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レビュー

文学的な感性が誘う 世にも恐ろしく甘美な死へと向かう旅

 澤野逸郎は四十代半ばの文芸編集者。根っから小説が好きでこの仕事を愛している。そして、ついに伝統ある文芸誌の編集長の座についた。出版不況とはいえ、大手出版社に勤めているため、同世代のサラリーマンのなかでは恵まれた給料を貰っている。家庭では幼稚園に通う双子の娘の父。妻から睡眠時無呼吸症候群を指摘され、クリニックに通うほかは大きな病気もしていない。見栄っ張りな妻の言動に違和感を持つことはあるが、まずは順風満帆の人生といっていい。
 物語の前半は、編集者の仕事がディテール豊かに描かれる。作品づくりへの協力や、遊びでのつきあいなどを通して小説家たちのエピソードが紹介され、文壇もの、業界のバックステージものとして楽しめる。編集者の眼から見た作家についての論評も興味深い。たとえばこんな一節がある。

小説家にとって重要なのは自分を切り売りする鈍感さと、第三者から見ると理解しがたい言語化不可能な過敏さだ。この相反するふたつの要素のバランスこそが小説という散文表現を高める核だ。

 
 この作家論は作者である花村萬月が日頃考えていることを書いているようにも思えるし、小説である以上、このように作家を分析的に見る澤野という人物の文学的感性を表しているとも取れる。本当らしいウソを描く小説は、文字だけで何層もの虚と実を重ねることができるのだ。花村萬月はいかにもベテラン作家らしくその強みを存分に使い、読者を物語のなかに引きずり込んでいく。
 多忙だが充実した日々を送る澤野の日常に変化が起きるのは物語のなかほどだ。きっかけは澤野の不倫である。相手の若い女性もまた澤野と同様に文学を生きる糧としてきた。いわば同類だ。その象徴ともいえるのが、彼女の口から語られる「学生時代は厭なことがあってもニコニコ顔で対処して、自分の部屋で鉛筆を折ってました」という言葉だ。「バキッ」という鉛筆を折る音は、この小説の展開を大きく変えていく。編集部で伝染病のように鬱病が流行りだし、澤野自身も睡眠薬に頼るようになる。やがて悲劇が起こり、それまで蓋をしていた秘密が暴かれ、地下から噴き出たマグマのように、澤野の人生を大きく揺さぶっていく。
 タイトルに「心中旅行」とあるように、後半は死へ向かっての道行きがたっぷりと描かれる。澤野はかつて一人でクルマを駆って北海道へ旅し、流氷を見た経験があった。そのときは流氷に乗って陸地の方角がわからなくなり、死の恐怖を味わった。物語の前半で澤野が家族に何気なく語ったその旅は、いわば生への執着を確認した体験だったといえる。しかし、後半ではそれが心中旅行の目的地へと反転する。
 花村萬月はこれまで数多くの小説を書いてきたが、いつも尋常ならざる方法で「生きる」ことに光を当てる。読者をいったんリアルな日常に沈めてから、一気に虚構の世界へと引き上げ、精神的な彷徨を経験させるのだ。この作品でいえば、その行き先は死を覚悟した旅ということになるだろう。しかもその道行きは世にも恐ろしく甘美なのである。

『いまのはなんだ? 地獄かな』
花村 萬月
(光文社文庫)
文学、旅という題材が『心中旅行』と呼応する作品。五十代後半で一人娘を得た小説家の愛葉條司は子育てを通して未知の領域を知っていく。しかし、妻に暗い影が差していることに気づかない。育児「あるある」がやがて先の読めない展開へと進む。異色の家族小説。


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