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レビュー

「貴方の人生」を鼓舞する物語――松岡圭祐『出身成分』文庫巻末解説

角川文庫の巻末に収録されている「解説」を特別公開! 
本選びにお役立てください。

松岡圭祐『出身成分



松岡圭祐『出身成分』文庫巻末解説

解説
宇田川拓也(ときわ書房本店)

 朝鮮民主主義人民共和国。いわゆる「北朝鮮」というと、国際的に孤立した国、世襲による独裁体制、ミサイル開発や発射実験などを繰り返す挑発行為、粛清・処刑の横行、思想・言論・報道の自由のない人権をないがしろにした圧政、食料や生活物資の不足による国民の深刻な飢餓など、国名にある〝民主主義〟〝共和国〟といったワードからはほど遠い印象が強い。実情がはっきり見えない不透明さもまた、そうしたイメージを際立たせている理由のひとつだ。
 ところがこの北朝鮮を大きく扱った韓国ドラマ『愛の不時着』が、二〇一九年の自国での放映開始に続き、Netflix で世界的に配信されるや海を越えて評判を呼び、日本でもブームとして報道番組で取り上げられるほどの大ヒットとなった。
 韓国の財閥令嬢がパラグライダーで飛行中、竜巻によって軍事境界線を越えてしまい、北朝鮮に不時着。そこで朝鮮人民軍の若き将校に助けられ、運命的な恋に落ちていく物語は、脱北者への取材を重ねたことや脱北経験を持つ作家が脚本に参加していることで、これまでにない等身大の北朝鮮生活者のリアルを描き出したと評価する向きも多い。しかしいっぽうで、北朝鮮の美化を懸念する厳しい声も上がっており、このドラマを観ただけで彼の国の日常を理解した気になるのは、やはり尚早に過ぎるだろう。
 となると当然気になるのは、そこで描かれなかったどうにも美化しようのない、北朝鮮のいまだ見えざるリアルとはどのようなものか──である。松岡圭祐『出身成分』は、こちらも脱北者による数々の証言をもとに執筆されており、そうした疑問にひとつの答えを示してくれる一冊である。しかも、目を疑うようなリアルに迫る実録的な側面だけでなく、凡百のミステリ作品がすっかりかすんでしまうようなサスペンスフルかつ強烈なサプライズを備えた内容にもなっている。
 人民保安省保安署員のクム・ヨンイルは、全保安署に通達された疑わしき過去の事例の洗い直しを進めるべく、价川ケチヨン市にある教化所(強制収容所)へ向かう。北朝鮮では通常考えられるような犯罪者の取り締まりや逮捕といった手続きはない。人民保安省か国家保衛省による強制連行、そして名ばかりの裁判を受け、教化所か管理所へ収容される。
 ヨンイルが今回担当するのは、十一年前にこの地で起きた殺人とごうかん事件についてだ。
 当時四十五歳の男性ペク・グァンホの家から騒音と女性の悲鳴が聞こえ、近所の住人イ・ベオクが駆けつけると、グァンホは刺殺され、床に倒れていた十七歳の娘チョヒは強姦されていたことが判明する。残された体液を調べたところ、父グァンホ、第一発見者のベオク、どちらのものでもなかったが、周囲の状況や証言からベオクが容疑者として扱われ、そのまま現在に至っていた。
 ベオクとの接見後、ヨンイルは同僚のカン・ポドンとともに強姦の被害者であるチョヒを訪ねる。老いて弱った叔父夫婦と住む、その物置然とした小屋を見たヨンイルは当惑を募らせる。壁に無数の紙が貼られており、なんとそれは十一年前の事件についての捜査資料をコピーしたものだった。保安署から持ち出せるはずのない文書がなぜ?
 チョヒに話を聞くと、強姦されたことで除け者にされ、ひどい差別を受けていることがわかり、ヨンイルは憤りを覚える。するとチョヒは事件について「わたしに乱暴したのは父です」という言葉と父親からの日常的な虐待があったことを告白する。だとすると、体液の検査になにか不備があったのか? ではグァンホを殺害したのは一体誰なのか?
 本作は偏った体制下での犯罪捜査の困難を描いている点で、民警の主任捜査官を主人公に雪のゴーリキー公園で見つかった三人の無惨な射殺死体の真相に迫るマーティン・クルーズ・スミス『ゴーリキー・パーク』(一九八一年)、厳格さゆえに殺人者の存在を認めないスターリン体制下で国家保安省の捜査官が子供たちばかりを狙う連続殺人鬼を追うトム・ロブ・スミス『チャイルド44』(二〇〇八年)といった傑作と並べられるべき作品といえる。
 こうした物語の舞台が二十世紀のロシアから現代の北朝鮮へと移り変わった点も興味深いが、それはひとまず措くとして、捜査の過程でつまびらかにされる、保安署の仕事や記録管理のさんさ、庶民の間に拡がる非常識を〝非常識〟とも思わない悪しき習慣、死と隣り合わせといっても過言ではない過酷な貧しさには言葉を失うしかない(家族の窮状を察した少女が指輪に見立てた空き缶のプルタブをヨンイルに差し出し、見よう見まねでわいを渡そうとする痛々しさなど涙を禁じ得ない)。そしてなかでも衝撃的なのが、極端な身分差別の源であり、タイトルにもなっている北朝鮮の階層制度「出身成分」だ。「核心階層」「動揺階層」「敵対階層」の三種があり、ヨンイルが属する一番上に位置する「核心階層」は、都市部に住むことが許されたいわゆる特権階級。それに続く「動揺階層」は、国民のおよそ半分が属する中間層で、大多数が地方住まいで許可がなければ平壌に入ることもできない。そして最下層の「敵対階層」は、国への反抗の可能性が高いとされたひとびとが属し、特別な監視のもと、進学や昇進といった資格さえもはくだつされる。この区分けが家系の三代前までさかのぼり、ひとりひとりに下されるのだ。もちろんこれらの階層は終生変わらないわけではなく、なにか違反行為や疑いが掛けられれば個人だけでなく家族もろとも降格される恐れもある。なんとも無慈悲なシステムが国民を縛り付けているのだ。
 ヨンイルは過去の事件の捜査の先で、この「出身成分」ゆえの、どちらを選んでも誰かをらくに突き落とすことになる大きな難題に直面する。だが、本作はその答えを描くだけの物語では終わらない。後半のある箇所で、読者は大げさではなく特大の驚きを覚えることになる。ヨンイルが「家にいて、テレビでも眺めているかのようだった。それぐらい視野にあるものが信じられなかった」と述懐するほどの、足元の地面が崩れるような感覚。しかもその驚きに続き、北朝鮮に生きるひとびとを取り巻く状況が日本人にとっても決して遠い世界の話ではないことが鋭く告げられ、他人ひとごとだと距離を置くことを許してはくれない。巻頭に掲げられた「貴方が北朝鮮に生まれていたら、この物語は貴方の人生である」という一文の意味するところをめずにはいられなくなる。
 著者は本作に先駆け、現在は「クラシックシリーズ」と銘打たれた完全版で読める〈千里眼〉シリーズのひとつ『千里眼の瞳』で、いち早く北朝鮮に着目し、問題や工作活動を取り上げている。そのラストシーンは、彼の国と世界が目指すべき希望を映し、強い意志をもって国のなかから現状を変えようとするひとがいることを打ち出したもので、筆者は本作に登場するある人物にその姿を重ねた。
 いまこの瞬間も、権力のまんが作り出した幻想の殻を破り、あるべき正しさを信じて抗い、闘うひとびとがいる。並ぶ者のないたいのエンタテインメント作家──松岡圭祐が精魂を込めて紡いだ『出身成分』は、そうした尊い存在を明らかにするとともに、覚悟を胸に正しき道を行く「貴方の人生」を鼓舞する物語として読み継がれていくことだろう。

作品紹介・あらすじ



出身成分
著者 松岡 圭祐
定価: 770円(本体700円+税)
発売日:2022年01月21日

史上初、平壌郊外での殺人事件を描くミステリ文芸!
この国に生を受けただけなのに、希望はどこにある――
平壌郊外の保安署員クム・ヨンイルは11年前の殺人・強姦事件の再捜査を命じられた。犯人として収容されている男と面会し記録を検証するが、捜査の杜撰さと国家の横暴さを再認識するだけだった。実はヨンイルの父は元医師。最上位階級である「核心階層」に属していたが、大物政治家の暗殺容疑をかけられ物証も自白もないまま収容されている。再捜査と父への思いが重なり、ヨンイルは自国の姿勢に疑問を抱き始める。そしてついに、真犯人につながる謎の男の存在にたどりつくが……。鉄壁な国家が作り出す恐怖と個人の尊厳を緻密に描き出す、衝撃の社会派ミステリ長編。
詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322110001008/
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