文庫の解説はふつう、著者のあとがきの後にくる。ところが本書では、本文が終わるといきなり解説である。
『フィンランド語は猫の言葉』は文化出版局(一九八一年)、講談社文庫(一九九五年)、猫の言葉社(二〇〇八年)と三つの版があるが、これまではそれぞれに著者によるあとがきがあった。では、どうして今回はないのか。
著者曰く「もう書くことがありません」。
確かに同じ本のあとがきを、版を変えるたびに書くのは厳しいだろう。夏目漱石や森鷗外も分かってくれるに違いない(想像だが)。
ということで、わたしの解説となる。だがわたしもすでに、自分の著作の中で本書を何度か取り上げている。それをくり返しても仕方がない。
そこでこの解説は、『フィンランド語は猫の言葉』の三つの版とわたしの関係から始めることにしよう。
わたしが『フィンランド語は猫の言葉』と出合ったのは、文化出版局から出たばかりの頃である。確か新聞の広告で知ったのだと思う。高校一年生だったわたしは、海外の言語や文化に広く興味があったものの、メジャーな世界には無関心で、一人でロシア語をせっせと勉強するようなヘンなやつだった。といってもロシア語だけに固執するわけではなく、日本では話題になることの少ない地域については常にアンテナを張っていて、図書館ではそういう本ばかり借り出していた。
本書に惹かれたのは「フィンランド語」というキーワードである。
フィンランド語についての本。しかも語学書じゃない。
当時入手できたフィンランド語の入門書は、本書にもあるように尾崎義『フィンランド語四週間』(大学書林)だけである。もちろんすでに手に取っていた。だが大学生だった稲垣さんに歯が立たなかったものが、高校生のわたしに分かるはずがない。魅力は感じながらも、手を出すのは躊躇われた。
ところが『フィンランド語は猫の言葉』はエッセイ集である。これなら読めるに違いない。さっそく買い求め、自室のベッドに寝転んで読み始めた。
そして止まらなくなった。
どの話も楽しくて、知的で、元気いっぱいで、こんなふうに海外生活が送れたらどんなにステキだろうかと、想像しただけでワクワクする。これには多くの人が共感するはずだ。
だがわたしがもっとも惹かれたのは、フィンランドの生活よりも、フィンランド語そのものに触れたエッセイだった。文法や音声や方言や古典語といった、大学の授業科目名のようなタイトルが並ぶのに、それがこれほど面白いとは!
いや、面白おかしいばかりではない。ときにはかなり真面目な解説がされる。
フィンランド語には一三の子音要素d・h・j・k・l・m・n・ŋ・p・r・s・t・vと、八つの母音要素a・o・u・e・i・y・ä・öがある。(50頁)
章の冒頭からこうだ。こういう話を専門家が書くと、最初は日常的な話題から始まって、次第に専門的な分野の解説となるのが定石である。ところが稲垣さんのエッセイは、はじめに学問的な情報がバーンと提示される。そして最後は必ず面白い。つまり、フィンランド語そのものの魅力が、余すところなく語られているのである。本書を読めば、誰だってフィンランド語が勉強したくなるに決まっている。
しかしながらわたしは、フィンランド語に憧れながらも、結局はスラブ諸語へと向かった。「変化が複雑で気が狂いそうに」(63頁)なるロシア語だけでなく、グジェゴシュやクシシュトフ(57頁)の世界ともつき合いながら、今日に至る。
とはいえ、フィンランドとフィンランド語のことを忘れたわけではない。
講談社文庫版が出たとき、わたしは国立理系大学でロシア語教師をやっていた。少人数の学生を引き連れて、ロシアへ修学旅行に出かけることもあったが、モスクワやペテルブルクを訪れる際は、旅行社に頼んで経由はなるべくヘルシンキにしてもらった。するとたった一泊にもかかわらず、学生のなかにはフィンランド語に興味を持つ者も出てくる。こうしてわたしは、自らがフィンランド語を学ばなかった代わりに、フィンランド語ファンを地道に増やしていったのである。
その後、私立大学理工学部で英語教師をやったりしていたのだが、そこも辞め、しばらくは一人で本を書いていた。その頃に猫の言葉社からハードカバー版が出た。書店で目に留まり、おお、また新しい版が出たのかと感心していたら、それが自宅へ送られてきて、しかも稲垣さんのサイン入り、さらにあとがきにわたしへの謝辞があった。このことは拙著『世界のことばアイウエオ』(ちくま文庫)ですでに書いたが、もう一度くり返しておきたい。
これ以上に嬉しいことがあろうか!
今回、解説を書くにあたり読み返してみると、自分が年齢ごとに違うことを考えていたことに気づく。
高校生の頃は、言語そのものに惹かれていた。だから「音声学」「フィンランド語の文法」「フィンランド語の方言」「フィンランド語の古文」を繰り返し読んだ。稲垣さんがフィンランド語と懸命に格闘する話が好きで、「初めての試験」や「大相撲愛好家と世界の言語」は、その厳しさに恐れ戦きながらも、心の底から憧れた。
大学から大学院時代に、通訳のアルバイトをするようになってからは、「通訳稼業あれこれ」を読み返しては身につまされた。学生のアルバイトとはいえ、その苦労はプロと変わらない。とくに録音したテープの音声が誤って消されてしまった話(207頁)は、読んでいるとわたしまで胃が痛くなった。
通訳のアルバイトでソ連に出かけたとき、こんなことがあった。八〇年代のレニングラードの書店でガイドブックを眺めていると、地元の観光案内書がロシア語、英語など各言語版の並ぶ中に、わたしはPietariという表記を見つけた。
ピエタリ。『フィンランド語は猫の言葉』で紹介されていた。つまりこれはフィンランド語版なのだ! すぐにフィンランド語版とロシア語版を買い求め、ホテルの部屋で読み比べる。何の知識もないわたしには、フィンランド語は果てしなく難しかったが、理解できなくても満足だった。フィンランド語への憧れは不変である。
大学教員になってからは、もっぱら授業のネタとして使わせていただいた。フィンランド語の数字が長くて、どの辺で息を吸ったらいいか分からなくなるほどタイヘンであること(194頁)を知ってからは、「ほらね、これに比べればロシア語のほうが簡単でしょ」などというケシカラン説明をしていた(ごめんなさい)。フィンランド語には文法上の性の区別がないので、hänが「彼」か「彼女」かよくわからない(108頁)という例は、世界の言語の多様性を語るときには欠かせない情報である。わたしは「稲垣言語学」の継承者なのだ。
残念ながら、ハンサムな大学教授(228頁)にはなれなかったが。
『フィンランド語は猫の言葉』には、「言語学」がよく出てくる。一つの具体的な言語を見つめるとき、その方法を示してくれるのが言語学であるとすれば、フィンランド語と正面から取り組んだ稲垣さんにとって、言語学は非常にリアルな学問だったに違いない。わたしにとってもそうだった。ところが現代の言語学は理論ばかりを追究し、個別言語を疎かにして、英語を中心とした普遍性ばかり注目するようになってしまった。本書のような言語学が語られることは、残念ながらこの先は望めない。
言語学ばかりではない。すでに猫の言葉社版で稲垣さんご自身も書いているように、フィンランドとフィンランド語を巡る環境も、すっかり変わってしまった。もちろんよい面もある。先日トークイベントを催したとき、高校生が「フィンランド語を独学しています」と話すと、周囲の多くが「フィンランド語っていいよね」と反応する。わたしの高校時代には考えられなかった。いずれにせよ、本書とは違う世界だ。
それでも本書が古びないのは何故だろうか。答えは簡単。外国語を学ぶ過程は冒険にも等しく、人をワクワクさせるからである。それでいて、留学する人、熱心に勉強する人、文章が面白い人はそれぞれいても、これが合わさったのは稲垣さんしかいないのだ。
『フィンランド語は猫の言葉』は、この先もずっと読み継がれていくだろう。次はどんなシリーズに入るのだろうか。いっそのこと、古典叢書がいいかもしれない。そうすれば、稲垣さんが極楽で杉田玄白さんに会ったとき、こんな話ができるではないか。
「実はわたしの本も、杉田さんと同じシリーズに入ってるんですよね。えっ、何を書いたかって? そりゃもちろん、あなたと同じく、語学の苦労話ですよ……」