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レビュー

“帰国子女”ならではの視点で書かれた、日本語との出会いと発見。

 小森陽一氏とは何度も会い、知人と友人の中間ぐらいの方なので、ここでは小森さんと呼ぶ。
 現存の作家や作品について書くのは、失礼を承知で、ふつうはお断りしているが、よんどころない義理があれば別である。小森さんには、本当によんどころない義理があるのだかどうだか判然としないが、記憶をさかのぼる限り、あるような気にさせられている。そのうえ、私は彼の生い立ちに大いなる興味をもっている。さらに、『コモリくん、ニホン語に出会う』は二〇〇〇年に単行本を手に取ったとき、たいへん面白かったという記憶がある。それで、ここでこうして解説を書くのを引き受けることとなった。
 小森さんと私には共通点がある。「帰国子女」という表現がまだ流通していないころに、二人ともそれぞれの親の事情で日本を出て外国で外国語の教育を受けたのである。私はニューヨークで英語での、小森さんはプラハのソビエト校でロシア語での教育を受けた。だが今や帰国子女はごまんとおり、重要なのはその点ではない。二人とも大人になって自分と日本語の関係にこだわり続けたのである。
 小森陽一の名前を知ったのは、偶然、最初のご著作『文体としての物語』をニューヨークの紀伊國屋で立ち読みし、二葉亭四迷の『浮雲』の文体の分析に引き込まれて買った時である。時をおかずして彼が帰国子女であるのを聞き及び、驚きとともに、深い同胞意識をもった。数年後、私自身が『續明暗』という最初の小説を出すと、真っ先に小森さんがどこかの媒体で褒めてくださった。
 嬉しかったが、その文章を読み、あっ、帰国子女だ、と思った。
『續明暗』は漱石の『明暗』を終えようとした小説である。書評で夏目漱石を「漱石」とよぶのはあたりまえであろう。だが「漱石が……漱石が」という文章のあとに「美苗は……美苗は」と続いていたのは、まことに奇異であった。私は誰にも知られていない女の作家である。あれは、小森さんが「美苗」を「ビミョウ」と読ませ、漱石、鷗外、露伴などと並べようとしてくれたのかしらん。私には「ミナエ、ミナエ」としか読めず、流暢な日本語を書く著者が、狐の尻尾ならぬ、帰国子女の尻尾を出したように思え、なおさら同胞意識を深めた。ご当人に実際にお目にかかったのはその後である。
 成長期に異国に放りこまれた衝撃、のちの日本に対する違和感、そのなかで考える日本語と日本文学――似たような道筋を辿った私が『コモリくん、ニホン語に出会う』を面白く読んで当然である。だが、この本は、日本や日本語に少しでも関心をもつ人なら、どんな人生を送った人であろうと、まことに面白く読める。中学生でも読める、読みやすい、親しみやすい文体で書かれているうえに、いくつもの角度から興味をもって読めるようになっている。

 一つには自伝として読める。ことにプラハでの体験は子供の体験特有の輝きをもつ。(これはやはりプラハ育ちの米原万里さん亡きあと、もっと書いてくれたらと思う。)そして、その部分が終わると、日本に戻ったあと、ふつうの日本語が使えないというので、いかに周りからからかわれ、国語という科目から疎外されたかという話となり、その話は、中学校、高等学校、大学、大学院と、その時その時の運命に翻弄されるうちに、やがて、当人の思惑と抱負をよそに、いつしか大学で日本近代文学を教えることになった話につながる。読者は、著者が、今や文学研究者として名をなした人物であるのを知っている。そこに語られている物語は、よく考えれば、出世物語だとも言えよう。(自費出版せずに自伝を出せること自体がその人が出世した証である。)苦労話もきちんと盛り込まれている。たとえば、アルバイトの話。汚物まで残されたタクシーの洗車、ストリップ劇場のチラシまき、汲み取り式トイレ用バキューム・カーの清掃等など。だが、ユーモアと自己諧謔に溢れたこの本は出世物語としては書かれておらず、読者の前に立ち上がるのは、このような形で人生が展開したことに自分で驚いている一人の人間の姿である。

 次にこの本の根幹をなすのは、日本語教育と日本語についての考察である。
 まずは、日本語教育。あの信じがたいほど薄っぺらい教科書を含め、日本の学校における日本語教育がひどいというのは多くの人が同意することであろう。大手の進学塾の講師だった小森さんは、その経験をもとに、何が根源的な問題なのかを明確にしてくれる。進学塾の講師というのは、学校の教師よりも、より意識的に「受験問題を解」く方法を教えねばならず、その結果、日本の国語教育は「受験問題を解く」ための授業でしかないという、同語反復的な結論に達するのである。国語という科目において重要なのは、質問を作った人の意図を読み解く(そしてその人にとって何が正解であるかを読み解く)ことのみであり、実際にテクストを読むという行為――唯一、真に文学的な行為――はテクストの意味が一義的ではありえないがゆえ、かえってその邪魔になるのである。
 このような部分を読むと、昔から漠然と思っていたことが改めて確信される。私は、日本で国語教育を受けなかったのに――ではなく、受けなかったからこそ、幸い少女時代からずっと日本近代文学を読むのを至上の喜びとして生きてこられたということである。
 驚くべきは、小森さんの受けたロシア語教育である。(共産圏エリート層の師弟をチェコスロバキアでロシア語の学校に入れるというロシア語帝国主義は不問に付す。)国民国家の共通語である国語をどう教えるかは、国語が必然的にはらむ問題と関わってくる。単語や文法を教えるか。あるいは文学の楽しみを教えるか。双方とも言語教育に不可欠なものだが、日本の文科省はその二つを別のものとして考える勇気も、そんな知恵もなく、どっちつかずの教育でお茶を濁している。ところが、この本で知ったのは、小森さんが受けたロシア語の教育では、この二つが、概念として、見事に切り離されていたという事実である。ロシア語の授業は二つに分かれ、かたや徹底的に言葉を学ばされ、かたや徹底的に文学を暗唱させられたり読まされたりしたという。しかもさらに感銘したのは、後者の授業においては、文学がいわゆる文学にとどまらず、古典とされるものなら何でも読まされたということである。十九世紀後半から二十世紀前半にかけてロシアは科学でも芸術でも世界的な影響力をもっていた。その名残りだろうか、ソビエト時代半ばでさえ、少なくとも当時はまだ洗練された思考法が残っていたのがうかがわれる。羨ましいだけではなく、日本の状況がますます、悲しくも情けなくも腹立たしくもなる。
 このような本だから、もちろんのこと、日本語そのものについての考察も随所にはめこまれている。たとえば、日本語は西洋語に比べて書き言葉と話し言葉との差が大きいということ。あるいは、西洋語とちがって「私」という概念を指す言葉が数え切れないほどあるということ。しかも実は「私」などという主格を必要としないこと。要するに日本語が西洋語ではないという、あたりまえでありながら、誰もが意識しているわけではないことが指摘されている。

 そして、さらには国語の授業の実践記録。すでに大学の先生だった小森さんだが、あるとき、小学生、中学生、高校生を相手どって国語の授業を一時間づつ受け持った。この本の最後の三分の一には、そのときの記録が収録されている。(高校生相手の授業は自主授業で、数回受け持たれたらしいが、収録されているのは一回分である。)
 著者はこの授業を「道場破り」と呼んでいる。現場の記録だから、小森さんのお人柄も、面白い授業をしようという意気ごみも、生徒たちの活気も伝わってくる。支配と被支配という上下関係は否定され、横の関係が尊ばれ、小森さんは皆にほとんど友達のように接する。誰の意見にも耳を傾ける。このような教師の授業を受けられて幸せだと思う小学生、中学生、高校生はたくさんいるであろう。
 そのなかで際立つ箇所がある。
 小森さんが小学校と中学校の国語の授業の道場破りをしたあと、道場主、すなわち、ふだんその授業を受け持っている先生たちの反応を載せている箇所にほかならない。お二人の先生とも小森さんの教師としての手腕を高く評価しつつ、それぞれの立場から批判されてもいる。「わかる」という意味をめぐっての批判である。小学校教諭の佐藤信一氏は、一回の面白い授業で子供が「わかった」気になっても、それはしばしば本当の理解には通じず、「初等教育の特徴の一つは、繰り返し・反復練習にあると考えられる」としている。中学校教諭の石井弘之氏はもっと厳しい。「体でわかる」ことに今回の授業の主眼がおかれていたと指摘され、「体でわかる」ことの意味を疑問視される。「国語の授業の場合、『ことばの意味を理解する』とか『理屈でわかる』とかいうことこそが僕は重要なのだと思う……『体でわかる』ことは大事なことなのだが、授業という場で行われるべきではない。不適切な言い方かもしれないが、それはファシズム的である」とまで言い切られる。文学の意味を実感させようという試みは、「善意と熱意のうちに偏った思想を実感させてしまうおそれ」につながる。このような考えをかくも確信をもって述べられる国語の先生が日本にいるのである。それは、どんなに心強いことか。
 その批判をそのまま載せた小森さんは立派である。ファシズムの定義はあらゆる批判を許さないことにあり、これらの批判をそのまま載せることによって、この本は、たんに読みやすい、興味深い、良心的な本であるのを超え、格の高い精神にこっそりと支えられた本として、読者の前に立ち現れる。「こっそりと」というのは、小森さんが含羞の人だからである。


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