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レビュー

見知らぬ男の自殺現場に残されていたのは――自分の名前!?『刑事マルティン・ベック 消えた消防車』

■この小説
 本書は、スウェーデンを舞台にマイ・シューヴァルとペール・ヴァールーのコンビが、マルティン・ベックという警察官(本書での階級は警部)を主人公に描くシリーズの第五作だ。本国での発表は一九六九年、作中の年代は一九六八年に設定されている。
 相変わらず、導入部が巧みだ。しかも五十年も前に書かれたにもかかわらず、近年のエンターテインメントの読者にとってさえも新鮮な導入部だ。シューヴァル&ヴァールーは、作中のインパクトが強いシーンを切り取って冒頭に置くという(近年ありがちな)手法は用いず、淡々と、そして静かに、興味深い謎を冒頭に置き、しかも読者を惹きつけたのである。
 一九六八年三月七日の午前三時過ぎ、一人の男が拳銃)けんじゅう)自殺した。隣人が銃声を聞きつけて警察に通報し、三十二分後には巡査たちが現場で死体を発見していた。遺書の類いは見当たらなかったが、リビングの電話の側に、名前だけを記したメモが遺されていた。マルティン・ベックという名前だった……。
 自殺者は、何故ベックの名前を書き遺していたのか。ベックがシリーズの中心人物であるだけに、読者の関心は否応なく掻き立てられる。自殺者の様子や巡査たちの行動、そしてメモの発見が淡々と語られているだけに、余計にこの名前が読者の脳に響くのだ。巧みなのである。
 その直後に、シューヴァル&ヴァールーは、同日の午前十一時過ぎのベックを描写する。高齢者ホームに入居した母親を訪ね、子供たち(母からすれば孫たちだ)の近況を伝え、何故警官になったのかを会話し、警察署に戻り、自分の名が遺された自殺事件の報告書を読む。そして、自殺した男について、そのエーンスト・シーグルド・カールソンという名前すらベックは聞いたことがなかったことを、読者は知る。そして何故ベックの名前が書き遺されていたのかという疑問を深めることになる。
 そんな淡々とした描写は、さらに、グンヴァルド・ラーソンによる張り込みへと続く。同じく三月七日の夜十時半に本庁を出たラーソンは、寒風のなか、四つのアパートメントが入った建物の見張り番を務めた。一階の右側のアパートメントに住むマルムという容疑者を見張っていたのだ。ラーソンが若手と見張りを交替して二十分ほど経過したときのことだ。その建物が爆発した。
 これが二十五頁目のこと。ここから一転して三十五頁まで、爆発と火災に襲われた建物を舞台に、ラーソンが住民救出に獅子奮迅)ししふんじん)の働きをする様が活写されるのである。ここまでで全体の一割弱となる冒頭のパートは、緩急も自在だし、ベックの名前の謎も読み手の心に刻まれるし、爆発事件も強烈に印象的だ。舌を巻くほどに巧みな導入部なのである。
 そしてここから先は、《マルティン・ベック》シリーズらしく、ベックをはじめとする刑事たちが、それぞれの捜査を進めていく物語となる。爆発事件の生存者たちを訪ね歩いたり、死亡したマルムの関係者を探ったり、爆発に関する電話の通報を調べたり、だ。シリーズ読者にはすっかりおなじみになった面々や、本作から新たに仲間入りした若者が、それぞれの想いやそれぞれの家庭を抱えながら、それぞれの役割を果たしていくのである。冒頭の爆発を超えるような派手な出来事があるわけではないが、節目節目にアクセントが用意されていて、読み手のペースが鈍ることはない。マルムの死に関して新たな発見がいくつかあったり、あるいは、ベックの娘がある決意を固めたり、など、ベックを中心に刑事たちの公私両面を描きながら、つまりは個々の登場人物の人間全体を描きながら、シューヴァル&ヴァールーは読者にページをめくらせていく。
 いくつかあるアクセントのなかで特に印象的なのが、本書のタイトルとなった〝消えた消防車〟である。これに関する謎が、作中で二つも読者に提示されるのだ。そう、本書のなかで消防車は二度消えるのである。この二種類の〝消防車消失事件〟の重ね方が、実にチャーミングだ。
 チャーミングといえば、援軍としてコペンハーゲンに渡ったマルメ警察のモンソンという捜査官もそうだ。詳細は描かれていないが、彼が関係者から証言を引き出したやり方であるとか、その証言をベックたちにお披露目するやり方とか、とぼけていて人間くさくて、ついつい好きになってしまう。
 そして三月七日にベックたちが係わり始めた事件は、夏も終わりに差し掛かる頃に決着する。それまでに彼等が地道に集め続けてきた証拠や証言、あるいは発掘してきた新事実などが積み重なり、ついに臨界量に達して決着となるのである。〝名探偵による名推理のお披露目〟のような絵になるクライマックスを経て犯人逮捕へと至るわけではなく、あくまでも日々の仕事の継続によって、さらにいえば三週間の休暇を含めた毎日の生活の連続のなかで、犯人逮捕へと至る。これこそが本シリーズのリアルであり、本シリーズを読む愉しみであり、五十年以上にわたって世界各国の人々を喜ばせてきた魅力なのである。
 印象深い導入部から、犯罪者たちのはかなさを感じさせる結末まで、意外な犯罪の構図を徐々に読者に示しながら、一気に読ませる『消えた消防車』。やはり一級品である。

■この一つの小説
 さて、シリーズ第二作『煙に消えた男』の訳者あとがきに収録されたマイ・シューヴァルのインタビューによれば、「このシリーズは『ロセアンナ』に始まる十の作品が、一つながりで一つの小説を構成している」とのこと。だからこそ彼女は、全体を〝犯罪に関する小説〟という単数形で呼んでいるのだという。
 それを意識すると、ベックが読者の前に初めて姿を現すシーンは、なおいっそう印象深くなる。ベックは、事件現場でもなく、警察署でもなく、自宅で初登場を果たすのだ。『ロセアンナ』の第三章で、雨の朝、午前五時十五分に歯を磨いている姿が、それである。妻と弾まない会話を交わし、コーヒーを飲み、子供たちを起こさぬまま家を出る。世界の警察小説史に刻まれる名シリーズの主役にしては、なんとも警察官らしからぬ登場の仕方であるが、これこそマルティン・ベック、でもある。
 本書においても、ベックが嘘をついてまで妻やその兄との距離を置く様が語られ、十七歳になる娘の決断や、その決断を踏まえたベックへの問いかけなどが語られる。シリーズキャラクターの一人であるレンナート・コルベリの、新婚の妻との親密さも語られる。シリーズに新たに加わった若手のスカッケとガールフレンドの関係も描かれている。これらの私生活は、警察小説としてはいずれも余剰として切り捨てられてもおかしくない描写である。しかしながら、シューヴァル&ヴァールーは、第一作の『ロセアンナ』の冒頭からずっと、こうした余剰を作品に放り込み続けており、そしてそれは〝一つの小説〟の血肉となっている。
 同様に、ベトナム戦争がこの国に及ぼした影響や、あるいは移民問題なども、繰り返しちらりちらりと示される。東西冷戦下の中立国・スウェーデン社会の現在(もちろん当時の現在だ)を、その変化とともに小説で表現する《マルティン・ベック》シリーズにおいて、これらは不可欠な要素であり、刑事たちの捜査の描写と不可分なのだ。
 その《マルティン・ベック》シリーズの邦訳は、一九七一年に始まった。最初に訳されたのは、シリーズ第三作の『バルコニーの男』であり、その後、『笑う警官』(七二年邦訳)、『ロゼアンナ』(当初の表記、七五年)などを経て、七九年の第十作『テロリスト』において、全十作の翻訳が終了した。前述のマイ・シューヴァルの〝一つの小説〟という観点からすると、刊行順に訳されなかったことは不幸であろう。
 また、この翻訳は、高見浩)たかみひろし)という名手の訳文ではあったが、スウェーデン語で書かれた原書の英語訳を更に日本語に訳したものであった。英訳の段階でスウェーデン文化に関する記述などで削除されていた部分もあるというので、この点もまた、《マルティン・ベック》シリーズと日本の読者の関係においては、不幸な出来事だった。
 それらの不幸を解消すべく、二〇一三年から始まったのが、スウェーデン語から直接日本語に翻訳し、原書の刊行順に日本の読者に紹介していこうという新訳の試みであった(さすがに第一弾はアメリカ探偵作家クラブの長篇賞を獲得した『笑う警官』であったが、それについては、マイ・シューヴァルも理解を示していた)。この新訳においては、『ロゼアンナ』が『ロセアンナ』になり、『蒸発した男』が『煙に消えた男』になるなど、邦題の見直しも行われた。特に後者は原書のタイトルに近付いたのみならず、作中のエピソードと題名の結びつきが明確になるという鮮やかな改題だった。
 同時にこの新訳は、改めて《マルティン・ベック》シリーズを、現代日本読者に問い直すという試みでもある。前述のように、英語版をもとにした翻訳が日本で行われたのが一九七〇年代のこと。エド・マクベインの《87分署》シリーズは一九五五年刊行の『警官嫌い』が五九年に邦訳され、その後もコンスタントに翻訳が続いていたし、国産でも松本清張)まつもとせいちょう)『点と線』(五八年)や、島田一男)しまだかずお)《部長刑事》シリーズ(六二年~)、藤原審爾)ふじわらしんじ)《新宿警察》シリーズ(六八年~)などが刊行され、刑事たちの群像劇としての警察小説は、すでに一定の浸透を収めていた時代である。高見浩版の《マルティン・ベック》シリーズが人気を博したのも十分頷ける。
 しかしながら、だ。その後、日本の警察小説には一つの大きな転機が訪れた。横山秀夫)よこやまひでお)の『陰の季節』(九八年)である。この作品の成功を契機として、刑事以外にもスポットを当てた警察小説が書かれるようになり、キャリア組の警察官僚を中心に据えた今野敏)こんのびん)《隠蔽捜査》シリーズなどが生まれてきたのである。つまりは日本の読者の《警察小説》というジャンルへの期待や先入観が変化したわけで、この新訳は、そうした読者に対して、家庭人の側面も含めて警察官たちの物語を紡いだマイ・シューヴァルとペール・ヴァールーの《マルティン・ベック》シリーズを提示するという試みであった。
 この試みには、日本の読者の変化――あるいは進化――に加え、約半世紀も前に書かれたシリーズという古さ(あくまでも表面的な〝古さ〟だ)のハンディキャップがある一方で、ヘニング・マンケルの《クルト・ヴァンダラー》シリーズ(二〇〇一年邦訳開始、訳者は本書と同じく柳沢由実子)やなぎさわゆみこ))や、スティーグ・ラーソンの《ミレニアム》三部作(〇八年邦訳開始)といったスウェーデン・ミステリの日本での成功という追い風もあった。さらに、海外のどの国についてもいえることだが、七〇年代と比較すれば、ネットの発展もあって圧倒的に大量の情報を容易に得ることも可能だし、その気になれば現地を訪れることだって難しくない。そう、スウェーデンは、もはやリンドグレーンの『名探偵カッレくん』で知る世界ではなく、アバとボルボとビョルン・ボルグという断片的な知識だけに支えられた白夜の世界でもなく、よりリアルな国として読者のなかに存在し得るようになっているのである。そのリアルに対して、逆風と追い風のなかで、《マルティン・ベック》シリーズのリアルを放り込んでみたわけだ。
 その試みだが、どうやらこの『消えた消防車』でいったん停止するようである。残る五冊をスウェーデン語から訳して日本読者に提示することで、〝一つの小説〟と現代日本読者との関係が完結するのだが、未完の試みとなってしまいそうである。すでに高い支持を得ている《マルティン・ベック》シリーズだが、今回の試みが完結すれば、さらに高い評価を、それも生々しく高い評価を得られるのではないかと期待しただけに、残念である。何千年も続いてきた人間の性質などたかだか五十年で変わるものではなく、本書の本質的な魅力は歳月では色褪せないと考えると、なおさら残念である。
 この試みを再開させるには、〝続きを読ませて欲しい〟という読者の声しかない。五冊の新訳をたっぷり堪能して戴くとともに、どうか、続刊を求める声を上げて戴きたいものである。


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