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その大男は「仁勇」を持って幕末に現れた

 二〇一八年のNHK大河ドラマの主人公、西郷隆盛が登場する小説が次々に刊行されている。原作となった林真理子の『西郷どん!』のほか、加賀藩士の視点から西郷を描く伊東潤の『西郷の首』、西郷を護る青年剣士にフォーカスした佐藤賢一の『遺訓』など、それぞれに手だれの作家たちの西郷観が見て取れる。つまり作家の数だけ西郷隆盛がいることになり、そこにこそ歴史「小説」の醍醐味がある。では、時代小説『(ひぐらし)ノ記』で直木賞を受賞し、歴史小説『鬼神の如く—黒田叛臣(はんしん)伝—』で司馬遼太郎賞を受賞した葉室麟の西郷像とはどのようなものなのか。
 アメリカの黒船が浦賀に現れるより七年も早い一八四六年、琉球にはすでにフランス艦隊が二度目の来訪を果たしていた。軍事力を背景に通商を要求するフランスに、琉球は薩摩の力を借りるほかないと決断する。薩摩藩の次期藩主、島津斉彬はこの事態を、薩摩一藩の問題ではなく、日本という国そのものの危機として捉えた。すでにこの四年前にはアヘン戦争で大国、清が英国に敗れていたからだ。欧米の帝国主義がアジアへと及んだ、まさに「国難」の時代である。
 西郷吉之助(きちのすけ)はこうした時代に大人になろうとしていた。初登場時の年齢は二十歳。郡方書役(こおりかたかきやく)として出仕するごく普通の武士である。大家族に生まれ育ち、貧しいが明るくものごとを考える大男としてまず読者の前に現れる。
 薩摩は当時、武士の十分の一が集中していた軍事集団だったという。そのなかでなぜ西郷は頭角を現すことができたのか。島津斉彬が理想とする人材についてこう言っている。「余が使うのは、仁勇の者だ」「世の中をまことに動かすのは、仁を行う勇を持った者であろう」と。江戸期まで日本人の行動の原則となっていた儒教の教えによれば、知・仁・勇を三徳とする。知は理性的な判断力、仁は他者への優しさ、勇は実行力である。斉彬のこの言葉を聞いた、大久保一蔵(いちぞう)(のちの利通)の父、大久保利世(としよ)は、息子の親友である西郷を思い浮かべる。出自と仕事は平凡でも、西郷は若き日からその人徳で周囲を瞠目(どうもく)させていたのである。
 抜擢(ばってき)人事により江戸出府を命じられた西郷は、お庭方としてさまざまな人物に出会い、成長していく。とくに尊王攘夷派の理論家たち、藤田東湖(とうこ)、橋本左内(さない)らとの交流は濃厚である。また、主君である斉彬もまた大きな存在だった。次期将軍に英明で知られた一橋慶喜を担ごうとする斉彬の構想を実現するため、西郷は奔走する。しかし、彼らの前に徳川慶福(よしとみ)を擁立しようとする水野忠央(ただなか)らが立ち塞がる。
 教科書に出てくる西郷は、幕末から明治にかけて重要な役割を果たしたが、最後は西南戦争に敗れて自刃してしまう悲劇のヒーローである。しかし『大獄』で描かれている西郷はまだ若く、歴史の大舞台には登場していない。ゆえに西郷の思想がどのように形作られ、持って生まれた「仁勇」がいかに磨かれていったのかが、書物や人との交わりを通して丹念に描かれている。
 なお、作者は続けて西郷の生涯を描くとのこと。大作の予感を抱かせる第一弾である。

乾山晩愁(けんざんばんしゅう)
葉室 麟
(角川文庫)
葉室麟の歴史小説の原点ともいえる、歴史文学賞を受賞した表題作を含む短篇集。いずれも実在の絵師、陶工ら、現在では「芸術家」と分類される人々を描いている。それぞれの人生のある部分を鮮やかに切り取る視点の確かさは『大獄』にも共通する。


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