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レビュー

研修医は患者の心の扉をノックする 『祈りのカルテ』

 人は医師として生まれるのではない。医師になるのだ。
 ボーヴォワール風に書き出してみたが、現役医師でもある知念実希人(ちねんみきと)の最新作『祈りのカルテ』は、そういう小説である。過去に何度も病院に足を運んできたが、初対面の医師に診断を受けるたびに、この人はなぜ今の専門を選んだのかしらん、と空想に(ふけ)る。ご存じのとおり、医学部に入って国家試験に合格した者は、二年間の初期臨床研修を受けることになっている。病院の中のさまざまな科で経験を積んだ後に自分の属すべき場所を決めるのである。すべての医師は、どこかで大きな決断をしている。たぶん、そのときに本当の意味で医師になるのである。いつ、どんな理由でそれを決めるのか。大いに気になる。
『祈りのカルテ』は五篇からなる連作短篇集だ。主人公の諏訪野良太(すわのりょうた)も医師のたまごであり、今は出身である純正(じゅんせい)医科大学附属病院で研修中である。同大学ではすべての研修医に救急部当直が義務付けられている。その患者が搬送されてきたのは、良太の当直が終わりかけた午前二時過ぎのことだった。山野瑠香(やまのるか)、純正医大の有名人である。彼女は毎月末、睡眠薬を大量に飲み、自分で救急車を要請しては病院に運ばれてくるのだ。もともと瑠香は、現在良太が研修を受けている精神科の患者で、リストカットなどの自傷行為をして受診していた。二年前に離婚してからは、それが定例の睡眠薬騒ぎに変わったのである。
 第一話「彼女が瞳を閉じる理由」は、この患者に関する物語である。山野瑠香はなぜ危険な真似をし続けるのか。疑問を感じた良太は、彼女の行動パターンについて考え始め、あることに気づく。その瞬間から彼には、瑠香の本当の(かお)が見えるようになるのである。愚かな行為と眼に映っていたことにも、彼女なりの切実な理由があった。
 各科で経験を積む良太は、行く先々で瑠香のように秘密を抱えた患者に出会う。早期胃癌(いがん)の診察を受けた男性は、なぜ負担の少ない内視鏡手術を受けることを拒否したのか(「悪性の境界線」)、入院して治療中であるにもかかわらず、なぜその女性の火傷は拡がったのか(「冷めない傷痕」)――そういった疑問が物語を牽引(けんいん)していくのである。
 人間は誰でも病気になり、傷を負う。生物として避けられない必然だが、そのことに誰もが根源的な恐怖を抱えている。だからこそ医療小説は書かれるのだ。本書は病変や怪我そのものではなく、それに対する患者の心の動きを描くことを主眼としている。ある者は不安に苛まれ、別の者は加療に臨む自分の真意を隠し通そうとしている。それが奇妙な行動となって現れるのである。諏訪野良太はそうしたサインを読み取ろうとする主人公だ。患者の心に向き合うことは、身体の異変にたどり着くための扉を開く鍵になるだろう。
 本書のユニークな点は、良太がまだまだ半人前の研修医として設定されていることだ。近い将来、彼は進むべき道を決めなければならないのだが、自分の適性がどこにあるかをまだわからずにいる。「彼女が瞳を閉じる理由」で良太の指導にあたる精神科の立石聡美(たていしさとみ)は、患者と真摯に向き合おうとする態度を高く評価しつつも、彼は精神科に向いていないと告げる。精神科医は距離を取って客観的に患者を診なければならない。良太は他人の気持ちに寄り添おうとし過ぎるのだ。それは精神科医としては欠点だが、人間的には美点であると彼女は言う。では自己を重ね合わせられる専門は何なのか。各話で患者の心に潜む謎を解く良太は、同時に自分の内奥を覗きこみ、医師としてのあるべき姿を模索し続ける。その態度に深い共感を覚える読者は多いはずだ。
 最終話、ついに良太は道を発見し、医師としての第一歩を踏み出すことになる。最後のページを読み終えたとき、盛大な拍手を送りたくなっている自分に気づいた。行け、良太。


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