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レビュー

流れる涙をぬぐおうとはしなかった。いつかの夜とおなじように。――『ダナエ』藤原伊織 文庫巻末解説【解説:塩田武士】

不世出の偉才・藤原伊織による、珠玉の短編集。
『ダナエ』藤原伊織

角川文庫の巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。

ダナエ』著者:藤原伊織



『ダナエ』文庫巻末解説

解説
しおたけ (作家)

 ちょうど四半世紀前の夏、私は兵庫県にある自動車教習所のベンチに座って一冊の文庫本を開いた。

 ——十月のその土曜日、長く続いた雨があがった。——

 すばらしい小説は、冒頭の一文に独特の形の良さがある。ただの読書好きだった十九歳の私にも「何かある」と直感が働いた。
 そして次の段落を読んで、語りの切れ味の鋭さに心をつかまれた。余計な描写は何一つなく、淡々としかし確実に「くたびれたアル中の中年のバーテン」の遅い朝が浮かんでくるのだ。
 幸い学科教習が始まるまで、まだ時間があった。私はもう少しこの色気漂う主人公の語りを聞いていたかった。
 展開の早さと端正な文体が何のもなく共存し、私は瞬く間に物語の世界へと放り込まれた。しばらくは「あと少し」と思いながら読んでいたが、そんなリミッターはすぐに壊れてしまった。
 周囲の騒がしさに嫌な予感がして時計を見たとき、私は天を仰いだ。既に学科教習の時間が終わっていたのだ。気づかぬうちに世界が一時間ほど前へ進んでいて、貧乏学生だった私は「一限分のお金が……」と束の間落ち込んだのだが、それよりも小説の続きが気になった。移動するのも億劫になり、結局、教習所のベンチの上で読了。
 本を閉じて物語の余韻に浸った私は、人間の時間感覚を狂わせた小説の威力に胸がいっぱいになった。
 エンターテインメントの世界に憧れ、私は中学生のころからネタ帳をつけ始めた。高校時代には漫才コンビを組んで関西の小さな事務所に所属して舞台に上がったものの、結果を出せずに解散。劇団に入って喜劇役者を目指したこともある。
 何をやってもうまくいかなかった。しかし、私は気づいてしまった。小説は読むだけでなく、書くこともできるのだと。
 集団行動が苦手な私にとって、誰にも気兼ねせずに自分の世界観を創り上げる小説は、最高のエンターテインメントだった。それは読者も同じだ。好きな時間に本を開いたり閉じたりする自由があり、文庫本なら数百円で楽しめる。
 こんなにありがたい娯楽が他にあるだろうか。歩むべき道を見つけた私は、嬉しさのあまり何だってできる気がした。全てが光で包まれているような多幸感は、今も鮮明に胸の中にある。
 教習所のベンチの上で決心した。小説家になろう、と。私は帰りに文房具店に寄って四百字詰め原稿用紙を大量に買い込んだ。そしてその日から今に至るまで、毎日原稿を書き続けている。
 藤原伊織の『テロリストのパラソル』が、私の人生を変えた。憧れの作家の作品解説を担うことに、無上の喜びを嚙みしめている。

『ダナエ』は中短編の三作から成る。中でも表題作の『ダナエ』は、『テロリスト——』を彷彿とさせる第一級のハードボイルドだ。

 ——一報をうけてもどると、あおざめた表情で出むかえた。——

 助走を許さず、書き出しから明確に事が起こっている。この後、勿体をつけることなく「いつ、どこで、何があったのか」が提示されるおかげで、読者はストレスを抱えず物語に没頭できる。やはり藤原伊織はツカミの名手だ。
 世界的評価を得る画家の宇佐美真司が銀座の大手画廊で目にしたのは、切り裂かれて硫酸をかけられた自らの作品。新聞に「今年最大の収穫のひとつ」と評された肖像画が、見るも無残な状態になっていた。
 画廊関係者が狼狽する中、当の宇佐美はまるで動じず、警察への通報も断る。他人事のように思い出したのは「ダナエ」事件。
 一九八五年、旧ソ連のエルミタージュ美術館に展示されていたレンブラントの「ダナエ」が、リトアニア人の青年によって硫酸をかけられ切りつけられた実在の事件である。画廊で個展の受付をしていた二人の女性職員が、不健康なほど痩せた少女を目撃していた。犯行時間帯に大きなバッグを持って来場した唯一の人物で、記帳せずに去って行った。
 そして宇佐美が女性たちから話を聴いているまさにそのとき、一本の電話がかかってくる。受話器の向こうにいたのは犯人と思しき少女で、彼女は次の犯行を予告する。
 続く第二節では、画廊近くの喫茶店に目撃者の女性たちが入ってきて、偶然死角で隣り合わせた宇佐美が彼女たちの話に聞き耳を立てる、というシーンを描く。
 うまいのは、この女子の会話を通して宇佐美の半生を完結にまとめてしまう点だ。彼の義父は財閥のボス古川宗三郎で、硫酸をかけられた肖像画はこの義父を描いたものであること、大企業の経営者である実父に勘当されたこと、若いころは最初の妻に食べさせてもらっていたこと——これらはその後の展開に直結する重要なポイントであり、早い段階で整理することでグッと読みやすくなる。
 古川の娘、恭子と宇佐美は再婚同士だが、その結婚生活は破綻している。アルコールに溺れて自堕落に過ごす妻とアトリエにこもる夫。恭子は前夫との間に別れて暮らす娘がいて、彼女が十七歳であることから〝重要参考人〞として浮上する。宇佐美は興信所を使って前夫と娘について調べるのだった。
 犯人はなぜ「ダナエ」事件をまねたのだろうか。そこにメッセージがあるのなら、ギリシャ神話に登場する美女「ダナエ」とその家族の物語に焦点が合う。古川を王アクリシオス、恭子を娘のダナエと置き換えると、孫の存在が俄然危うく映る。
 腕に覚えがあるわけではないものの、身長一九〇センチ近くある宇佐美は古川のボディガードを買ってでた。毎週土曜日の句会のときが危ないとみて遠くから警戒する。
 だがこのとき、興信所の調査結果を手にした宇佐美の胸の内には、別の可能性が浮上していた。彼はある意外な人物を呼び出し、一つの綻びから真実を手繰り寄せる。
「ダナエ」を巡る流れるような展開から、意表を突く真相に帰結するわけだが、本作の真骨頂はむしろその後にある。
 危機は宇佐美自身に忍び寄っていた。犯人によって〝人質〞に取られたのは、彼のアトリエ。その中には宇佐美が何よりも大切にしている自作の静物画があった。「古いテーブルに壊れたアコーディオンと古い石油ランプがのっている」シンプルな構図ながら、完成までに数年を費やした。
 ハードボイルドの一番の見せ場は、ずっと冷静を保っていた主人公が感情的になる一瞬だ。そこにき出しの人間が現れる。背負ってきた人生を読者と共有する豊かな時間。
 塗り重ねられた油絵の具の間に、何者でもなかった宇佐美真司の若かりし時が封じ込められていた。
 果たしてアコーディオンと石油ランプは何を意味するのか。宇佐美は言う。「これは静物じゃない」と。「かつての生活の肖像なんだ」という言葉が切ない。
 そして宇佐美は唇を嚙みしめ、静かに泣き続けた。だが、その涙が生む新たな関係性に救いの光が差し、物語は静かに幕を下ろす。

 心に染み入る作品だ。
 作者は主人公の空虚な日常を表すのに萩原朔太郎の詩を繰り返し引用し、美術界の年功序列と閉鎖性を的確に描写している。芸術性と写実性を兼ね備えることで深みが増す、大人の小説と言っていい。
 藤原作品に共通する主人公の包容力。宇佐美もまた、有事に際しても冗談一つ分の余裕を持つ男である。かっこいい男の条件はシンプルだ。悲哀を絵にできるか否か。だが、これが難しい。
 表面的な正しさや優しさがネット空間を蠢く現代において、藤原伊織の粋は人間に質感を与える。何でもあけすけにする品のない世の中だからこそ、秘する力を持つ登場人物たちがまぶしい。
 情報過多で心が疲れやすいこの時代、人間の本質を描く本書の存在は、ひと際尊いものになっている。

作品紹介・あらすじ



ダナエ
著者 藤原 伊織
定価: 770円 (本体700円+税)
発売日:2023年04月24日

流れる涙をぬぐおうとはしなかった。いつかの夜とおなじように。
世界的な評価を受ける若き画家・宇佐美の個展で、義父を描いた作品が無残に破壊されるという事件が発生。ナイフで切り裂かれ、硫酸をかけられたその惨状はまるで、同様に破壊された巨匠・レンブラントの「ダナエ」に酷似していた。脅迫電話をかけてきた容疑者は少女で、これは予行演習であると告げる。宇佐美は、妻が前の夫のもとに残してきた一人娘が容疑者ではないかと推測するが……。犯行は義父への恨みによるものなのだろうか?(「ダナエ」) 不世出の偉才・藤原伊織による、珠玉の短編集。

詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322210000681/
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