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華麗なる財閥一族の没落を描く、山本周五郎の隠れた名作――『火の杯』山本周五郎 文庫巻末解説【解説:清原康正】

没落の際に立つ上流階級たちの欺きあいを描いた、戦後サスペンス。
『火の杯』山本周五郎

角川文庫の巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。



『火の杯』文庫巻末解説

解説
きよはら やすまさ 

 やまもとしゆうろうが亡くなったのは1967年(昭和42)2月14日のことであったから、本文庫刊行の2024年(令和6)2月は没後57年にあたる。
 かつて〈曲軒〉とあだされ、直木賞など文学賞はすべて辞退するなどくつの精神を示して、さまざまな孤高の伝説を持つ周五郎は、その63年7か月の生涯を通して、時代・歴史小説だけではなく現代小説も含めて、数多くの長篇・短篇作品を書いた。長篇『もみノ木は残った』の中に「人間はみな同じような状態にいるんだ、まぬがれることのできない、生と死のあいだで、そのぎりぎりのところで生きているんだ」というセリフが出てくる。そんなぎりぎりのところで生きている人間の哀歓や苦衷などを、周五郎はまっすぐに見つめ、山周節と称された独特のじよじよう性豊かな文体でつづり出して読者を魅了した。
 周五郎の人間凝視の眼は、人間の根っこを探り出す徹底して非情なものであったが、庶民の側に立脚してその日常を凝視し、ありのままの姿を描き出すことで、温かな眼差しをも感じさせた。こうした姿勢こそが山本周五郎文学の基本的な態度であった。そこに周五郎の限りない包容力をも感じ取ることができる。周五郎のこうした透徹した人間凝視の眼は、その人生体験から培われていったものである。
 1903年(明治36)6月22日に山梨県きたはつかり村(現・おおつき市)で生まれた山本周五郎(本名・清水しみず)の前半生は苦難苦闘の連続だった。4歳の時に豪雨による山津波で祖父母らを失って東京に転居し、さらに3年後には荒川はんらんの被害でよこはま市に移っている。小学校を卒業して質店の住み込み店員として働いていた1923年(大正12)の関東大震災、1928年からのうらやすでの窮乏生活にままならぬ文壇進出、と物心両面にわたるかんなんしんの日々が続いた。1930年にきよえと結婚して神奈川県のかたに新居を定めてから少年少女雑誌の仕事が増えていった。翌年には東京のごめに転居し、「馬込文士村」の作家たちとの交友が始まった。戦局がひつぱくしていた1945年5月4日に妻が36歳で病死。4人の子供を抱えての窮状下で、初期の代表作「日本婦道記」シリーズを書き継いでいった。1946年1月に吉村きんと再婚し、翌月に横浜市なかほんもくへ移って生活を一新して、戦後に向けての執筆活動を開始した。
 下町ものをはじめとする市井もので、周五郎は江戸期の庶民生活を生き生きと描き出して人気を得ていった。江戸の長屋に住む人々の暮らしの実感と哀歓をとらえた周五郎の鋭い視線は、現代小説の中にも見てとれる。日々の暮らしの中で、貧しさの中で、苦悩の中で、人は何を求めて、何を救いとして、それぞれに生きているのか、という命題が現代小説からも感じ取れる。現代社会に生きる人々の赤裸々な生態を見通す鋭い観察眼が小説の核をなしているからだ。
 本書『火の杯』は、1951年9月18日から翌年2月29日にかけて「福島民友新聞」に連載された現代小説の長篇である。時代背景は、太平洋戦争末期、敗戦の間際から敗戦直後にかけての混乱の時期。物語は、高原の別荘で催されている退廃的な空気が充満する上流階級の乱痴気パーティーの場面から始まる。主人公の御池康彦は日本最大の財閥・御池家の二男として生まれたが、生母不明の庶子で一族の中では異端者扱いされてきた。こうした出自の秘密に加えて、康彦には5つの年にあおやまの屋敷の古井戸に落ちて丸2日間、助けを求めて泣き叫んでいた時の恐怖の記憶が鮮明に残存していた。そしてもう一つ、心が深く傷ついたことがある。17歳の年に20歳年上で御池家のお抱え運転手の妻・松原数江に恋していたのだが、彼女が康彦の父と関係を持っていることに気づき、彼女の裏切りを許せずにいた。これらの暗い出来事から、康彦は「自分はこの家へ生れて来るのではなかった。間違った処へ生れて来たんだ……しかし、ではどこへ生れて来たらよかったのか」と思い悩む。
 敗戦で財閥は解体となったが、財産隠匿のために、康彦はたちかわの空襲で死んだことにされ、戸籍簿から抹消されて友田浩二という変名を与えられてしまう。亡父がくれた「マカロニ」「スパゲティ」という暗号の遺産の書類を渡すように、と御池財閥当主で康彦の異母兄・康光が要求してくる。亡父の遺産には全く関心がない康彦なのに、自動車にはねられそうになったり証券拐帯の犯人にされて拘置所入りとなったりと散々な目にあう。
 そんな康彦の傍にいて支えてくれたのは、康彦のかつての恋人・松原数江の娘・夏子であった。康彦の複雑に屈折した内面描写とともに、友田浩二を康彦とは知らずに愛してしまう夏子の揺れ動く心理も並行して描き出されていく。その筆致は純文学的手法と言っても過言ではないほどに、周五郎の筆は隅々にまで及んでいて物語の進行に緊迫感を添えている。こうした緊迫感に加えて、夏子の母・数江が密かに持っていた「康彦の日記」の存在が物語の進行にミステリアスな興趣をもたらしてくる。夏子は母から託されたこの秘密の包みを必死に守ることで、友田浩二=御池康彦への愛を全うするのである。
 さらにもう一つ、この作品には、周五郎の遊び心とも言うべき仕掛けがある。悩める夏子が相談に乗ってもらう、馬込に住む小説家・山木周平の存在である。周五郎は1931年から1946年までの15年間、この地に住んでいた。小説の中に夏子が馬込の空襲を体験する生々しい場面が出てくるが、これは周五郎が実際に体験したことである。山木に隣組の組長をさせているのも、やはり体験に基づくものだ。こうした私小説風なものをトッピングさせて興趣を盛り上げているのだ。
 この新聞連載開始前の「作者の言葉」が残されている。「敗戦によって、われわれは大きな社会的変革に当面した。現在なおそれは継続されつつあるが、はたして『なに』が『どれだけ』変革されたであろうか」と記されている。これまでの半生はすべて受け身だったと反省する康彦は運命に立ち向かうことを決意し、これまで取ろうとしなかった火の杯を手にしようと思う。康彦にこう決意させることで、「どれだけ」変革されたか、の一つの到達点が示されている。
 周五郎の新聞連載は、戦前では『風雲海南記』(「東奥日報」1937年11月~)と『新潮記』(「北海タイムス」1943年6月~12月)の2本だけで、戦後は『やまびこ乙女』(「夕刊朝日」1951年6月18日~9月30日)を皮切りに『火の杯』『樅ノ木は残った』『天地静大』『季節のない街』『おごそかな渇き』と続いていく。『火の杯』は戦後に手がけた初の現代長篇だけに意気込んで開始したものの、「ひどく骨が折れる」とゆうぞうにあてた葉書(県立神奈川近代文学館蔵)で近況報告している。注目すべきはそのあとに「しかしやっぱり骨の折れる仕事は楽しい。こんどは私小説(にはしないが)的部分があるから、その点でちょいと道楽もするつもりである」と記しているところだ。先に挙げた山木周平の人物設定とキャラクターも「道楽」の一つであろう。どんな箇所で「道楽」がなされているかを探り出す楽しみは読者の道楽ともなろう。

作品紹介・あらすじ



火の杯
著 者:山本周五郎
発売日:2024年02月22日

華麗なる財閥一族の没落を描く、山本周五郎の隠れた名作
日本屈指の財閥・御池家の御曹司に生まれた康彦は、出生に関する秘密を抱え、不遇な青春時代を過ごしていた。敗戦後、GHQの財閥解体によって、御池家は存続の危機を迎える。時を同じくして、お抱え運転手の娘・夏子のもとには、怪しげな男が現れるようになっていた。彼女は康彦の亡父が遺した莫大な遺産に関する重要な情報を握っているというが……。没落の際に立つ上流階級たちの欺きあいを描いた、戦後サスペンス。

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