ私は絶対に幸せになれない。都会へ。東京へ。東京に行きさえすれば、全てがうまくいく。朝食に卵かけご飯、昼に納豆ご飯、おやつに握り飯が出てくる米まみれの生活から脱出してやる。東京で、朝にパンとカフェオレを食べる暮らしをするんだ。昼はパスタだ。夜は……夜はなんか、バーとか、そういうところで細いグラスでお酒を飲む。そういう暮らしを──
「おーい、起きれる? 飯買ってきたよ」
強い力で肩を揺すられ、ビクッとしながら芽衣子は目を覚ました。びっくりして吸い込んだ空気が
「食べなよ、とりあえず」
ふらつきながら
「あの……私……」
だんだん頭がはっきりしてくる。芽衣子を囲むように、三人の女が床に座っていた。一人はギャル、一人は老人、一人は太った若い女子。一瞬自分がどこにいるのか分からなくて、芽衣子は必死に記憶を
青ざめていた芽衣子の頰に一瞬赤みがさした。ぶち切れて自分でも覚えていない何事かを
「あ、あの、私、すみません。あの、帰ります」
急いで立ち上がろうとしたけれど、ふらっと
「無理すんなし。とにかく食べな。あんた死にそうな顔色してるよ」
ギャルがコンビニ袋から中身を出して芽衣子の目の前に並べた。おにぎり(鮭)、おにぎり(梅)、味付きゆで卵、ホットのほうじ茶。
「おにぎり……」
「ぶっ倒れるくらい腹減って疲れてるときは、糖質マジ大事だから。チョコとかでもいいんだけど胃やられる人いるし、おにぎりなら問題ないでしょ」
ころん、と転がっているおにぎりを見た瞬間、芽衣子の頭の中は真っ白になって、何も考えず手を伸ばしていた。無言でフィルムをはがし
芽衣子は五分もかけずにおにぎり二つとゆで卵を
「す……すいません。お金、払います。おいくらですか」
恐る恐る言うと、ギャルは手をぶんぶん振って「拒否」のポーズをした。
「いーよ。金無いんでしょ」
「でも、そういうわけには」
「あたしがいいっつってんだからいーっつの。……それよりあんた、住むとこないってマジの話?」
そんなことまでいつの間にか話していたのか、と思い芽衣子は恥ずかしさでまた顔を赤くした。そのとき、場に似つかわしくない朗らかな笑い声が上がった。老女がくすくすと笑っている。
「ばーさん、何がおかしいんだよ」
「だってあなた、こんな不思議なことがありますか。
「何言ってんのかぜんぜんわかんねーんだけど」
ギャルが口を
「お嬢さん、あなたお名前は?」
「た、
「芽衣子さん。いいお名前ねえ。そしたら芽衣子さん、あなたもここにお住みなさい」
▶#10-1へつづく
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