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レビュー

【解説:佐藤賢一】現役医師の著者が開く、高齢者医療と文学的命題への新たな扉――夏川草介『勿忘草の咲く町で 安曇野診療記』文庫巻末解説

生きることと死んでいることはどう違う?現役医師が描く高齢者医療のリアル
夏川草介『勿忘草の咲く町で 安曇野診療記』

角川文庫の巻末に収録されている「解説」を特別公開! 
本選びにお役立てください。

夏川草介『勿忘草の咲く町で 安曇野診療記



夏川草介『勿忘草の咲く町で 安曇野診療記』文庫巻末解説

解説
とう けんいち(作家)  

 もう五十をすぎて数年たつ。人間ドックの数値も、全てクリアとは行かない。わけても悪玉コレステロールが高いというので、少し前から病院に通っている。三カ月に一度の採血で、担当医に数値をみてもらうのだが、まあ、思うようには改善しない。まだ薬はやめられませんねえ、と?られる格好になるのだが、そうすると、気まり悪いというか、妙に悔しいというか、何か返さないではいられなくなる。
「しかし、先生、そんなに健康になったら、私、とんでもなく長生きしてしまいませんか」
「えっ」
「だって、グルメブームだのとはしゃいでいた上の世代が、現状これだけ長生きしているわけじゃないですか。四十すぎるや、メタボとか何とかいわれて、食事から生活習慣から気をつけさせられてきた私の世代なんか、下手すると百まで生きるのが当たり前になってしまいますよ。そうなったら、この社会は高齢者医療を支えきれなくなるでしょう」
 我ながらの減らず口で、多分に冗談口でもあったのだが、あにはからんや、担当医師は真顔で答えたものである。
「そうなんですけどね。しかし、佐藤さんの世代に、そんなに簡単に死なれても困るんです。つまりは手が回りません。今の高齢者は長生きだといっても、やはり寿命は来るわけです。これからは、それこそ日本が経験したことのない大量死の時代に入ります。私たち医師は、なんというか、その面倒もみなくてはいけないんですよ」
 いきなり何だというなかれ、この小説を読んで、ふと思い出された会話である。
 いや、解説の頁なのだから、本の話をしよう。
 医療小説が読まれている。ブームといってよいかもしれない。一過性の流行はやりで終わる感じもなく、恐らくは現役医師の書き手が増えたこともあり、もはや職業小説として、ひとつのジャンルをなしそうな勢いである。とはいえ、その医療小説も中身や主題へのアプローチ、はたまた読後感などから、さらに二分できるのではないかと、私は考えている。
 ひとつは、ゾッとする系の医療小説である。脳科学、臓器移植、人工授精、遺伝子治療、クローン技術等々、医学の最先端や、高度な最新医療の実践が描かれ、こんなことが起こりえるのだと驚き驚き読み進めるほど、いつしか背筋が寒くなる──というような作品群のことだ。医学が文字通りのサイエンスであることを思えば、一種のSF小説といえるかもしれない。ことの性質から作中しばしば人が死ぬが、関連してミステリー仕立てで書かれることも珍しくない。
 もうひとつが、ホッとする系の医療小説である。医者と患者の心の交流や、医者と医者、あるいは看護師、療法士、検査技師との係わり合い、つまりは医療現場における人間関係が描かれた、ヒューマニズムあふれる作品群のことだ。医師が悩み、苦しみ、迷いながらも成長していく物語であるとすれば、形を変えた教養小説とする言い方も可能だろう。
 ここで本小説の作者、なつかわそうすけであるが、ホッとする系の医療小説の書き手、というより、そのトップランナーと評して異を唱えられることは、恐らくないだろう。
 一九七八年生まれというから未だ四十代、夏川草介は信州大学医学部を卒業し、今も長野県で地域医療に携わる、現役バリバリの医師である。作家としてのキャリアを積み始めたのが二〇〇九年で、デビュー作の『神様のカルテ』(第十回小学館文庫小説賞、二〇一〇年本屋大賞第二位)は大ヒットとなり、ドラマ化、映画化もされたので、ご存知の方も多いだろう。
 主人公はくりはらいち、長野県まつもと市で「二四時間 三六五日対応」の看板を掲げるほんじよう病院勤務の内科医、二十九歳。慢性的な医師不足で、しばしば二日、三日の徹夜を強いられながら、日々の医療に従事する。信州の美しい景色のなか、患者と係わり、また人と交わっていく。かかる『神様のカルテ』はシリーズ化されて、現在第五作までが書かれている。その愛読者であれば、なおのこと違和感を覚えないだろうと思われるのが、本作『勿忘わすれなぐさの咲く町で』なのである。
 元になったのが「小説 野性時代」に掲載された連作短編、「しゆうかいどうの咲く頃に」(二〇一六年五月号)、「ダリア・ダイアリー」(二〇一七年五月号)、「山茶花さざんかの咲く道」(二〇一八年五月号)、「カタクリ賛歌」(二〇一九年五月号)の四作品である。二〇一九年十一月の単行本化に際して、「秋海棠の咲く頃に」が「秋海棠の季節」に改題され、さらにプロローグにあたる「窓辺のサンダーソニア」と、エピローグにあたる「勿忘草の咲く町で」が書き下ろしで前後に追加されることで、ひとつの物語に仕立てられた。全ての章が、それぞれ花にことよせられているが、それを許しているのが信州という、豊かな山野の美しさを誇る舞台である。
 主人公は一年目の研修医であるかつらしようろう、それと三年目の看護師つきおかことである。二人とも長野県松本市の郊外にあるあずさがわ病院に勤務して、断れない救急搬送の対応に追われる日々で──と、ここまで読んで、思われた方もいるかもしれない。それなら『神様のカルテ』シリーズでよかったんじゃないかと。現に向こうの栗原一止もチラと登場しそうになる。それでも『神様のカルテ』ではいけなかったのだというのは、似ている、というより、ほとんど同じ世界にいながら、それぞれの主人公が向き合うものが、なお微妙に違っているからである。
 この『勿忘草の咲く町で』で取り組まれるのは、高齢者医療である。地方の病院で行われる医療のほとんどは、高齢者医療なのである。この実情を捕えて、本作で作者が投げかけたのは、そういうこともあるよね、といった程度の小さな問題ではない。それこそが問題──これからの日本が、いや、日本のみならず世界が避けがたく直面を余儀なくされていくだろう、大問題である。
 実際のところ、ゾッとする系の医療小説に出てくるような医療は、医学の最先端なだけで、医療の最先端ではない。医者が病気を治す、治療のために最善を尽くすというのは、昔ながらの古い命題でしかない。現代の医師の大半は、もうそこには安住できなくなった。冒頭で引いた私の担当医でないが、今や医療の現場では自明の転換なのだろう。すなわち、病気を治すのでなく、むしろ、どう死なせるか。ただ延命するだけなら、相当程度まで長らえられる高齢者の命を、いつ終わらせたらよいのか。その命題こそが向後の医療の最先端にして、最大公約数なのだ。
 換言するなら、これからの医師は神さながらに、人間の生死を分けうる立場に立たされる。が、なお自ら人間であるならば、否応なく考えなければならない。何をといって、人間はいつ死ぬべきかを。あるいは裏返しに、人間が生きているとはどういうことなのかを。
さんはもう、根が切れてしまっていると僕は思うんです」
 作中、桂正太郎は患者の家族に告げる。カタクリは根を地中に深く張る。しかし、その大事な根が切れれば、すぐ枯れてしまう。人間もこの世界に張る根が切れていなければ、まだ生きられるし、生きるべきだ。しかし、田々井さんは違う。だから──。
「このままこの病院でりませんか?」
 答えは、ひとつではない。しかし、どの医師も考えなければならないし、自分なりの答えを出さなければならない。これからの医師は哲学がなければ務まらないのだ。それが文学的命題でもあるとするなら、医学書は役に立たない。医療小説──それもホッとする系の医療小説こそ、もっともっと書かれなければならない。夏川草介は『勿忘草の咲く町で』で、その新たな扉を静かに開けたのかもしれない。

作品紹介・あらすじ
夏川草介『勿忘草の咲く町で 安曇野診療記』



勿忘草の咲く町で 安曇野診療記
著者 夏川 草介
定価: 792円(本体720円+税)
発売日:2022年03月23日

生きることと死んでいることはどう違う?現役医師が描く高齢者医療のリアル
美琴は松本市郊外の梓川病院に勤めて3年目の看護師。風変わりな研修医・桂と、地域医療ならではの患者との関わりを通じて、悩みながらも進む毎日だ。口から物が食べられなくなったら寿命という常識を変えた「胃瘻」の登場、「できることは全部やってほしい」という患者の家族……老人医療とは何か、生きることと死んでいることの差は何か? 真摯に向き合う姿に涙必至、現役医師が描く高齢者医療のリアル! 解説・佐藤賢一
詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322111000513/
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