小説 野性時代
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【新連載試し読み】諸田玲子「女だてら」
12月12日(水)発売の「小説 野性時代」2019年1月号では、諸田玲子「女だてら」の連載がスタート!
カドブンではこの新連載の試し読みを公開します。
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文政の世、女の姿を捨てお家のために働かんとする漢詩人がいた――。
秋月藩の女流詩人・原采蘋の 謎に満ちた人生を描く、圧巻の連載が開幕!
序
小さな偶然が重なって、おもいもしない真実にたどりつくことがある。わずかな間隔で立て並べた将棋の駒の片端を押せば次々に駒が倒れてしまう、将棋倒しさながらに。
文政十一年三月二十一日。神田橋御門にほど近い駿河国田中藩の江戸上屋敷。藩主であり若年寄という要職についている本多遠江守正意は、駒を打つ手を止めて控えの間へ目をやった。近習の若侍が敷居際で膝をついている。
「なにごとだ」
色白細面の優男に見えるが、遠江守の眼光は鋭い。
「御目付の桜井勝四郎さまが、殿にごらんいただきたきものがおありとか、お目通りを願い出ておられます」
「わかった、会おう」
「こちらへお通ししてもよろしゅうございますか」
若侍は主と将棋盤を見比べた。
「かまわぬ。考え事をしていただけだ」
遠江守は、難問が山積みになっているときなど、将棋の駒を打って考えをまとめることがよくある。
「されば、お呼びして参ります」
若侍は退出した。と、いくらもしないうちに、三十がらみの武士が入ってきて下座で両手をついた。
「遠慮はいらぬ。近う」
「おくつろぎのところ、ご無礼をいたします」
桜井は一礼して、膝を進める。
「くつろいでいたわけではないが……」と、遠江守は苦笑した。「見せたきものとは」
「これにございます」
桜井はふところからふたつに折りたたんだ長細い紙きれをとりだした。両手にかかげてさしだす。
「一昨日の朝にございますが、赤羽橋と金杉橋のあいだの掘割の明地に武士の死体があると、徒目付より知らせがありました」
たまたま所用があって対岸の増上寺にいたため、桜井は現場へおもむいた。
「二十代の半ばとおぼしき武士にて、国許への急使でも仰せつかったか、旅支度にございました。が、路銀はうばわれた模様にて、身許のわかるようなものはなにひとつ……。近ごろ流行りの辻斬りにでもおうたかととりあえず番所へ運ばせましたが、傷跡をたしかめると、そうとも断言できず……」
下手人は一人ではないらしい。死体には応戦したような形跡があった。
桜井は番所の者たちに芝新網町界隈で聞きこみをさせた。徒目付は徒目付で、近隣の武家屋敷へ問い合わせて歩いた。が、どこも心当たりはないようで、身許はいまだ不明のままだ。
「ところが……」と、桜井は身を乗りだした。「いつまでもそのままにしておくわけにもゆかず、荼毘に付す前になにか手がかりがないかと、今一度、念入りに調べましたところが、二重に縫い合わせた脚絆の片一方からその紙きれが……」
ごらんくださいといわれて、遠江守は紙を開いた。
長安不見使人愁 白圭
ひと文字ひと文字、かっきりとととのった字体で九つの漢字が書かれている。
「白圭……」
「はい。これは号かと……で、おもいだしました。いつぞや、遠江守さまが『白圭もなかなかやるな』とつぶやかれましたのを。あれはたしか久留米藩の高木さまが漢詩の集まりを催されましたときで、偶然、お近くに座らせていただきましたため、お声が耳に入りました」
「さようなことがあったかのう」
本多家では文武を奨励している。上下を問わず人気を博しているのは俳諧だが、遠江守は漢詩にも造詣が深い。
「おう。そうだ。白圭という号をもつ男なら知っておるぞ。筑前国秋月藩の儒学者、原古処どののご嫡男だ。おふた方とは江戸参府の際に会うたことがある」
「されば死体はその白圭どの……」
「いや、白圭どのは秋月におられるはずだ。古処どのは昨年、身罷られた」
「しかし、なにかかかわりがあるやもしれませぬ」
「うむ。脚絆に縫いこまれておったというのが気にかかる」
秋月藩の屋敷も掘割沿いにあり、武士の死体が見つかった場所とさほど離れていない。だが桜井によると、徒目付に聞き合わせをさせたものの、所在不明の家来はいないと慇懃に追い返されてしまったという。
「お手間をとらせましてございます。遠江守さまからうかごうたと話して再度……」
桜井は腰をうかせようとした。
「待て」と、遠江守はひきとめる。「あわてるな。それよりこの漢詩だ」
「はぁ。これは白圭どのの御作にございましょうか」
「李白だ。そのほう、李白も知らぬのか」
「あ、いえ、面目もございませぬ」
身をちぢめる桜井には目もむけず、遠江守は半眼になって漢詩をつぶやいた。
「長安は見えず、人をして愁えしむ」
「なにか意味がございますので……」
「意味があったればこそ、脚絆に隠し、だれぞに命がけでとどけようとしたにちがいない。そうではないか」
「は、はぁ、仰せのとおりで」
「あえて李白の詩を認め、白圭どのの名を記した。深い意味があるに相違なし」
遠江守はしばらく思案していたが、桜井に視線を戻したときはゆるぎない目の色になっていた。
「これはわしがあずかる。このこと、口外無用。尋常の聞き合わせはよいが、秋月黒田家でよけいなことをいうてはならぬぞ」
「かしこまりましてございます」
桜井を帰して、遠江守はもう一度、李白の漢詩を吟じた。
この漢詩は四句からなっている。最初の二句は雄大な景観をうたった対句で、そのあとの二句が「總為浮雲能蔽日 長安不見使人愁」とつづく。「總為浮雲能蔽日」とは「すべて浮雲のよく日を蔽うところとなり」と読み下し、言葉どおりの意味とはいえ、ただ単に景色をうたっただけの詩か、といえばそうともいえない。
李白は長安の都で一時期、玄宗皇帝に仕えていた。が、讒言により追放されている。失意の中でうたったこの詩は、浮雲になぞらえた邪な家臣が皇帝をあやつっていることを今も愁えている……という意味を暗に含んでいるとも解釈されていた。
遠江守の知るところによれば、秋月黒田家でも十七年前、家臣の讒言によって家老二人が罪に問われる大騒動があった。古処はそれに腹を立てたか揉め事があったようで、息子に家督をゆずり致仕してしまった。秋月黒田家では以後、本家の黒田家より送りこまれた家臣どもが内政を牛耳り、今日に至っていると聞く。
昨秋、秋月黒田家の嗣子が急死した。一日も早く継嗣を定めなければならない。となると、今また忌々しき事態が起こっているとも考えられる。
正体不明の武士の斬死も、もしや、この一件とかかわりがあるのではないか。
遠江守は飛車を将棋盤へおいた。
「だれかあるッ。すぐ参るよう、家老に伝えよ」
飛車は、縦にも横にも、敵陣へも自在に動かせる。
打つ手はもう、決まっていた。
(このつづきは「小説 野性時代」2019年1月号でお楽しみください)
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