角川文庫の巻末に収録されている「解説」を特別公開!
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柚月裕子『検事の信義』
柚月裕子『検事の信義』文庫巻末解説
解説
この稿を書くにあたり、現在発売中の
デビュー後十年足らずで、もうライフワークになろうかというこれらの作品を書きつづけている作者のエネルギーにまず感嘆する。これほど短期間に、これほど著しい進境を遂げた作家もいないと思うのである。
現に多くのファンがついているようで、文庫本三冊の奥付を見てびっくりした。
二十一刷、二十二刷、二十一刷と、小説が売れなくなっている昨今の出版界では考えられない増刷を重ねている。
出版不況の深刻さが増し、小説の読者は減る一方、作家の時間給などコンビニのバイトより低いんじゃないかと思われるのが偽らざる現状なのだ。
わたしなどまだ栄光が残っていた時代にデビューできたから、その恩恵にもあずかれた。だから最近の作家は気の毒だなあと、つねづね思いつづけていた。柚月クラスの中堅作家が、いちばん苦しいんじゃないだろうかと同情していたのだ。
余計なお世話でした。いまや飛ぶ鳥を落とす勢いの売れっ子作家だったなんて、まったく知らなかった。
山形の小説講座に招かれ、作品を読んで講評したのが、作者との出会いだった。
文章が素直で、ことばの使い方が初々しかったのを褒めたと覚えているが、それでもまさか、プロになれるとまでは思わなかった。
ほんの、十数年前のことである。彼女の保持していた能力が想像の
ネットをのぞいて読者の声も渉猟してみた。
熱烈なコメントであふれていた。多くが男性で、年齢層も幅広い。
ほとんどが主人公である佐方貞人の生き方に感動し、共鳴したり自分の理想を重ねたりして、今後の指針にしたいとばかり異様なほどボルテージが高い。
佐方という人物は、一言でいうなら職務に忠実な融通の利かない正義漢だ。
奉職しているところが地検という上意下達を旨とする組織であってみれば、職責をまっとうしようとすればするほど
シリーズの大方のストーリーはその過程を描くことに費やされているのだが、佐方はどのような圧力を受けようとけっして屈しない。すったもんだしながらも最後は、多少かたちは崩れようが信条に背かない結果を勝ち取って行く。
読者にしてみたらそのカタルシスがたまらないわけで、一度読んだらまたつぎも読みたくなる中毒性と刺激に満ちている。
しかし読者の声を読んでいるうち、デジャビューのような、既視感にとらわれてしまうことに気づいた。とりたてて新味のない、どこかで聞いたようなことばやフレーズであふれているのだ。
言ってしまえば、読書体験として通過しなければならないアイテムのようなもの、つまりこのシリーズは、人が成長して行く過程で一度は読むことにはまってしまうタイプの小説だということだ。
なにも
彼の晩年の代表作『
二作とも一九五〇年代から六〇年代にかけて執筆されている。日本経済が戦後復興を成し遂げ、
当時の世相を知らない人でも、新幹線の開業と東京オリンピックの開催が六四年であったといえば、どのような時代であったか、なんとなく想像していただけるのではないだろうか。
主人公は、いずれも幕藩体制の中で藩政に携わっていた上級武士である。とくに前者は仙台
その苦難の軌跡と内的
周五郎はこの二作が頂点であったとも思えない六七年、六十三歳で他界してしまうのだが、つぎはどんなものを書いたか、できたら読みたかったと惜しまれた。人間いかに生きるべきか、昭和という時代の変転を周五郎とともに読者も併走していたのである。
佐方シリーズも認知症、飲酒運転、連続放火、贈収賄と、題材に時代を配しながら、つぎつぎと起こる事件に立ち向かう佐方の行動が活写される。
職務に忠実なあまり地検には五年しか留まることができず、以後は在野の弁護士として一八〇度ちがう立場から事件を処理する。
その行動は快刀乱麻というにはほど遠く、ときには読んでいるほうがいらいらするくらい鈍重で、感受性も鋭いとは思えない。仕事を除いたらなにも残らないような生活感の乏しさ、情緒や人間としての膨らみにも欠け、どう見てもヒーローにはなりそうもないタイプなのである。
それでいながら強烈な読後感を残してしまうのは、どのような事態に陥ろうと信念が揺らぐことはない佐方の一貫した姿勢に読者が魅了されるからだ。佐方が愚直であればあるほど、彼に託する読者の心情が作者に寄り添ってしまうのである。
佐方の生き方の源は、シリーズで繰り返される父親のエピソードに求められる。
佐方の父親
その理由が依頼人との信頼関係、友人と交わした約束を守るため罪に問われたというのだから、これくらい愚直な生き方もない。
佐方は郷里へ何度も足を運ぶうち、父の死の真相を知る。知ることによって、以後の生き方が形成されてしまう。
人が人を信頼するとはどういうことか、ただの口約束を、自己の人生を捨ててまで守り通した父親ほど愚直で、ぶれない人間はなかった。同じ道を歩いている佐方が、この父親に自己を照射して生き方の範としなかったはずはないだろう。きれい事に過ぎるかもしれないが、シリーズの最大の魅力が佐方のこの
よく知られている話だが、作者は一一年の東日本大震災で父親を亡くしている。行方不明になった父を探し、何度も郷里へ足を運び、ついには
作者の描く母親像はありきたりで、精彩があるとは言えない。それが父親像となるとじつに
作品紹介
検事の信義
著者 柚月裕子
定価: 748円(本体680円+税)
発売日:2021年10月21日
孤高の検事の気概と執念を描いた、心ふるわすリーガル・ミステリー!
検事・佐方貞人は、亡くなった実業家の書斎から高級腕時計を盗んだ罪で起訴された男の裁判を担当していた。被告人は実業家の非嫡出子で腕時計は形見に貰ったと主張、それを裏付ける証拠も出てきて、佐方は異例の無罪論告をせざるを得なくなってしまう。なぜ被告人は決定的な証拠について黙っていたのか、佐方が辿り着いた驚愕の真相とは(「裁きを望む」)。
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