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レビュー

浅田次郎、初のミステリにして極限の人間ドラマ。地に足を付けて生きた人々の側から戦争を書く『長く高い壁』【文庫解説】

文庫巻末に収録されている「解説」を特別公開!
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『長く高い壁 The Great Wall』文庫巻末解説

解説
ぶちのりつぐ

 万里の長城にひるがえる日章旗──。その鮮やかなイメージに、小銃を構え、真剣な面持ちで前を見すえる若い兵士の姿を重ねれば、しくも勇壮な戦争プロパガンダの画面ができあがる。しかし、作中のやなぎいつ先生の言葉を借りれば、「見た通りの人間は、ほとんどいるもんじゃない」。つまり、見た目に欺かれてはいけない。小柳が「長く高い壁」に掲げられた日の丸の下で目にしたのは、戦場のロマンとはうらはらの、日本軍兵士たちのうつうつとした現実の姿だった。
 浅田次郎『長く高い壁 The Great Wall』は、作者が初めて手掛けた戦場ミステリー小説である。名探偵役は、当代きっての探偵小説作家・小柳逸馬。切れ味鋭い推理でクールに真相に迫るというよりは、酸いも甘いもかみ分けた人間的な懐の深さの方が印象的な人物だ。助手役のかわ中尉は、陸軍の検閲担当官という立場と小柳先生に私淑するミステリーの大ファンという心情の間で揺れ動く生真面目な秀才。物語は、のちに「マレーの虎」の異名を取ることになるやましたともゆき参謀長の密命で、二人が事件現場に赴くところから動き始める。
 あらためて作品の背景を確認しておこう。小説の舞台は、一九三八年十一月の中国大陸である。前年七月にこうきようで火がいた戦争は一挙に中国各地に飛び火し、開戦直後に北京ペキン天津テンシンを占領した日本軍は、西はほく省とさん西せい省の主要都市に侵入、一九三七年十一月から十二月にかけて、大きな犠牲を払って上海シヤンハイ南京ナンキンを占領する。続く一九三八年春にはじよしゆう、秋には中部のかんと南部の広東カントンを目指した大規模な軍事作戦を展開した。日本の軍と政府が文藝春秋社のきくかんに声をかけ、文学者たちを国費で戦地に派遣する「従軍ペン部隊」を作らせたのは、この武漢作戦のときである。
 緒戦の展開をこのように記せば、中国での日本軍は破竹の進撃を続けたように見える。新聞や雑誌の報道で、中国大陸の地図が日本と同じ色に塗られていくさまを目にしていた当時の人々も、おそらくは同じ思いだったろう。しかし、実際には日本軍は、都市や拠点を占領したあとも、しようかいせき率いる中国国民党軍、もうたくとうを指導者とする共産党軍のゲリラ戦と、それを支えた民衆の抵抗に苦しめられていた。作中で語られているように、小柳先生たちが向かったみつうんは、何事もなければ北京からトラックで約三時間、広い中国大陸の中では指呼とも言える距離しかない。そんな場所でも日本軍は、「きよう」=共産党軍のゲリラの影に神経をとがらせていた。こうした設定からうかがえるのは、作者の想像力が、年表や地図だけでは分からない日中戦争のリアルに迫ろうとしていることだ。
 浅田次郎は、近作『天子蒙塵』の登場人物に「戦争の記憶をうしなった」軍隊は、戦争の痛みと平和のありがたみを忘れてしまう、と言わせている。同じことは社会にも言える。一九四五年の敗戦から七十五年が過ぎ、戦争や軍隊をめぐって、かつての人々にとって常識だったことが分からなくなってしまっている。
 例えば、へいえきをめぐる不平等である。しばしば誤解されるが、戦前・戦時の日本男性は、誰もが同じように兵役を経験したわけではない。軍隊も国家機構の一部である以上、予算という制約がある。軍縮の時代は軍事予算が減額されるから、徴兵検査に「甲種」で合格しても、全員が現役兵として徴集されるわけではなかった(作中でじま曹長が「くじきの口」と言われるのはそのためだ)。学歴の有無も重要な問題だった。『長く高い壁』の人物で言えば、中学卒のやまむら大尉と帝大出の川津中尉は、職業軍人ではないが士官への道が開かれていた。戦場で兵と下士官と将校とでは死傷率が明らかに違っていたから、ことは命の不平等にもかかわっていた。ひとは、いつ、どこで、どんな環境で生まれるかを選べない。山村大尉がつい「運命」という言葉を口にせざるを得なかったように、戦争と軍隊は、日本の男たちのライフコースを決定的に左右する要因だったのである。
 おそらくここに、『長く高い壁』がミステリーの形式を選んだ必然がある。評論家のかさきよしは、第一次世界大戦以降の大量死の時代のミステリー小説は、手の込んだやり方で人間を殺すことで、逆説的に生の固有性を取りかえそうとしている、と論じている(『模倣における逸脱 現代探偵小説論』)。トリックの謎を解き、犯人を突き止め、犯罪の動機を明らかにすることは、死者と犯人の人生を物語として取り出し、たどり直すことに他ならないからだ。
 そう考えると、ちようれいの監視しように横たわった遺体を前にした小田島憲兵曹長が、「こいつらはろくでなしの兵隊だが、みんな赤紙一枚で引っ張られてきとるんですよ。親もあれば、女房子持ちもおるんです」と述懐するのは象徴的である。他の事件関係者も同様だ。小柳先生、川津中尉、小田島曹長によって行われた取り調べの場面が、それぞれの人物の一人称語りのかたちで提示されていたことに注意しよう。いかにも現場たたき上げの刑事然とした小田島は、張飛嶺守備隊の生存者をいったん現地の小学校に閉じ込めたが、召集前は代用教員だったあお軍曹は、学校に通えない中国人の子供たちのことが気になってしまう。ばくろうの息子のとう一等兵は、馬たちは好きで戦争に来たわけではない、戦争が終われば人間は日本に帰れるが、軍馬はそうではないと口にする。自分にはつましい小市民として以外に生きようがないという風でふてぶてしく開き直る山村大尉、言葉づかいこそ粗暴だが、小柳の名を知り、彼の役割を見ぬく知性の持ち主でもあるうんちよう。取り調べに先立って紹介される兵籍簿の記述は、まさしく彼らの人生の縮図である(そして、この兵籍簿が最後の謎解きのかぎともなっている)。そこに人間がいる以上、それぞれの生があり、それぞれにとっての戦場がある。大切なものがあり、信じるものがあり、決して譲れないものがある。もちろん、かけがえのない生を生きているのは日本軍の将兵だけではない。地元の実力者にして日本軍の密偵でもあるチヤンイードーは、小田島に向かって、「親を殺された。妻を辱められた。商売をつぶされた。家を焼かれた」中国人たちの憎しみを忘れていないか、という一言を突きつける。
 作中で人物たちが度々くり返したように、日本にとっての日中戦争とは、戦う理由がいだせない「わけのわからぬ戦争」だった。それでも、一度まわり始めてしまった国策という名の歯車を押しとどめることは難しい。この事件を処理する中で、小柳先生も川津中尉も、結果的に戦争という機械を円滑に動かすことに力を貸してしまった。しかしそれは、彼らが戦争の、時代の論理に屈服したことを意味しない。作中で川津中尉が、中国料理にしたつづみを打ちながら、この戦争の意義を考えるシーンは印象的だ。


長く高い壁 The Great Wall
著者 浅田 次郎
定価: 748円(本体680円+税)


 支那は貧しい国だと聞いていたのだが、川津にはどうにもそうとは思えない。少くとも食生活に関しては、日本よりずっと豊かであるにちがいなかった。〔略〕
 むろん庶民の暮らしぶりまで知っているわけではないが、街を歩いているだけでもそうした豊かさを肌で感じた。
 だとすると、この戦争の大義は怪しい。軍閥の支配から支那国民を解放する聖戦などではなく、日本が豊かな国をさんだつしようとしているのではないかという疑念を、川津はどうしても拭い去ることができなかった。(145-146ページ)

 中国の「食」から大地の豊かさを思いやり、モノやカネでは測れない暮らしの豊かさに心付くというのは、いかにも『蒼穹の昴』シリーズの作者らしい思想だと思う。浅田次郎は、わずか三日間の出来事を描く中で、万里の長城が「長く高い壁」に見える場所、中国の大地の側から、地に足をつけて生きた人々の側から、日本軍の戦争を見つめなおした。戦争は数に還元されるべきものではなく、あくまで生身の人間がくり広げる営みとしてある。だからこそ、小説で描かれる意義がある。

作品紹介



長く高い壁 The Great Wall
著者 浅田 次郎
定価: 748円(本体680円+税)

軍の論理では割り切れぬ、人の心を従軍作家が解き明かす。戦場の人間ドラマ
1938年秋。従軍作家として北京に派遣されていた探偵小説作家の小柳逸馬は、軍からの突然の要請で前線へ向かう。
検閲班長・川津中尉と赴いた先は、万里の長城・張飛嶺。
そこでは分隊10名が全員死亡、しかも戦死ではないらしいという不可解な事件が起きていた。
千人の大隊に見捨てられ、たった30人残された「ろくでなし」の小隊に何が起きたのか。
赤紙一枚で大義なき戦争に駆り出された理不尽のなかで、兵隊たちが探した"戦争の真実"を解き明かす、極限の人間ドラマ。

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