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連載

東田直樹の絆創膏日記 vol.56

【連載56回】東田直樹の絆創膏日記「「これくらい」ってどれくらい」

東田直樹の絆創膏日記

自閉症の僕が 跳びはねる理由』の作家・東田直樹さん。人とは違うこだわりや困難を持ちながら過ごす26歳の日常生活で、気づいたことや感じたことを、初の公開日記で綴ります。思いがけない発想に目からウロコ…!?
>>【連載55回】東田直樹の絆創膏日記「蓑虫になりたかった僕」

「自分の主張を認めないのは世の中が悪い」と考えている人は、思いのほかいる。どれだけ自分が正しいか説明するが、思うほど世間からは賛同を得られない。
 瞬時に情報が行き交う現代、世の中に認められたなら、広がらないはずはないだろう。
 それでも「自分は絶対に間違っていない」と主張し続けるのは、もしかしたら、この言葉は他人にではなく、自分自身に言い聞かせているのかもしれない。
 僕自身は「絶対に正しい」と言う人の意見は、信じないようにしている。
 社会において、多くの人から正しいと信じられているものはあるだろう。だが、そのほとんどは、時代や社会の移り変わりと共に変化するものだからだ。
 今正しいと信じられていることも、いつ何どき、間違いだったことに成りかねない。
「自分の主張を信じなければ、あなたが困る」と言われたとしても、現実には、世の中で、そう主張している人の存在すら知らない人間の方が圧倒的に多いのだ。
 人は、事あるごとに他の人をコントロールしようとする。あらゆる言葉や手段を使って。
 意見が違うなら、誰かが主張している考え方に賛成しなくても、悩むことはないと思う。
 一番大事なのは、どうしたら自分が幸せになれるかであり、それは誰かの真似をしても、残念ながら得られるものではない。
 人は、みんな違う。違うからこそ、それぞれの人生が尊いものなのだ。

「人は、意外とテレビドラマのラストを覚えていない」
 こんな企画をテレビで見た。
 出演者の人たちも「ほんとうだね」「そうそう」と全員がうなずいている。
 最終回を楽しみに番組を見続けていたはずなのに、ラストを覚えていないなんて、考えてみれば不思議である。
 ラストこそ、一番素晴らしいシーンだと、みんなが思い込んでいるだけで、印象的な場面は、他にあったのだろうか。それとも、記憶に残ったシーンが、自分の思い出にリンクしていたのだろうか。
 どちらも違うような気がする。
 最終回になり、いざ「これで終わり」と言われると、いよいよかとわくわくする反面、何だか寂しい。毎週、このドラマを待ち望んでいたのに、「あーあ」と残念に思う。そんな経験は誰にでもあるだろう。だが、最終回が終わってしまえば、落胆した気持ちも、やがて消えてしまう。
 そして、記憶には、最終回のストーリーではなく、ドラマを毎週心待ちにしていた時に自分が見たドラマの場面だけが、思い出として刻まれるのだ。当時、一番喜びを感じた出来事だったからに違いない。
 人というのは、わがままだと思う。
 先を知りたいと望み、興奮する。けれど、直接自分に関係がなければ、記憶から消去してしまう。
 覚えようとしても覚えられないもの、覚えなくてもいいのに覚えてしまうもの、脳と記憶の関係は謎だらけだ。

 電車の旅は、心をうきうきさせてくれる。僕の目に映る景色に全く同じものがないからだと思う。
 電車の窓から外を眺めると、街に新しいお店が出来ているのを発見したり、そこで暮らしている人々の様子を観察したりするのが楽しみだが、木や川の流れ、空に浮かぶ雲など、美しい自然の光景にも、僕は好奇心をそそられるのである。空の色も、風の流れも、光の射し方も、季節や時間帯によって微妙に変わる。
 もうひとつ、僕が夢中になっているのは、車窓から外を見る際、眼球を動かさずに一点を見つめることだ。どの一点かは、その時々で違う。
 視点を動かさず、そこだけ見つめ続けると、景色が飛ぶように流れていき、電車に乗って動いている自分を強烈に意識する。目的地に向かって進んでいる自分を、よりはっきり自覚出来るのだ。
 すると、自分がものすごい速さで移動している感覚になり、まるでタイムスリップしているみたいな気分になる。
 特に僕の乗っている電車のすぐ隣で、他の電車が並行して走ると、それぞれの電車の中で流れている時間と電車の外で流れている時間、この3つが、ばらばらに時を刻んでいるような錯覚に陥る。
「どの時間に意識を向ければいいのだろう」
 考えあぐねている間に、僕の体と意識が分離する。
 体から霊魂が飛び出し、肉体だけがどこかに運ばれていくイメージ。そんなミステリアスな体験が出来るのが、電車の旅の魅力である。

 「これくらいは許される」という見解は、人によって違う。その人の倫理的な価値観につながっているようにも思う。
 何をしていいのか、悪いのか、全ての物事は、自分で判断しなければならない。
 「これくらい」がどれくらいか、回数や程度で簡単には決められない。自分だけではなく、周りの人も同じ捉え方であることが必要だ。
 自分の感覚が世間の価値判断とずれていて、批判を浴びることはないのか、「これくらい」が容認される範囲は、至って難しいのが現実だろう。
「これくらいはいい」が許される状況は、ある意味、やさしい社会なのかもしれないが、「これくらい」の解釈が広がり過ぎると社会の規律は乱れる。
「これくらいは許される」を認めることで、自由の幅は広がるに違いない。
「これくらい」に明確な基準はないけれど、何となくみんなわかってくれるし、許してくれる。
 つまるところ、「これくらい」は自分の行動に対する言い逃れのために存在する言葉のような気がする。
 常に常識を求められる毎日、窮屈になりがちな生活に潤いをもたらすのは、ともすると、はめを外したかのような少し子どもじみているくらいの行動なのだろうか。
 物事の善悪は、いいか悪いかでは決められないものが、ほとんどである。
 だから「これくらい」は、どれくらいかわからないあいまいな表現で、ちょうどいい。


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