本作『不倫』は、ブラジルのセスタンチ社から二〇一四年に出版された『Adultério』の翻訳である。
 本書の主人公、リンダはスイスの都市ジュネーブに住む三〇代の女性。容姿端麗、既婚、子どもが二人おり、有力新聞社で将来を嘱望されているジャーナリストである。そのうえ夫は国内でも有数の資産家の跡取り息子で、結婚して一〇年が過ぎたいまでも、熱烈に妻を愛しており、子どもの教育にも熱心だ。まさに理想の結婚相手である。こうも恵まれた状況下にいる人物が主人公では、読む側は、感情移入どころか、反感すら覚えかねない。
 ところが、そんな順風満帆の人生を送っているリンダが、とあるインタビューで聞いた言葉をきっかけに、人生に疑問を持つところからこの物語は始まる。しかも、その疑問が自分でも何なのかよくわからない。具体的な原因もつかめないままに、リンダの毎日はどんどん色あせ、空虚なものになっていく。
 人知れずもがき苦しむリンダの前に、一〇代の頃の恋人、ヤコブが現れる。政治家として出世街道を歩んでいるかに見える彼もまた、実は深い孤独を内に抱えていた。リンダは彼とならば分かち合えるものがあると、ヤコブとの危険な関係にのめりこんでいく……。
「世界でも有数の安全な国」に住み、「人生は順風満帆、自分は良き妻、良き母だと思って」おり、「やるべきことは巧くやり、なるべく入れ込みすぎないように気をつける」という主人公は、正直なことをいえば、当初は傲慢さが鼻につく。ところが、ここからがコエーリョの真骨頂。やがて『ジキルとハイド』のようにリンダのもうひとつの顔が現れてくると、とたんに血肉が通い、(本人は憔忰しきっているものの)いきいきとした魅力的な女性に見えてくる。そして、やはりコエーリョ作品ならではの神秘的な出会いや言葉もあり、スピリチュアルな気づきにあふれている。
 コエーリョの作品に対しては絶大な賛辞がある一方、批判も決して少なくないことは事実である。本作に対しても、からい点をつけた書評はあったようだ。だが、一方で、熱烈な読者の支持を得ていることも見逃せない。
 絵に描いたような背景が主人公に与えられたのはなぜか。
 実は、本書には多くの登場人物が出てくるというのに、固有名詞は三人しか明かされない。主人公とその愛人、そして愛人の妻だけだ。リンダの夫も、子どもたちすらも、一度も名前が出てこない。「この本を表面的に読んではいけない」と多くの読者がコメントしている通り、作者の隠れた意図をくみ取りつつ本書を読み、その深さに気づいていただきたい。
本書は、本国で出版されたのと同年に数カ国で翻訳版が出た。当初、『Adultério(不倫)』という題名は、あまりにも直截的で身も蓋もないのではないか、こんな題名の本を読者は手に取るだろうか、と出版社も、コエーリョの妻すらも危惧したそうだが、コエーリョは譲らなかった。翻訳版も、代替案として「情事」や「不貞」といった題名を提示してきた国がいくつかあったそうだが、最終的にほとんどの国で原題を尊重することで落ち着いた。
 そして、売れないのではないかという心配は杞憂に終わった。本書は世界の多くの国で話題となり、米国のニューヨーク・タイムズやロサンゼルス・タイムズでベストセラー・リストの上位にランクインしたこともある。また、『Adultério』という単純なタイトルには、ハッシュタグをつけやすいという利点もある、とコエーリョは明かしていて、戦略的な一面も見せている。ちなみに、ハッシュタグとは、ソーシャルメディアの中で、「#」記号で始まるキーワードまたはフレーズのことを指す。ハッシュタグをつけて情報を発信すると、そのキーワード、フレーズに興味を持つ人がたどりつきやすくなるのだ。
 この一例からもわかるように、コエーリョはソーシャルメディアを使いこなして、自らの言葉を発信して拡散し、新たな読者を呼び込むことに成功している。事実、本書の執筆のきっかけは、インターネット上でのファンとの交流だったと、複数のインタビューで明かしている。
 現代的な問題を掘り下げたいと考えていたコエーリョが、多くの人が抱える悩みとして「欝」を想定し、読者に悩みについて問いかけてみたところ、圧倒的多数が「配偶者の不倫に悩んでいる」という答えを返してきたという。これで、次のテーマは「欝」ではなく「不倫」だと、すぐに決まった。満たされた生活を送りながらも満足できないのが現代人であるが、コエーリョは、それはよいことだと言う。「満足してしまったら、進化はない。不満があるからこそ、人は前へと進むのだ」と。
 本書のもうひとつの魅力は、スイスの描写だ。
 大きな事件は起こらず、しょっちゅう国際会議が開かれる安全な街。自然を大切にし、約束をきちんと守る住民、美味しいチーズとワイン。いかにもスイスらしい生真面目さ、端正な美しさを、どこか斜に構えて描いている。
外国にいると懐かしくなるのは、この街のとてつもないダサさだ。ガラスと鋼の高層ビルもなければ、高速道路もないし、木の根っこがアスファルトを突き破って伸びているものだから、しょっちゅうだれかが転んでいるし。公園の花壇には雑草がはびこり、それを〈これこそが自然〉と言ってのける神経。要するに、すべてが近代化され整っているがゆえに独自の魅力を失ってしまったほかの大都市とは違う、それがジュネーブだ

本書16ページより

書籍

『不倫』

パウロ・コエーリョ 訳:木下 眞穂

定価 1123円(本体1040円+税)

発売日:2018年10月24日

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    書籍

    『ザ・スパイ』

    パウロ・コエーリョ 訳:木下 眞穂

    定価 864円(本体800円+税)

    発売日:2018年06月15日

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