「ようこそ、ぼくの主宰するゲームへ」
山田悠介の作品を読むたび、わたしはそう言われているような感覚に陥る。
著者の作品は衝撃的なデビューをかざった『リアル鬼ごっこ』や、『パズル』『スイッチを押すとき』など極限状態に置かれた人間の究極の選択を描いた物語が多い。全国の佐藤さんを狩る、制限時間内に2000ピースのパズルを探す、自殺するためのスイッチを渡され監視されつづける。簡単にあらすじを並べただけでも、どうすれば浮かんでくるのか、と思うような斬新なアイデアばかりだ。
つねに新しい世界を、つねに思いも寄らないクリア条件を。こういったアイデアの独創性が、若い読者を魅了し続けている理由のひとつであることは間違いない。わたし自身、中高生の頃から著者の作品に惹かれて読み続けているファンのひとりだ。
けれど、著者の凄さはそのアイデアの斬新さだけではない。その圧倒的なストーリーテリング能力こそ、最大の魅力であり武器なのだとわたしは感じている。
著者の描くゲームは独創的であるからこそ、ともすると「ありえない」と興醒めされてしまうようなリスクもある。その欠点を巧みな人物造形と躍動感のある描写で克服し、時には力業で読者を自分の作り出したゲーム世界――つまり物語の世界へと放り込んでしまうのだ。
そして、読み進めていくうちに作品世界と自分との境界がわからなくなるほど、没頭してしまう。本来、読者であるわたしは山田悠介の描くゲーム世界の「傍観者」であるはずだ。適度な距離を保って登場人物たちを観察し、彼らの行動に一喜一憂する。
しかし、著者は読者たるわたしが傍観者であることを許さない。気がつくと山田悠介が主宰する作中世界のゲームに、参加者として巻き込まれている。そんな気持ちになっていくのである。
本作『Fコース』こそ、そんな著者のストーリーテラーとしての才能がいかんなく発揮された作品だ。
まず、設定からしてずるい。作中でキーになるのは、仮想現実の世界へと入り込み、五感全てをリアルに感じながらゲームを楽しめる新感覚のアトラクション『バーチャワールド』――通称バーチャ。このゲームには様々なコースがあり、それぞれクリア条件が設定されていて難易度も異なる。今回主人公たちが挑戦するのは、時限爆弾がセットされた美術館に忍び込み、天才画家バッジスの最後の作品を盗み出すというミッションだ。ほら、もうこんな設定を山田悠介が描く時点で面白そうでしょう?
さらには、登場人物たちの設定も憎い。ミッションに挑むのは4人の女子高生だが、彼女たちは全員100%完璧な人間としては描かれていない。主人公の諸岡智里は親の期待に応える〝いい子〟を演じ続けることに疲れていて、その逃げ道としてバーチャにハマっていく。同級生の柳沢瑠華は自分の欲望に正直すぎるせいで周囲とズレが生まれている。瑠華の妹のかや乃は姉とは対照的に、優柔不断で臆病ないじめられっ子だ。持田菜穂子は瑠華に憧れ彼女を盲信している。みんな、どこか欠けたところがあるキャラクターばかりだ。
けれど、彼女たちの弱さや欠点は人間誰もが抱えているものであり、特別なものではない。わたし自身も認めたくないなぁと思うものの、智里のようなプライドの高さやかや乃のような臆病な気持ちはたしかに存在している。だからこそリアルさを感じるし、彼女たちのことを他人事だとは思えないのだ。そして人物造形を身近に感じられるからこそ、智里たちが最初にゲーム世界へログインしたときの戸惑いやドキドキ感がよりリアルに伝わってくるのだろう。
本作を読んでいてわたしが一番作中に完全に引き摺り込まれたと感じたのは、智里がバッジスの絵を順番に見ていくシーンだ。イタリア人画家バッジスは架空の人物であり実在はしない。しかし、まったく絵に興味のなかった智里が、バッジスの悲劇的な人生と彼の描いた絵を鑑賞するにつれて魅了されていく。
その智里の心の動きは、彼女の歩調から読み取ることができる。最初はゆっくりと、だんだん絵に魅了されるにつれて彼女の歩調は早まっていく。そして気がつくと、智里の歩調が早まるのに合わせてわたし自身のページを捲る手も早まっていた。
存在しない画家とわかっているのに、わたしも智里と一緒にバッジスの絵を見ているような感覚に陥り、そして彼の最後の作品をどうしても見たいと願うようになっていたのだ。その時わたしは読者という傍観者ではなく、すでに智里たちの5人目の仲間として、山田悠介の主宰するゲームに巻き込まれてしまっていたのだろう。
著者の作品で提示されるゲームは、いつも極限状態での究極の選択だ。本作も智里たちは絵の強奪に挑むが、ラストでゲームに隠されたとんでもない秘密が明かされる。その時、智里たちは混乱の中で決断を迫られている。
そして、この決断が迫られる時、作中の人物はわたしたち読者にとってすでに「他人」ではなくなっているのだ。5人目の仲間となったわたしもおなじように選択を迫られている、そんな気持ちになった。苦悩する登場人物たちを傍観者として覗いていたはずのわたしが、参加者として著者に逆に覗かれている。「おまえなら、どうする?」と。
もし、この現実世界に「バーチャワールド」というゲームがあったとしても、おそらくわたしは挑戦しない。それはなぜか。わたしには作中の智里のように何かに逃避したいという気持ちがないからだ。
いや、正確にはないという言い方は正しくない。現実の自分とは違う、仮の自分にダイブするという感覚を常日頃味わっているから特に願望がないのだと思う。わたしにとっての「バーチャワールド」は女優というお仕事であり、読書をすることそのものである。作品の数だけ、わたしはたくさんのコースを味わっているのだ。
女優として役に入り込んでいる時、普段とは違う声で叫び、喚き、誰かを殴ることすらある。カットがかかるまで、いやカットがかかってからも素の自分ではない誰かに身体を貸しているような感覚に陥っている。本を読んでいる時もまた、わたしは知らない誰かと出会い彼らと同じ世界で呼吸をしているような感覚になる。わたしではない誰かの身体に入り込み、作中の世界を生きているのだ。
そして、山田悠介の作品はわたしにとって最も中毒性のあるコースなのだ。究極の選択を迫られる、そうわかっていても著者が主宰する次のゲームに参加せずにはいられない。